野も山も海も川も__聞き書き・屋久の島びとの自然観

安渓遊地(あんけいゆうじ、山口県立大)

 生物多様性はそこに生きてきた人々の文化的な多様性に満ちた価値観を守ることを通してはじめて実効的に保全されると、主として西表島での経験から私は考えています。そのことを考えるきっかけを与えてくれた人々に感謝しつつ、その知恵の言葉の抜粋をご紹介しておきましょう。なお、この資料は、1994年10月に鹿児島市で行われた、日本人類学会日本民族学会連合大会での屋久島関連のシンポジウムの席で配布したものの再録であることをお断りしておきます。

屋久島での高齢者のことば

(屋久島の季刊誌『生命の島』連載中。)

◎地の者が言うことを尊重しなけば成功するわけがありません

岩川貞次さん(大岩杉、通称「縄文杉」の発見者。)「屋久島の昔の家は、五寸角の柱でした。明治になって木を勝手に採れないということになって、柱は細くなりました。屋久島の山は、明治始めまでは島人のものだったのです。それを地租を払えないからと取り上げて国有林にしたのです。そのあとは、見てごらんなさい、国は屋久杉を皆伐してもうほとんど切りつくしてしまいました。

 昔の人は、皆伐しないで抜き木をしたのです。10本あればそのうち一本か二本を伐るのです。そうして空間があけば、日光がさしこんで、そこから子どもがいっぱい出てきます。密林の中には小さいのは一本も生えていないのに……。これを10本とも伐れば水害をひきおこします。昔の人は、屋久杉を永久に絶やさないようにうまい政策をとりました。地質にあわせて利用法も変えていました。
 ところが国有林になって皆伐したので水害も起きた。あの昭和52(1977)年 の永田の(土面川の)大水害につながりました。地の者の言うことを尊重しなければなにごとも成功するわけがありません。」

◎「この木にのぼれーっ」と倒した大木の魂に呼びかけるのです

岩川さん「まず、伐る木を決めます。伐る木が決まったら、この木をどう倒すかを考えます。枝を見て、枝が多い方を切って落としてやると、木は反対側に傾きます。やぐらを組んで高さ三メートルほどの所で伐ります。枝を落としたのと反対側に切り込みを入れて、最後に枝を落とした側を切って倒します。明日は倒すというときは、飯炊きの少年が立役者になります。

 この15歳の少年に、川べりに生えているユズリハの枝を三本切ってこさせます。採ってきたら、ミカンの接ぎ木のように枝を平たく削っておきます。あすは倒れるという日には、米と塩と魚の塩物とこのユズリハの枝をちゃんと準備しておくのです。

 いよいよ倒れるぞということになりますと、ピシピシピシッと音がしはじめます。「行くぞーっ!」と叫ぶと「バリバリバリバリーッ」という大音響をたてて木が倒れます。これが倒れたあと、ユズリハをもった少年は、パッと切り株の上に登って皮と幹の間に枝を差し込んで、「この木にのぼれーっ」と叫びます。そのあと、前日から準備しておいた米と塩と魚を捧げて祈ります。これは、大木の魂に呼びかけるのです。魂が空間に迷わないようにやるのです。わしらの小さい時分まではやっていました。」

◎山で寝る時は「今宵一夜の宿を貸してください」と土地を買います

岩川さん「大杉(縄文杉)を探してあるいていたとき、人夫二人を連れていきました。ところが、私が知らんうちにこの人夫が道にテントを張ったのです。絶対に道に張るもんじゃないんです。これは、神様が通られる所を邪魔する事ですからとんでもないことです。まあ、言い伝えがあるわけよ。
それを信ずるもの やから、私は、横抱きに抱いてこの二人をテントから外に投げましたがね、その晩、私は夢の中で驚いて飛上がったですよ。人夫たちも知らんからこういうことをするのですね。

 屋久島の山に行って今夜はここで野宿するという時は、山の「土地買い」ということをしなければなりません。決してそのまま寝ることはできません。弁当をとっておいて、飯とサバか飛魚の塩をしたものを、人の足の当たらないところに置いて、「今宵一夜の宿を貸してください」と願います。これが、宿を借りる代償です。必ず塩の入ったものを捧げるのは、清めるという意味だと聞いています。

 先にお話しした、道の真ん中にテントを張ろうとした人夫といっしょだった時は、これをやらんでひどい目にあったことがあります。夕暮れ、山の中ではガタッガタッと段がついて暗くなります。そしたら、下の谷から水のせせらぎの音の中に、私の名前をいれたように感じるんですよ。シャシャシャシャシャシャ、シャシャシャシャシャシャ、という音の中に自分を呼んでいるような声がしだいに大きく大きく聞こえてくるように思われてきます。信じておるもんじゃから。こうなるととても寝られるものではありません。それを「この木からこの間を今宵一夜の宿を貸してください」とかしわ手を打ってお願いすれば、それがひとつもないんです。信仰からですがなあ、不思議になんともないのです。」

