屋久島西部域の保護 基本構想概要

丸橋珠樹(まるはしたまき、武蔵大学人文学部)

歴史の流れの中に

 屋久島の住民にとって島の森との関係はどうあるべきかを、最も厳しく問いかけたできごとは、昭和48年の上屋久町町議会の「屋久杉原生林の保護に関する決議」であった。決議の理由は、以下の3点であった。「1、このまま伐採が続けられた場合、数千年の歴史を生き続けてきた世界の至宝ヤクスギは、学術的解明がまったくなされないまま、屋久島から姿を消すことになる。2、現在残された奥岳部分の伐採は、その地域が宮之浦川、永田川の上流にあたるところから、山間部での年間雨量1万ミリメートルを越える気候のなかで、下流河口付近に集中する居住者の生命、財産は常におびやかされることになる。3、近代物質文明の進歩は、森林に対し人間回復の場を要請し、原生林は国民の生活に不可欠なものとなった。」(町報237号、昭和48年7月1日から引用)。

 これは、森林を単に木材資源の生産の場として経済的な管理が主要な目標となっていた当時の国有林経営に対して、森林の多様な価値を認識し、屋久島憲法(大正10年、「屋久島国有林経営の大綱」)の原則に照らした国有林の森林経営を要求したものといえる。屋久島憲法そのものが、かつて国有林の下戻し訴訟の歴史を受け継ぎ導き出されたものであったと同様に、この決議とそれ以降の町の住民の森の価値の多様性の認識と伐採反対運動は、世界自然遺産への登録の基盤となったといえる。

島の森林と人との関係のあり方を常に議論し、哲学の構築し、リードしてきたのは島に生きる人たちであった。

生物多様性保全における西部域の重要性と保護活動

 こうした、地元の動きに対応して、新たな視点として取り入れられたのが、島の西部域から山頂部までの連続植生の価値の見直しであった。かつて集落周りにあった、神々しいまでの照葉樹林は、パルプとして伐採され尽くし、タブとシイの巨木が散在する林は記憶の中にしか存在しなくなろうとしていた。鬱蒼たる森の島のイメージと全く違って、山頂から海岸まで連続した自然植生が残存するのは、西部域方面と、海岸部が欠けるが尾之間への南部方面だけであった。この新たな視点を加えて、国立公園の地域指定見直しが計られ、現在の保護区の姿の骨格が整ったのである。この時には、地元からは瀬切川流域ととともに西部林道域も含めた保護が訴えられ、研究者グループもこの訴えに協力し、要望書等が関係各機関に提出された。この頃、生物多様性の本質は、多数の種が共存するばかりでなく、それらの間の複雑で精妙な種間関係にあることが明らかになり、「生物多様性」が鍵言葉(キーワード)として「共生」とともに多用され始めた。屋久島の森が、アジアの熱帯林や北方林との関連のなかで位置づけられ、地球の生物多様性の保全のなかでの屋久島の重要性が深く認識されるようになってきた。

 こうして、西部域は、屋久島の世界自然遺産地域の中核地域に含められた。当然のことながら、西部域は、博物館構想での中核地域として特段の配慮と入念な計画が必要であり、その重要性ゆえに西部林道の拡幅工事に対しては、町自身も再考を試み、また、国際霊長類学会、日本霊長類学会、日本生態学会からは拡幅を再考する要望書が提出され、マスコミでも大きく取り上げられた。これらの文書では、この地域の世界的な価値を損なわぬようとの真摯な訴えが強く叫ばれている。さまざまな議論や運動の結果、県道の拡幅工事計画は凍結されることとなった。

結び目としての博物館活動

 本博物館構想は、このような歴史の流れに立って、森と島に生きる人々ばかりでなく、島を訪れる世界中の人々との間を関係づける結び目として、空間的な広がりとともに時間軸上での結び目、つまり、未来の子供たちと今を生きている人々と森との関係の接点としての機能をめざしているといえる。別の表現をすれば、1、島の住民が保ってきた森や生物との関係や伝統的技法、2、研究者やナチュラリストによる森や生物多様性の研究、3、博物館活動の場に参加する人々のつながりの3つによって、島の歴史と自然全体としての屋久島の生物多様性を地球の自然誌のなかに置く作業とでも喩えることができる。

 しかし、ユネスコの生物圏構想や屋久島環境計画でみられるように、地域をそれぞれの目標を持つ段階的な構造として構成するゾーネーションの考え方には、陥りがちな欠点がある。それは、地域を機能・用途別に分割し、地域区分の連続性と全体の均衡を保つためのゾーネーションが、互いに他を排除する概念に変化する危険性があることである。極端な場合には、「保護区を設けたので、利用地域では利用の限界に挑戦できる」との誤解さえ生むことがあった。今回の提案は、大きな構造と哲学を、全てのサイズにおいて実現しようと努力することが、本博物館の場を保証すると考えようというものである。

 一つの例として、かつての屋久島の集落の美しさの源泉の一つであった家を取り囲んでいた石垣を思い起こして見れば理解しやすいかもしれない。木造の住居は、石垣と石垣に生されたガジュマルとケサンキ(ハマヒサカキ)で囲われ、台風を防ぐとともに、鳥や昆虫のすみかや食物となり、子供たちの遊び場でもあった。このような、家が軒を連ねることで「通り」が構成され、このような「通り」が集合して、集落を構成しているという構造が、いわゆるフラクタルな構造(入れ子構造)である。多様な価値と機能を合わせ持つ複合的な入れ子構造を維持し、あるいは創り出していくことが、博物館活動の場でもある。

