”今日も暑いなあ...”
沙織は、額の汗を拭いながら、空を見上げる。
遮る物の無い初夏の青空から、色白の沙織に日が照りつけた。

ただ、そんな感傷に浸っている訳にもいかなかった。

神戸のポートアイランドの先に無理やり埋め立てられたマリンエアの滑走路
に沙織の職場があった。

「C4の機材、清掃終わってるのか?」

沙織の上司の激が飛ぶ。

「すみません。まだです! 直ぐに!」

油まみれの汚れた作業着が沙織の汗でさらに汚れていった。
沙織は新しく建造された神戸空港で働いている。

特に飛行機が好きと言うわけではない。
時給が良かったのだ。

本来は男性の職場であったが、お金が必要である沙織には、単純清掃とは言え、良い職場だった。


その沙織の横を紺のタイトスカートに爽やかなブラウスをまとった、沙織と
同世代のCA達が、通りすぎる。
「御苦労さま。」

笑みを浮かべ、あいさつはしてくる物の、まともに視線も合わせなかったり、ちら見で、卑下の視線を浴びせる。

”なによ!!”

沙織はそう思ったが、相手は航空会社の正社員。しかもCAだった。こっちは派遣の清掃員だった。
立場が違いすぎる。しょうが無いのだ。

”いいの、私は”

それよりも、お金が必要だった。特に借金をしている訳では無いが、
大の男を一人、養う必要があった。

”悠一のため...”

沙織はオイルにまみれた工具を磨き始めた。

沙織には悠一という3つ上の彼氏がいる。彼氏でもあり、幼馴染でもあった。
子供のころからずっと一緒で、小学生のころにはもう、沙織の夢は、”悠一のお嫁さん” だった。

ただ、悠一は、高校のころから演劇にはまり、30近い今でも、売れない俳優だった。
もちろん、沙織は悠一の才能を信じていた。というより、自分だけでも信じてあげなければ!
と思っていた。

「大丈夫!私が食べさせてあげる!」
そう言ってから、かれこれ、数年の年月が流れていた。

...

「今日もやっと終わった!」
沙織は仕事が終わると、オイルにまみれた作業着を脱ぎ捨て、帰宅の準備をする。
仕事終わりのシャワーは、至福の時だった。

シャワーから揚がり、携帯を手に取ると、悠一からメールが入っていた。

”何かしら...”
沙織は片手で携帯を操作する。

「主役級の役をもらえる事になった!! しかも映画作品!!」

嬉しいメールだった。
”主役級!!? すごい!”  素直に嬉しかった。”悠一、頑張ったね!”

簡単に返信を済ませると、急いで家路に着く。自宅の住吉まで、30分程度であったが、
長く感じる。

帰りのモノレールに乗りながら、沙織は、悠一が有名になり、俳優夫人になった自分を想像していた。


....


帰宅すると、悠一は嬉しそうに、真新しい台本を沙織に手渡す。

「映画デビューだぜ!ヒロインの相手役を名指しで、やらしてもらえる事になったんだ!!」

悠一は嬉々として沙織に役の説明をする。

「今までに見たいに、セリフがなかったり、一行コメントみたいな役じゃないんだ!」

「すごいじゃん!」
沙織は、台本に視線を移し、あらすじを確認する。


”....えっ。!!”


「どうしたの?  良い役だろ! ヒロインの想い人だよ。」

「そ、そうよねっ良かったね...」沙織はやっとの思いで返答する。

確かに悠一の役は主役級だった。ただ、主人公とのラブシーンが至る処にあり、
キスシーン所か、ベッドシーンまであった。

”俳優だもの..しょうがない...”
胸に何かが渦巻くが、そう思うしかなかった。

ただ、少し府に落ちない。そんな沙織の気持ちを察する事無く、悠一は素直に喜んでいる。

「そういえば撮影に同席頼むよ。 ほら、おれマネージャーいないだろ? だから沙織で登録しちゃったんだよね!」
悠一はさらに残酷な申し出をしてくる。


「さ、撮影現場に私も行くの?」 沙織は確認する。
「もちろん! 俺の晴れ舞台に、沙織が一緒でなきゃどうする!!」

悠一は、心の底から喜んでいた。

...