安渓「いったい誰から土地を「買う」のでしょうか。」

岩川さん「それは、地神、荒神、水神からです。それらの神様をはじめとして大自然の恩bに対する、あらゆる大自然に対する信仰心なんだと思います。

 神とはなんぞや。大自然である。太陽の熱である。だからい まだに東に向かってかしわ手を打つじゃないですか。水があって生きられる。だから、それらを神様として拝むわけです。その信仰が屋久島の人にはあるわけ。」

◎咳払いで神様に知らせる

安渓「沖縄のある島ではね、トウガラシがあるでしょ、あれを畑で取る時に、いきなり取るなといいます。いちおう咳払いをするか、歌をうたうか、石をポンと投げてもいいから、それから取りなさいというんです」

Nさん(女性。90歳)「ちょっと、しるしをね」

安渓「これは、神様が眠っておられるから、ゆっくり起きていただかんとよくないという意味だと聞きましたね。染物用の藍や苧麻なんかも同じことだと言います」

Mさん(女性、86歳)「そうそうそう」

Nさん「わたしらもね、どんなに小さくても、水の流れている所をまたいで越えるときは、『エヘン』と息づかいしてから渡るもんや。村の中ではせんでもいいけれど」

Mさん「小川でも神様がおるものやから、息づかいすれば、神様がよけていくでしょうが」

Nさん「シジン〔水神〕様がおるから」

Mさん「山に行く時は、山の入り口で『ゴメンゴメン』というのよ。神様が驚いたらバチがあたるから、川でも山でも黙って通るなと、昔の人は教えたもんですが、今の人にそんなことを言うと、『そんなバカなことがあるもんか』というだけでしょう」

Nさん「信じてきたのにねえ」

安渓「そういう気持ちをなくしたから、水が汚れ、川が汚れ、海も、人間の食べるものも汚れて、またサルも山に住めなくなって里に降りてくるようになってしまったと思うんですよ。」

◎小さい花に生まれたい

Oさん(男性、70歳)「人類は、地球の害菌である。/しかし、思いやりあれば/花を見ることができる。これから何億年先の人たちが/花と交流できるか/それとも10年で滅亡するか/これは人間の心ひとつにある。

なぜ、自分というのが生まれたのか……。そして、自分はなぜ、いまここにいるのか?いまポカッと生まれたものじゃないですよね。

 地球がうまれて、いろんな生命がうまれて、人類がうまれて、そして自分がうまれ、いまここに生きている。そこには血の流れというか、ひとつのつながりがあります。

 この地球ができて45億年になるといいますね。してみれば僕のいのちも45億年のものだなあ、僕もそれだけ生きてきたんだなあ、と思います。肉体はわずか70年しか生きていないけれども、祖先のたましいが私に流れているのを実感するんです。

 この地球の中に、いろいろな生物とともに助けあってきて、いま現在の自分があるんだということ。それが本当にわかったら、そこから「思いやり」ということが出てくるんです。

 僕が「思いやり」というのは、「いのちを大事にしあって、すべての生物から喜ばれるように」ということです。これ以上壊してはいけません。これから、人間の生きかたを考えていかんといかんなあ……ということを考えています。

人間として生きている以上は、虫もけだものも、いのちあるものだから、大事にせんといかんなあ、と思います。植物も何も、すべての生き物は、お互いに人間であると思うんです。そして、互いに愛しあっていかんといかん。自分たちも自然の人であり、生きものたちは、大切な人たちなんです。

 そしてまた、この自分というものは二度とは出てこないんだということに気付くわけです。他人もそうでしょうけどね。だから、働くだけではものたりません。何かを残さないと……。自分らは45億年生きているけれども、のちの人たちは生きて行けるか。そのことを自分で反省しながら進んでいかにゃいけんと思っています。これから生まれてくる人たちは本当に大変です。」

◎西表島の若者のことば(1988年11月、「西表島の人と自然」シンポにて、那良伊孝さん、30代の男性)

 「私は漁師のかたわら農業もやっていますが、海も山も利用して生活してきております。日本全国どこにもないこの西表島の自然は、学術上の宝です。そして同時にわれわれが生きてゆくための基盤であり、宝であります。自然とともに生きてきたわれわれの生活をまもるために、農薬をまきません。こういう大切な生活の基盤が守られるように、われわれは必死の努力をしています。ぜひ、島外の先生方も力を貸していただきたい。」

◎ある南の島の女性のことば(安渓遊地、1991「される側の声_聞き書き・調査地被害」『民族学研究』56(3))

人であることを忘れるなよう

 「だれにも、思わずやったことが、はたから見るとすごいわがままになってるってことは、こりゃあるわ、人間だもの。だけど、冷静によく考えた上でやっているわがまま、こんな理性のあるわがままは、許されるものじゃない。誠意さえあれば良いと思ってる人もいるみたいだけど、自分に誠意があるから、すべて意のままに通ると思うのは、きったない甘えさ。あんたも、いつでも、どこでも、人であることを忘れるなよう。

