新しい噺絵巻

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絵巻の噂話

「新しい噺絵巻 第7回 池袋演芸場 公演」

と き:00/05/22(月) 18:30〜21:00
会 場:池袋演芸場
須釜重美 作[看護の駕籠] 扇治
小佐田定雄 作[河童]    菊千代
伊東清 作[助かった]  南喬
林家彦六 作[年枝の怪談] 正雀
三遊亭円窓 作[鬼の通い酒] 円窓





客 席 か ら 紐 解 く 3

文責 千恵


 林家正雀師の[年枝の怪談]でどっぷりと情念の世界にハマッた後、トリは心にあ
たたかく語り込ける圓窓師匠の民話の世界。
 港の町、波の音―――、いいですね。
 そして、あの鬼、本当に居たんじゃないかしら。フィクションではないような気が
するのですが……。
 素朴で寂しがり屋で、しかも酒好きの鬼に「甘味じゃ駄目? 食べて行かない?」
に諭すように語り掛ける江戸の旅人。
 鬼に似た顔だったがために、「親に似ぬ子は鬼ッ子だ!」と、父親に捨てられたと
思い込んでいる、この鬼。お酒を飲んでは、父親に対する想いを吐露する鬼は、激昂
する。ここがすごい!
 そして、鬼の言う。「俺は鬼じゃない、人間なんだ」と。このとき、鬼は真顔なん
です。これもすごい!! 
 あたしは、ここで、最近の少年犯罪と父権の関係がチラッと頭をかすめるが、それ
よりも、もう哀しい気持ちがまさって、「『鬼っ子だ』って捨てたお父っつぁん、出
てきてあげて!!!」と絶叫したくなりました。完全にハマッてしまいました。
 ラストシーンの、砂浜を踏みしめて真っ直ぐに繰り出す鬼の足が、キュッ、キュッ
と泣くような音を立てる……。一里島に帰っていく鬼に、優しく声を掛けたい気持ち
になりました。

2000・6・10 UP

客 席 か ら 紐 解 く 2

文責 大蛇


 大蛇(茅野)です。
 既にあきらさんからレポートが出ていて、屋上屋を架すことになりますが、私もで
かけましたのでレポート提出します。
 簡単な内容紹介と、ひとくちコメントです。


【看護の駕籠】(須釜重美 作)(扇治)
 医院おかかえの駕籠かきになるには病人を早くて、しかも安全に運ばねばならない。
その採用テストに挑む早さ自慢の乱暴な駕籠かきの奇抜な工夫の一席。
 今回も演者の奥様の作。威勢のいい駕籠かきの描写はいきいきしていて楽しい。
 生卵を割らずに無事に運ぶという課題と工夫(帰りは茹で卵)に、もうひとひねり
ほしい気がした。


【河童】(小佐田定雄 作)(菊千代)
 泳ぎの下手な河童が子供と遊んでいて、誤ってその子供を死なせてしまったことを
めぐってのファンタジー。
 恩義への返礼、生命の復活、死者への鎮魂などなど、噺の背景に流れているものが
どれも心をうち、すがすがしい印象を受ける。
 今はやりの映画「グリーンマイル」にもどこか通じるものがあって興味深かった。


【助かった】(伊東清 作)(南喬)
 屋根から落ちて死にかけた熊さんが八っつあんに語るあの世とこの世の境の世界。
 新作にありがちな、出来たての硬さ・ぎこちなさを全く感じさせない、いかにも落
語々々した高座。


【年枝の怪談】(林家彦六 作)(正雀)
 冗談で按摩の首をしめて絶命にいたらしめたと思いこみ、その後その亡霊に悩まさ
れる噺家の噺。「真景累ケ淵」の高座もたっぷり挿入する二重構造の怪談噺。
 正蔵(彦六)で何度か聞いていて、安心できる噺。この会はみんなが新作をかける、
という点では反則だろうが、聞く側はこういうのが一つぐらいまじるとほっとする。


【鬼の通い酒】(三遊亭円窓 作)(円窓)
 佐世保の飲み屋で飲んだくれている鬼は人との交流を求めて島からやってくる。
 やさしい旅人に声をかけられ、心のふれあいがあって、しらふで島に帰って行くと
いう民話落語。
 映像をしっかり焼きつけようとする丁寧なエンディングが特に印象的だった。