その日の夜、悠一はめったに飲まない、アルコールを口にし、早々に寝入った。

「....はあ。」
沙織は嬉しい様なさみしい様な感傷に浸る。
机の上にある台本を再度手に取る。

「見たくない!!」そう思った物の、台本を開く。ページをめくろうとする沙織の細い指がかすかに震えた。

『悠一! あなたの事が一生忘れられない。 アイツの元に嫁いでも、この想いが消えない様に、
私の体にあなたを刻みこんで!!』

沙織は、台本のクライマックスの箇所を読み流す。
脳裏に悠一と、知らない女優の体が重なる。

「厭っ!!」

沙織は台本を閉じ必死に首を振って、脳裏に浮かんだ妄想を吹き飛ばす努力をする。
ただ、そんな努力は無駄だった。

ふと横を見ると、本物の悠一はベッドですっかり寝入っている。
ただ、そこに重なるように女優が寄り添って沙織の悠一を、抱きしめに掛っていた。


「あっ..」
ダイニングの椅子に座りながら沙織は、自分の悠一をまさぐる女優の姿を想像し、
自分の指を自分の内腿に沿わしてしまった。

「駄目っ.....」
そう思っても止められなかった。

沙織は悠一に気づかれない様に、少しずつ指の速度を挙げ、遂にはせわしなく指を動かす。

「うっうう。」
声を必死に抑えながら、沙織は自分の悠一を見ず知らずの他人に盗られる事で、興奮していた。

”...こんな事で興奮してる...私。”
沙織は情けなかった。

ただ、心から沸き起こる黒い気持ちを抑える事が出来なかった。

”悠一!”『悠一!』

沙織と、妄想の中の女優が一緒に、悠一の名を叫んで果てた後だった。
余韻に浸りながらも、気付かない訳が無かった。


”...役の名前が  悠一  ??!”
慌てて女優の配役を確認する。

”あっ!!”
そこには、”今井 由紀”という名前があった。
この今井由紀は、最近テレビドラマに出演している売れっ子の女優であったが、
そんな事よりも、前回、悠一がちょっとした役をもらった時の主演も由紀であった。

”まさか...”

”そ、そんな!!駄目よ!!”
沙織は、寝入っていた悠一を起こす。

「悠一!! ちょっと起きて!」
必死だった。

「なんだよ! もう!」
悠一は眼を擦りながらも、起き上がる。

「配役の名前なんだけど、なんで悠一なの?役名じゃなくて、本名じゃない!」 沙織は確認する。

「ああ。女優さんの方から、より感情移入できるからって要望があった見たいなんだよ。」
悠一は、どうってことない感じで、返答した。

「今回、悠一を配役してくれたの監督でしょ? も、もしかして今井由紀が悠一を指名したの?」
沙織は胸騒ぎを悠一にぶつける。

悠一は沙織の権幕に驚いたようだった。
ただ、それが沙織の嫉妬とは思っていないようだった。

「そうなんだよ! 嬉しい事に前回共演した際に由紀さんに俺の演技が気に入られた見たいで、
 監督に推薦してもらったんだ! しかも役名を、自分の名前と同じにしてもらえてさあ。
 おれ、あの今井由紀に気に入られたなんてラッキーだよな。」

悠一があまりに嬉しそうなので、沙織もそれ以上の追及ができなかった。

”俺の演技が気に入られて..”それならば素直に喜ばなければならない。


”私でも知ってる今井由紀だもん。悠一の事じゃない。演技を気に入ったのよ”
沙織は心のわだかまりが解けないまま、納得するしかなかった。


....

わだかまりは解けないまま、撮影のクランクインの日がやってくる。

沙織は、悠一のマネージャーとして、撮影所に向かった。

撮影所は、宝塚付近でそれほど土地勘の無い場所ではなかったが、
敷地の中に入ると、沙織を圧倒するほどのセットや機材が処狭しと並んでいた。

圧倒されたのは、

機材だけでは無かった。出演者たちも集まり始めており、芸能界に
あまり興味の無い沙織ですら、脇役として認知している面子が、集っていた。

「ちょっと、あいさつしてくるから、ここで待ってて。」
悠一は、沙織に、部屋の隅で待つように指示して、自分は役者仲間の元に向かった。

「おはようございます!」
「おはようございます!」

悠一は、一人ひとりに挨拶していく。新人として、失礼の無いように、一所懸命に
回っていた。

沙織は一人、撮影所の隅で様子をうかがっていた。
少し不安はあるものの、やっと悠一が日の目を浴びたと思うと、ただ素直に嬉しかった。

そんな中、スタッフの何人かが、急に慌ただしくなった。
「由紀さん、入られます!」

主役の登場であった。

周りが由紀に近づき、あいさつをしていく。

”うわ綺麗!!”

沙織は、由紀を見て驚いた。TVで見るより、かなり細く、同姓の目から見ても、素敵な女性であった。
”やっぱり女優は違うなあ..”
沙織は、そう思った時だった。

「由紀さん、今回はありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
悠一も、由紀に近づき挨拶をした。

”えっ!”
他の共演者にはしなかった行動を由紀が取ったのである。

他の共演者には、会釈や挨拶をしただけであったが、由紀は、悠一にかなり近づくと、
悠一のTシャツから出た二の腕に、自分の手の平を添わせ、
耳元で何か囁いたようだった。

”な、何を話したの?!”

