屋久島におけるこれまでのエコ・ミュージアム的活動

山極寿一(やまぎわじゅいち、京都大学理学研究科)

初期の活動

 屋久島では1970年代から1980年代の初めにかけて、地元の有志による博物館的活動がすでにはじめられていた。「屋久島を守る会」、「屋久島を記録する会」、「屋久島郷土誌研究会」、「屋久島ウミガメ研究会」などの活動で、それぞれ対象や手法は異なるものの、「故郷の自然や文化をもっとよく知り、それを保存し活用する」ことをめざしていた点で、エコ・ミュージアム的な視点をもっていたということができる。

 この時期は屋久島の自然の価値が学術的に見直された時代だった。1982年に国民注視の中で行われた瀬切川流域の保護と公園区域の見直しは、まさに伐採・植林から保護・非破壊的利用への方向転換を内外に印象づけた出来事であり、上記の地元有志とそれまで屋久島に関わってきた研究者の活動の実りある成果だったと言えよう。この歴史的事件の前後に、西部域低地の森林が国立公園3種から1種に格上げされ、鹿児島県の鳥獣保護区となり、屋久島はユネスコによる「生物 圏保護区」の指定を受けている。これらの動きに応じて、1983年から5年にわたって文部省「環境科学」特別研究「屋久島生物圏保護区の動態と管理に関する研究」 が行われ、1983_84年には環境庁による「花山原生自然環境保全地域総合調査 」が実施されている。またこの頃、「屋久島西部域における動植物相の垂直分布」に関する研究の重要性が指摘され、ヤクシマザル、ヤクシカをはじめ多くの生物につい て標高の異なる地域での広域調査が行われるようになった。西部域は屋久島で唯一海岸域から標高2000m近い奥岳の頂上部まで自然の植生が保存されている地域であり、屋久島に特有な生態系を総合的に分析するのに最適であると評価されるようにな った。京都大学霊長類研究所が西部域に近い永田に観察センターを建設し、鹿児島大学、千葉大学、大阪市立大学、京都大学などの研究者や学生が屋久島に長期滞在して 調査を行うようになったのもこの頃である。

 これらの調査は、世界でも有数の自然として評価されはじめた屋久島の価値を学術的に明らかにしようとする試みで、多様な分野の研究者が参加して行われたことに特徴がある。多くの新しい発見がなされ、国際的な学術雑誌にその報告が掲載されて屋久島は世界に名が知られるようになった。また、調査の成果は地元の屋久島で発表され、海外から学者が訪れて国際シンポジウムが開かれるようになった。

 しかし、調査の資料の大半は島外の大学や研究機関で分析されたため、地元の人々が簡単に利用・閲覧できるようにはならなかった。地元に標本や資料を保管できるような施設がなく、専門の教育を受けた人材も乏しかったため、研究の成果をわかりやすい形で地元に還元し保管することができなかったのである。学術調査を実施する側も、調査の成果を地元に利用できる形で残すという予算を組まず、将来を見据えて地元との緊密な協力のもとに調査を実施するという視点が欠けていたと考えられる。

あこんき塾の設立

 こうした反省に立って、1980年代の半ばには地元ニ研究者をつなぐ博物館活動の必要性が強く認識されるようになった。そこで、1985_86年に(財)日本モンキーセンターは日本生命財団の助成を受けて「屋久島における人と自然との共生をめざした博物館的手法による地域文化振興に関する実践的研究」を実施することになった。この研究は大学などの研究機関に所属する研究者が主体だったこれまでの学術調査とは異なり、鹿児島県文化財保護指導委員、上屋久町社会教育課長、屋久町神山小学校教頭、(有)恵命堂工場長、屋久島産業文化研究所所員、主婦など地元の研究分担者を多く含み、絵本画家など研究者以外の人材によって構成されたことに特徴があった。さらに、これらのメンバーの協力の下に地元の若者たちによる「あこんき塾」という組織が設立され、これが実際の活動の主体となった。