 世界自然遺産の島であることは、遺産地域に指定された場所だけを保全するということではない。遺産地域のまわりの自然を適切に管理していくことなしに、それを達成することは、自然の入れ子構造の上で不可能ですらある。たとえば、農薬や化学肥料を無制限につかう農法が世界自然遺産の島にふさわしいものであろうか。これまで照葉樹林を伐採して造林したスギ人工林の将来をどうすればよいのか。自然と人間の営みを総合的に考えていくことで、これらに答える道を探るのが、ここでの博物館活動であろう。

博物館活動の背景となる基本認識と具体的な活動

 以下に基本認識と活動を提案するが、ここでは活動の事業主体としての組織を特定していない。提案を議論のたたき台として、より実現性のある屋久島にふさわしい博物館活動を育てて行くことが最も大切である。島全体のさまざまな施策と哲学が、屋久島環境基本指針・基本計画に則って計画的に組み立てられてこそ、博物館構想も生き生きと動き始めることができる。

1・基本認識

屋久島環境基本計画の理念と目標が前提であり、上屋久町・屋久町環境基本条例の三原則、共生と循環、情報公開、住民参加(女性参加)に基づき、環境破壊に予防的に対応する社会経済的構造の一部となる構想をめざす。

1)屋久島全体では、ユネスコ生物圏保護区の枠組みである「中核地域・干衡地域・移行地域」の三重構造を世界自然遺産地域や国有林地域ばかりでなく、屋久島の経済活動域や集落にも入れ子構造として持つよう構想キる。

2)自然遺産中核地域は、自然破壊につながらない限定的な利用のみを行うことを原則とする。特に、西部域のなかでは、限定的な教育的利用を主として、研究利用地域を明確に他と区別し、研究の進展に十分配慮する。

3)西部域に関しては、永田岳から永田と栗生を含む三角形を一つのまとまりとして設定し、同地域内の海の自然、奥岳の自然、前岳の自然を、集落の生業活動と一体としてとらえる。

2・インターネット「屋久島オープン・フィールド博物館」

マルティメディア時代に対応した、インターネットやホームページによる情報提供も行う。学術研究調査に寄与するとともに、屋久島での諸活動やプログラムの紹介を行う。

1)社会教育、環境教育、自然観察などの基礎となる調査研究活動を充実する。とくに屋久島での郷土教育の重要なメディアとして活用する。

2)生態系や生物多様性の重要性を認識し、生物の種間関係の複雑さと進化の過程を理解できる自然教育のプログラムを開発する。

3)こども、女性を含めた住民の積極的な参加による屋久島自然目録の継続的記録を集落単位で実施する。

4)社会教育、自然教育、モニタリングなどの事業へのボランテイア活動の受け皿となる。

5)自然と住民との共生の社会経済的背景の要であるヤクシマザルやヤクシカによる農林業被害防除対策を、研究者、農業従事者、行政の協力のもと強力に実行する体制について、積極的に支援する。

6)島全体の開発計画や工事などが、全て連携して環境基本計画にそって推進するための協議・点検機能をもつ組織として機能させる。

3・西部域を中心とする世界遺産地域の保全・管理・利用

西部林道を使った保護監視を兼ねた博物館活動により、世界遺産地域の適切な管理に基づいた利用様式を開発する。

1)西部域の世界自然遺産の継続的な保護管理と野生動物の保護管理のため、永田と栗生に照葉樹林ビジターセンター(仮称)を設ける。その恒常的なスタッフとして、1:自然観察指導と中核地帯・干衡地帯での保護監視、ガイドツアーの実施などを担う、2:野生動物の被害防除と個体数管理などを担う、専門的な教育を受けた人材を配置する。

2)西部域の保護監視を兼ねた生物季節の基礎調査、通過する観光客数などの通年のモニタリングを実施する。サルの餌付けの防止などの指導を行う。

3)照葉樹林ビジターセンターでは、山と海の自然観察に出発する前に、自己検索型のマルティメディア展示を主としたイントロダクションを行うが、自然そのものが博物館であるとの哲学を大切にして、大規模で画一的な展示は行わない。

4)遺産地域は、部分的には情報をもとにガイドなしで学習していく地域を整備するが、主としてガイド付き自然観察を行う地域とする。歩くことを基本とし、新たな道路、ロープウエーなどの大規模な設備は計画しない。

5)「足博」の経験とプログラムを生かした1日観察会を定期的に開く。各宿泊施設や入り込み口での広報を行い、観光との連携にも注意を払う。

6)永田から瀬切川への鳥越の旧道の回復を行い、古道の建設技術を研究し、今後の山岳地帯での道づくりのモデルを提示する。この活動では、西部域の中心である国割岳へのルートを確保することにもなり、永田を起点とした多様なルート選択を可能とすることにもなる。

7)永田と栗生を自然遺産の島の代表的集落として、地域の自然の保護と触れあいを基礎にした修景計画を作り、滞在型集落として、多様なメニューを開発する。生産活動、伝統的文化に根ざしたプログラムの開発に特に留意する。 また、島外からの学校教育の一環として、小中学生に滞在型自然研修の拠点を設置し 、多様なプログラムを積極的に推進する。

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