沙織に疑念が湧く。
ほんの一瞬だったため、周りはあまり意識していないようであったが、沙織を困惑させるには、
十分な行動であった。


由紀に挨拶を済ませた悠一が、沙織の元に戻ってきた。
「いやあ! 緊張するなあ。」
悠一は、別段普通に沙織に声をかける。

ただ、先ほどの由紀の行動が気になった沙織は、悠一に確認する。
「さっき、由紀さんに何か話しかけられたでしょう!」

「えっ! ああ、あれは....」

悠一が沙織に返答しようとした時だった。
「悠一、だれこの子?」
沙織が気付かぬ間に由紀が近づいて、悠一に沙織の確認を行ってきたのだった。

”ちょっと、私の悠一を呼び捨てにしないで!”
そう言いたい気持ちを沙織はぐっと抑えた。

「由紀さん。僕のマネージャーです。」
悠一が、由紀に沙織を紹介した。
ところが由紀は、沙織に目もくれず、「さん付はやめてね。由紀って呼んで!恋人でしょ?」

そう言って、さらに、由紀は悠一の腰に手を伸ばすと、上目づかいで、悠一を見つめる。

「こ、恋人!」
我慢できず、沙織はつぶやいてしまった。
さすがの悠一も沙織の口から出た言葉で、沙織が疑いを持っていることを悟った様だった。

「や、役の上だよ!ねえ。由紀さん..いや由紀!」
悠一は、沙織の方に首を向け、笑いながら、言い訳をする。
ただ、まだ、由紀の透き通った細い手が、悠一の腰から離れない。

話かけられた由紀は、冗談を否定しなかった。

それだけで無かった。由紀が、沙織に視線を向けていた。
”何なのよ...”


由紀の視線は、明らかな敵意が込められていた。
沙織は、由紀から悠一を引き離そうと悠一の腕を掴んだ。

その時だった。タイミング悪く、助監督より声が響く。
「悠一君! テイク1撮るよ!」

本当にタイミングが悪かった。「解りました!」

「後で!」と、沙織にか、由紀かはっきりしない言葉を残すと、助監督の元に向かう。

沙織と由紀が二人になる。しかも片方は、今を時めく女優で、スタイリストに入念に化粧された、
オーラがある。

”ど、どうしよう...”
沙織が詰まった時だった。

「悪いけど悠一、譲ってくれない?」

その言葉に沙織は固まってしまった。

「あなたより、悠一を有名にできるし、幸せにする自信もあるわ。あなたにはそんなことできないでしょ?」
そして、由紀は笑みを浮かべる。
「あっマネージャーさんに、こんな事話しても無意味よね。悠一、彼女って紹介しなかったし(笑)」

嘲笑を浮かべたまま、由紀はこの場を去る。

「ちょっと待って!」
沙織が由紀に声を掛けるが、由紀が答える事は無く、現場へと戻る。


”な、なんでこんな事に?”
”厭、悠一失うなんて厭! 負けない。”
”相手は有名女優で、すごく綺麗....”
”けど、厭な女!!”

いろいろな事が頭を駆け巡る。  
が、
ふと、現場に目を向けると撮影が始まっていた。

撮影が始まると、マネジャーの立場である沙織が口を挟む事などできなかった。
また、周りは多忙を極め、悠一の時間を取る暇などなかった。

次々と撮影は続いてく。



”悠一.....”
舞台上の悠一は輝いていた。”かっこいい!”彼が自分の彼氏である事を自慢に思った。
それと同時に、不安もよぎる。

”私...釣り合っているかしら”

沙織が、弱気になった時だった。

「テイク15  スタート!!」

監督の声が響く。

『今日でまたしばらく会えないのね』  由紀が悠一を見つめる。
『あなたには幸せになって欲しい!』  悠一が由紀に答えていた。

”このシーン....”
前半の盛り上がりのシーンだった。

由紀と悠一は歩み寄り、お互いを抱きしめる。

『駄目だ! 由紀! お前を渡したくない!』 悠一が真剣に由紀を抱きしめる。

”キスシーン...”
台本の通りに撮影は進んでいた。
”演技よ...”

沙織は、自分自身を言い含める。
”二人は固く目を閉じ、キスをする...”

台本に書いてあった事を思い出す。

舞台上の由紀と悠一も台本と同じように、顔を寄せ合い唇を合わせる。

”厭!!!!!”
演技と解っていても厭なのにもかかわらず、先ほどの由紀の言葉が脳裏に浮かぶ。

”譲らない!”
沙織はそう思っても、舞台の二人は抱擁をしていた。


”!!!!”
その時だった。固く目を閉じているはずの由紀が、悠一とキスをしながら、目を開け、
沙織に視線を浴びせる。

別れのシーンのはずなのに、由紀の、その口元が笑っていた。
 


 

 

次話に続く