 「あこんき」とは地元の言葉でアコウの木(亜熱帯性の照葉樹でイチジクの仲間)を指す。この木は大きく樹冠を広げる巨木になるが、建材としても炭焼き用にも利用できず、そのためバカンキと呼ばれたこともあったという。しかし、大地にしっかりと根を這わせて大空に枝を広げるアコウは、雨の多い屋久島のもろい地盤を支え台風から家を守る大切な役割を果たしてくれる。この木は、どんなに役立たずと思われたものでもどこかで立派な役を果たしてくれる、ということを私たちに教えてくれる。すなわち、「あこんき塾」という組織は、これまで価値がないとして見過ごされていた屋久島の自然をさまざまな視点からもう一度見つめ直し、明 日の屋久島を築くための教材としようという共通認識で出発したのである。

 「あこんき塾」の活動はまず地元で自然観察会と講演会を開催することからはじめられた。最初に行われたのは「サシバの渡り観察会」で、屋久島の各所に参加者を配置して南下するサシバの数を数えた。日本野鳥の会とNHKの協力を得て全国ネットでこの情報を流し、屋久島が渡り鳥の世界でどう位置づけられているかを学んだ。また、屋久島各地で農作物の被害をもたらしているヤクシマザルについて観察会と討論会を催し、サルの生態を学ぶとともに農業に従事する地元の人々と猿害対策について話し合いをもった。自然観察会は月に1回開催され、島内や島外から専門家を招いて解説してもらったり、あわせて講演会を開いた。これらの活動は 地元の屋久町にある霧島屋久国立公園管理事務所の協力のもとに行われ、新たに植物名称板を取り付けるなどの活動も行った。また、(財)日本自然保護協会に要請して自然観察指導員研修会を屋久島で開催した。この研修会によって地元の人々が自然観察指導員となり、以後の自然観察会を地元の手で指導していく可能性が広げられた。

 日本モンキーセンターは、この時期に公開シンポジウム「ヤクザルを追って」を開催し、全国の研究者や博物館関係者の屋久島への関心を高めた。屋久島からは上屋久町社会教育課長と「屋久島を守る会」の会長が出席し、シンポジウムで意見を述べた。また、モンキーセンターが発行している普及誌「モンキー」に特別号として屋久島特集を掲載し、霊長類研究者による調査報告ばかりでなく、屋久島における自然保護活動、自然教育について地元の意見を載せた他、屋久島に伝わるヤクシマザルの伝統的猟法などについての記事や屋久島関係文献リストも加えた。さらに、これらの成果を写真やパネルにしてモンキーセンターで特別展を開催し、上屋久町と屋久町でそれぞれ1週間ずつ公開展示会を催して研究成果の一般への普及、地元への還元を計った。

 残念ながら「あこんき塾」としての活動は、メンバーの転出や異動などのために2年足らずで中断せざるを得なくなった。開催した自然観察会をもとに手作りの自然観察ガイドを作成する予定だったが、これも「ヤクシマザルを追って:西部林道観察ガイド」を発行するのみにとどまっている。しかし、この間に話し合われた将来計画や企画案は膨大なもので、以後さまざまな博物館的活動を生み出すきっかけになったと思われる。博物館的活動の対象として挙げられた主なものだけでも、屋久島各地の微気象の観測、地質調査、照葉樹林の分布や生態、磯の観察や魚の生態、野草の利用法、樹木の伝統的利用、昔ながらの遊びの発掘など多岐にわたっており、変化に富む屋久島の生活環境と自然と人との接点に対する人々の多様な関心がうかがわれる。あこんき塾の会合でも、自然観察会を定期的に開くためのネイチャー・トレイルの設定や、各部落で身近な自然を解説するための案内板の設置、さまざまな情報を提供できるセンターの設立など、多くの要望や意見が出された。また、この際地元から「インターナショナルパーク構想」が出され、国立公園の国際化へ向けて熱のこもった討論が行われた。これらの意見や構想は、近年実現した「屋久島文化村構想」や「世界自然遺産」の指定に去タしたことはここに明記しておくべきであろうと思われる。