 島の外からやってくる、人間としての自覚のない人たち、誠意だけはあるけれどそれが甘えになってしまっている人たちに、私もずいぶん泣かされてきたわ。けれど、私の涙はわたしひとりの涙じゃないのよ。この島の人たちは、海も山も川も、岩も木も鳥も魚もすべてのものを神のやどるものとして大切にしてきている。そういう気持をわかってほしい。だから、私の涙は人間だけじゃなくて、すべてのいのちあるもの、何千何億の声なのよ。そうした小さないのちたちの痛み、叫 び声を大切にできない人にいったい何が大切にできる?」。

◎鳥取県で暮して聞いたことから

(安渓遊地、1994「大山のふもとで屋久島を想う」『生命 の島』31号)

将来は孫たちも通る道だから

 大山のふもとの村での話の続きです。若嫁さんたちのよりあいで、こんな話題が出ました。最近、上流部の開発が行なわれて、小学校の通学路の一部が大雨のたびに濁流に洗われるようになった。小さい子供を通わせるのが心配だから、水路を整備するように、働きかけていこうというのです。その時、よその町から嫁に来られた三〇代はじめのお母さんの言葉に、私たちはたいへんに感激しました。

 「将来は、私らの孫たちも通る道なんだから、今のうちにちゃんとせんといけんよ。みんなで議員さんを動かそう」

 道ひとつをどうするかについても、若い人たちが率先して、今の利益だけでなく、孫の世代に感謝されるような賢い選択をすることができるかどうか。それができる地域だけが、今日まで伝えられてきた自然と人の豊かな関係を将来にわたって保っていくことができるはずです。

 それにしても、土地を荒せば先祖に対して申しわけない、子孫に対して環境を守っていく責任がある、という自覚はどうやって生じ、世代を越えて伝えられているのでしょうか。先祖代々住んでさえいれば、自然にそういう生きかたになるのでしょうか。逆に、よそ者は、いつまでたってもよそ者にすぎず、世代を越えた智恵とは無関係な存在なのでしょうか。
 実は私の住んだ村では、一八世紀の半ばごろ、なんらかの理由で在来の村人のほとんどが追い払われる、という事件が起きたそうです。あちこちからの移住者によって村は再建されるのですが、数戸の家だけは追い払われずに残されました。田への水をどう引くか、それぞれの田の必要とする水はどのくらいか、といった水利についての知識のある人たちまでいなくなったのでは、稲作も不可能になるからだったというのです。

 自然とつきあう方法がきちんと伝承される。そのことさえ保証されるならば、地域の環境を守ってゆく智恵と知識はよそ者にも開かれています。そして、その伝承をわがものとした人はすでに「よそ者」ではないのです。それこそが、この島国の村々が長い命を保ってきた秘密ではなかったでしょうか。

◎地域にかかわる物書きの責任

(安渓遊地、1994「立松和平氏の『まれびとの立場』の盲点」『週刊金曜日』9号)

いちばん難しいのは、かきまわされて荒れた土をもとに戻すこと

 『週刊金曜日』第6号の投書で、私は立松和平氏の沖縄での筆の暴力事件をとりあげた。それにこたえる立松氏の文章が第7号に「まれびとの立場」として掲載されている。

 私は、地元の人にきびしく叱られながら地域研究者として育てていただいてきた(例えば「バカセなら毎年何十人も来るぞ」『新沖縄文学』九四号、特集マレビトの視線)。その反省と痛みを大切にしながら、立松氏の興味深いお話に抜け落ちている視点を手短かに指摘したい。(中略)

 立松氏は、「まれびとの立場」の中で、自分につごうのよい状況説明だけを並べていくことで、保身をはかろうとしていることは、悲しいことだ。たとヲば、目撃者の証言によれば、立松氏の訪問中、A子さんは「ここで見聞きしたことを、これまであなたが

やってきたように、勝手に活字にすることは困る」と言い続けたのだ。別れ際に車の所まで立松氏を追いかけて行ったのも、礼を失しない範囲でそのことをだめおしするためだった。それを「出会い」などというあいまいな言葉でごまかしてはならないと思う。「この程度なら書いても大丈夫だろう」という勝手な判断が、時として大きな被害を産みだすのだ。

 しかし、これまでの執筆活動がほめていても人を傷つけることがあったということを反省して、順次現在の仕事の仕方を止めていく、という決意が表明されている点は、評価すべきことだと考えている。立松氏の今後の行動を、じっと見守らせていただくことにしよう。

 ただし、次の一点だけは、どうしても指摘しておかねばならない。個人のプライバシーは、他人が決めるものではないということだ。地域研究者としての反省を表した次の文章が参考になろう。「プライバシー保護の問題の本質は、本人が知られたくない情報が他人によって公表されることから個人を保護することにある。『知られたくない』情報が何かは文化や個人によってかなり多様であり、個々のケースによって異なる可能性も大きい(上野和夫「調査研究とプライバシー」『 民族学研究』57巻1号)。」(中略)

 終わりに、地域研究者としての自戒をこめて、A子さんの悲しみの言葉を引用しておく。「種子をまくことは誰にもできる。大変なのは草取りと収穫。そして、いちばん難しいのは、かきまわされて荒れた土をもとに戻すこと」


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