2000・6・10 UP

客 席 か ら 紐 解 く 1

文責 あきら


 新しい噺絵巻には、以前から行ってみたかったのですが,機会がありませんでした。
でも、ずーーっと行きたいとは思っていたのです。
いわゆる新作ではなく、古典落語だと言われても判らないような、創作と言った方が
ぴったりくる落語があると言う事は、圓窓師匠と出会うまで知らなかったのですが、
とてもすばらしい事だと思っているからです。
そんなわけで、とても楽しみに出かけました。


 まず、ごめんなさい。前座のつくしさん。僕の到着が遅れたので聞けませんでした。
 と言うわけで、入船亭 扇治さん。
 日本一の噺家のかみさん(圓窓師匠のマクラ)須釜重美さん作 [看護の駕籠]。
 江戸一のスピードを持つが、扱いが乱暴で乗った人の命が危ないという駕籠かきが
病人の搬送を持ち掛けられる。ただし、駕籠に乗せた卵を割らずに水天宮まで行って
帰ってこられたらという条件付き。
 行きはストレスを溜め込みながらもなんとか、水天宮に着くが、ストレスに耐え切
れず、水天宮で卵にまじないをして、猛スピードで帰ってくる。
 親方が到着の早いのにおどろいて卵を見てみると、茹でてあった、という噺。
 面白かったです。
 でも、落ちの「死んだら湯灌をします」は、それまでの、ほのぼのとした江戸情緒
が一気にブラックになります。
 狙いだとしたら、こんなにすごい落ちは無いと思いました。
(どーゆー奥さんなんだか、一遍お会いしたい)


 次は、古今亭 菊千代師匠。小佐田定雄作 [河童]。
 旅人が命を助けた河童が、実は誤って村の子供を死なせてしまったという事。
 村人は、旅人を河童の仲間だと思って縛り上げて納屋に放り込んでいたところ、自
分が子供を死なせてしまったと知った河童が、自らの命を投げ打って村の子供を生き
返らせたという噺。
 すごく美しい噺でした。美しすぎて私の汚れた心にはちょっと食中りでした。
 落ちも小佐田ワールドという感じなのですが、全体的に美しいのでくどく感じまし
た。クスグリも丁寧過ぎて、先にネタ割れしてる感じがします。
 もっとも、うちの親にはこっちの方が親切でいいかも。
 旅人をもっとマヌケにして、くすぐりをいっぱい入れて、大爆笑にして最後に美し
い落ちだったら、私向きです。
 どうしても枝雀師のイメージから離れられないのかもしれない。ごめんなさい。


 そーゆー生意気な事を言う僕ですが、生意気でした。
 桂 南喬という噺家を今まで認識していませんでした。伊東清作[助かった]。
 ストーリーは、臨死体験をした熊五郎が息を吹き返したのは、天女だと思ってたあ
の世に誘う女が、自分女房の顔だったって噺なのですけど、、、、、。
 ストーリは単純ですが、南喬師匠の雰囲気が良いです。
 今でも長屋に住んでいるんじゃないかと思われるような、「ザ長屋のおじさん」と
呼びたい方です。本当に面白かった。
 伝えたり無いのでもっと書きますが、長屋で気のおけないおっさん達が、ワイワイ
話ているそのままが高座に現れています。
 伊東清先生という人は細部まで描く方だそうなので、細かい演出も伊東先生がお書
きになったのかもしれませんけど、南喬師匠に溶け込んでいます。


 林家 正雀師匠は、林家 彦六作 [年枝の怪談]。
 年枝という噺家が誤って人を殺し逃げて、逃げた先で芸に磨きがかかり殺したと思
ってた按摩も実は生きていたという、こう書いたら、なんだか訳がわかんないですけ
ど、これは僕の書き方が悪いんです。でも、能力の限界でちゃんと説明できません。
ごめんなさい。
 この噺は、噺の中で円朝の[真景累ヶ淵]が聞けるという、ひとつぶで2度美味し
い噺でした。
 これは、やっぱり正雀師匠の話術なんでしょうね。面白かったです。