エコ・ミュージアムへの発展

 「あこんき塾」によって、島外の研究者と地元の人々が一致協力して教材作りに励んだことは、屋久島における博物館活動の一里塚として位置づけることができる。1980年代の後半から地元で展開されるようになった博物館活動には、あこんき塾の精神や構想が受け継がれていると思われるからである。1986_88年にはトヨタ財団の助成を受けて「おいわねっかあ屋久島」という活動が実施された。これは地元の有志に元あこんき塾のメンバーを加え、植物の宝庫と言われる屋久島において人は植物とどのようにつきあってきたかを調査する活動で、今はもう失われようとしている知識を島内の古老から聞き取ることに主眼が置かれていた。屋久島で大きく生活様式が変化した昭和30年代を境にして、衣、食、住、道具、燃料、飼料・肥料、薬、遊び、換金、心の10項目について利用法を調べた。

 また、1990年代には西部域でヤクシマザルや植物の調査をしていた研究者が中心になって「屋久島研究自然教育グループ」が組織され、中高生、学校の教職員、一般の人々を対象に屋久島で行われている研究をわかりやすく紹介する活動がはじめられた。(財)日本自然保護協会の助成を受けて野外観察会を開き、動植物の観察を通じて調査の実態を解説したり、屋久島高校において課外授業の一部としてスライド資料を用いた講演会を実施したり、「屋久島の自然と野生ニホンザルに関する意識調査」のアンケートによって行った。この活動は地元行政や農家にも歓迎され、講演の申し込みや協力の依頼が相次いで地元からの需要が高いことが判明している。

 1992年に鹿児島県は人と自然との共生をうたった「屋久島環境文化村構想」を発表し、1993年には屋久島が世界の自然遺産として指定された。とくに西部域は海岸線から奥岳の頂上部まで遺産地域に含まれており、動植物の垂直分布を重視した屋久島全体の生態系としての価値が世界に認められたと言ってよい。上屋久町の宮ノ浦には屋久島環境文化財団が経営する「屋久島環境文化村センター」が、屋久町の安房には屋久島環境文化財団の「屋久島環境文化研修センター」と環境庁の「屋久島世界遺産センター」が建設され、まさに屋久島は町と県と国が一体となってエコ・ミュージアム的活動を推進する準備が整えられたと言っても過言ではない。

 環境文化村センターでも世界遺産センターでも、展示資料を公開して自然教育を促進し、自然観察ガイドの作成やネイチャー・トレイルの設定などさまざまな情報提供・教材開発を実施するようになった。しかし、これらの施設は主として島外から訪れた人々へサービスを提供しているといった感がぬぐえない。そこで、主として地元の人々たちが中心になって自然観察を行い、あるがままの自然の姿から学び、明日の屋久島を語り合おうというグループが生まれた。「足で歩く博物館」、通称「足博」と呼ばれるこの活動は、西部林道を毎月1回ゆっくり歩き、季節によって移り変わる自然と動植物のつながりを体験学習しようとする目的をもっている。まさに「あこんき塾」の初心に立ち返った活動と言ってよく、世界野生生物基金日本委員会(WWFJ)の助成を受け、島外からの参加もあって今日まで続けられている。

 このように、これまでに屋久島で行われてきた博物館活動は、「住民と行政が一体となって発想し、形成し、運営していく」というエコ・ミュージアムの理念に近い形で着実に歩んできたと考えることができる。その過程で「広く島内・島外へ意見を求めて将来の方針を決定する」という「屋久島方式」が生まれ、研究者が多く参加して世界に広く呼びかけるような大きな企画を構想することが可能になった。住民と行政に研究者が自然な形で参加するという特徴は、屋久島の博物館活動が歩んできた歴史的遺産でもある。今後、この特徴を生かしつつ、屋久島独自のエコ・ミュージアム活動が展開されると期待している。


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