 最後は圓窓師匠の自作[鬼の通い酒]。
 佐世保の九十九島に住む鬼が、居酒屋にやって来て父親を探すという噺。
すんなり書いちゃったですけど、正雀師匠といい、もうここまで来ると僕の文章能
力の限界です。
 この噺、すごくビジュアルです。鬼が酔いつぶれてカウンターで寝ていると、江戸
からやって来た旅人に、お店のおかみさんが酒乱な鬼の愚痴をこぼしている。それが
違和感なく描けていました。
 自分が親に捨てられて鬼になったと主張する鬼の気持ちも、それでお酒を飲んで暴
れてしまう心持ちもヒシヒシと伝わって来て身につまされます。
(注:私は酔っても暴れません、、、、たぶん)
 そんな鬼にやさしく意見をする江戸の人が、また心に染みます。
 本当に、酔っ払いには心に染みる噺でした。(酔っ払いでなくても染みます)
 落ちも、それからどーなるんだーーと思ってる矢先にストンと落とされて、「また
落語にしてやられたーーー」と喜んでました。
 でも、百島が九十九島になるくだりは、もっと利かせても良かったんじゃないでし
ょうか、、、、って、たぶん、また、言う筈だったところで言い忘れたとか、そんな
理由だと思うんですけど、、、、。 (圓窓追記「実は、そうなんです、はい」)
「新しい噺絵巻」はすばらしい企画だと思います。これからも楽しみです。

 
2000・5・27 UP








桂南喬 〔芸術祭大賞〕を受賞


文  六代 三遊亭圓窓

 平成11年度、落語協会の総寄合いのステージに立った南喬は、やはり、こみ上げてき
た涙を抑えることができなかった。
 今年度の芸術祭における〔大賞〕を受賞し、今日、協会から祝いの金一封が円歌会長か
ら手渡された瞬間である。
 南喬の頭の中は、今、いろんなことが走り回っているに違いない。

 今年10月26日、湯島天神の参集殿で開かれた、第34回[南喬ひとりっきり会]に
は、決意を新たに臨んだ。過去五回、参加している南喬は今回、特別企画を立て、創作落
語を三本並べた。
  斎藤政章 作  [あと三日]
  七草おかめ 作 [身替わり]
  伊東清 作   [親馬鹿]
 古典落語を主流と重んじる人の多い業界、しかも、南喬自身も古典で修行を重ねてきた
落語家。創作落語だけで参加するというのは、一種の冒険かも知れない。
 しかし、見事に〔大賞〕を射止めた。

 開場から嵐のような拍手を浴びた後、南喬はマイクの前に進み出た。
「この受賞で…、あたしを拾ってくれた…、小さん師匠への……、……、万分の一ぐらい
のご恩返しができました…。ご恩返しができたのも…、ひとえに小さん師匠のおかげです。
…、…、ありがとうございました……」
 いつもの高座とはまるっきり違い、抑制も効かなくなって、嗚咽で、調子も、間も、声
も崩れっぱなし。しかし、人間としての南喬の〔純〕がドッと溢れ出て、聞く者に感動を
与えた。

 昭和59年末、落語芸術協会が上野の鈴本演芸場と番組作りでこじれて、出演ができな
くなったとき、「寄席へ出たい」の一念で、落語芸術協会所属だった、文朝、文生、南喬
は意を同じゅうして、落語協会(当時の会長は小さん)へ移籍をした。
 あの当時、南喬も大いに悩んだに違いない。今、受賞という喜びの中で、その折、その
疲れ切った心を拾い受けてくださった小さん師匠への感謝が止めどもなく広がってきたの
であろう。
 あたし(圓窓)も、騒動のあおりで一度、協会を出た者なので、南喬の心中は少しは理
解できる。それだけに、南喬の言葉に当然のように涙した。

 あたしが南喬に熱い拍手を送る理由は他にもある。
 それは、あたしが古典レベルの創作落語を目指して、グループ〔新しい噺絵巻〕を旗揚
げしたとき、まず、馳せ参じてくれた一人だった。
 それまで南喬をゴツゴツの古典心棒者だと思っていたあたしは、びっくりした。
「あたしは圓窓師匠のように、自分で落語を創ることはできませんが、いい本があれば演
りたいのです」
 謙虚にいう南喬を見ていると、いい本を選ぶセンスがあり、また、それを咀嚼する才能
もちゃんと備えているので、返って、あたしは羨ましく思うことがある。
 あたしは他人が書き上げるのを待ってはいられない、というじれったさから、己れでキ
ーボードを叩いてしまう、いやな性格があって、どうしても自作自演が多くなり、結局は
ジレンマの繰り返しをしているようなもので、反省をしている。

 今回、南喬が受賞したことは、創作落語に携わる者にとって、こんな喜ばしいことはな
いはず。
 これを機に、〔新しい噺絵巻〕も大いなる前進をさせなくては、と心を燃やしている。

 我が友、南喬。ありがとう。