屋久島フィールドワーク講座
「人と自然」

屋久島の人と自然―その昨日・今日・明日

安渓遊地・安渓貴子編
(ankei@d-kokusai.mn.yamaguchi-pu.ac.jp)

フィールドワークの目標と3日間の組み立て
 「人と自然班」では、自然の豊かな島と言われる屋久島で「人と自然のかかわり―その昨日・今日・明日」を学ぶことを目標においた。人と自然のフィールドワークは、縁側に座ってお茶でも飲みながら、のんびり古老の話をうかがう、という牧歌的なものに終始するわけではない。そのことを実感してもらうために、前半も後半も、初日は西部林道で以前は人が住んでいた半山(はんやま)地区を歩き回って、屋久島の人と自然の昨日の姿を学ぶことを目指した。これは、かなり体力を消耗する調査であった。後半では、実地調査のあと半山で暮らした経験のある方にインタビューをさせていただくという幸運にもめぐまれた。2日目は、自然の中の人の暮らしの今を味わうというテーマで、前半では一湊の漁港でおこなわれた祭りに参加させていただき、大漁旗をなびかせた船に乗せていただいた。午後は、自然とともに生きることをめざしておられるOさんを楠川集落に訪ねた。後半の午前中は、生ゴミを堆肥化している小瀬田の地力センターを訪ねて柴鉄生さんにご案内をいただき、宮之浦の上屋久町立歴史民俗資料館を訪ねて、半山の遺物と民具の対応を見た。午後は、ある集落に匿名のおばあちゃんを訪ねてお話をうかがった。3日目は、未来へむけての展望を知るために、地域の指導的立場の方のお話をうかがうことにし、前半では寺田猛・上屋久町議員に宿舎までおでましをいただいき、後半では、柴鉄生・もと上屋久町議会議長の永田のご自宅をたずねた。3日目の夕方からはまとめの報告書の準備に入り、報告会をはさんで、いずれも深夜には完成をみた。
 自然の調査とは異なり、人間のフィールドワークは、いきなり行って調査させてもらう、というわけにはいかない。少なくとも前日にはお願いして勉強の趣旨を了解していただいておく必要がある。人と自然班の講師は、3日間ずつのコースが始まる前日には、お話をきかせて下さる方への予約のために奔走しなければならない。だから、屋久島学講座で島を1周した7月22日には、部分参加しかできなかった。また、お話をうかがった場合は、はがき1枚のお礼状を、写真を撮らせてもらったら、たとえピンぼけでもお送りするようにということを参加者のみなさんに徹底するようにお願いした。なお、私どもが学生をともなってフィールドワークしたのは、今回が初めてであった。そして、いつもにもまして熱心に若者達に語りかける高齢者のお姿を見て、これからは、もっとこうした機会を作ってわれわれも若者たちから学ばなければ、と痛感したことをつけ加えておきたい。
 以下の本文は、前半と後半のそれぞれについて、参加者が分担執筆した報告書に講師が若干の訂正を加えてそれぞれ1999年7月21日と、25日の夜にまとめたものを合わせたものである。本文については、考古学的にみてきわめて大胆な推定を中心に、2000年6月に若干の改訂をほどこした。

参加者: <前記参加者> 井熊一隆、長田知子、奥山明仁、森脇誠、根津朝彦
<後期参加者> 福島万紀、杉本尚凡

講師: <前期講師> 安渓貴子、安渓遊地
<後期講師> 安渓貴子、安渓遊地、山極寿一

前半の活動報告(7月19日〜21日)

前半の各日の活動内容は以下の通り。
  19日 西部林道・半山地域の廃村調査
  20日 上屋久町豊漁まつりに参加、Oさんへのインタビュー
  21日 寺田猛上屋久町議会議員と会談、中間発表での寸劇、まとめ

<1日目(19日)>
1. 発見した遺物

 我々は西部林道・半山地区まで出かけた。地図で平坦な場所を見つけてかつて人が住んでいたであろう地域を推定して車から降り、林道から山に入り下った。10分も歩かない内に我々は平坦に均された土地と石垣を発見した。石垣の造りからはそれなりにしっかりした建造物があったのではないかと思われた。我々は「城、畑、民家」などを予想した。石垣は、第一に発見した付近では3ヶ所ほどあった。
 次に発見したのは丸い穴である。発見した石垣の近くに2ヶ所あった。これは縁を石垣でつくられており、深さは1.5mほどあったが落ち葉が堆積していたのでかつては2m以上はあったのではないかと思われる。また、周辺には茶碗の破片若しくはほぼ完全な個体をいくつか発見した。腐食されて底の抜けた鍋も発見した。
 我々は先を進んだ。するとところどころに酒瓶、化粧品の空き瓶、茶碗などがまとまって発見できる箇所がいくつかあった。ビール瓶のブランドは「Dainippon Beer」であった。白い小さな広口瓶には「JUJU」と記されてあった。おそらく、マダムジュジュという化粧品であろう。そしてついに生活の跡がわかる決定的な建造物を発見した。窯跡である。窯は直径3.3m、高さ約1.8mであった。周辺の地面からは炭の破片が発見された。これは明らかに炭焼き窯である。窯のすぐ下には石を積み上げてあったが、これは急な出水の時に水の流れを窯からそらすための溝の役割をするものであろうと考えられた。
 さらに進むと草のない平坦な場所に行き当たった。これは土間のたたきの跡であろう。中心には家を支えていたであろう大黒柱とさらに2本の柱がまだ立っている。住居の跡である。この周辺からは、酒瓶なども豊富に発見された。 最後に発見したのは数々の錆びた鉄製の道具であった。皮むき、スコップ、鋸、かすがい等が発見され、砥石も見つかった。

2. 遺物から推測できること

 半山地区に散乱する遺物や遺構から、かつてここに人が住んでいたことが分かった。次にその年代とどういう目的で住んでいたかを突き止めるべく推理した。先ず、はじめに発見した石垣のようなものは何であったのか。これは次に発見した井戸のような穴と関連する。この穴についても我々は中に降りて色々とその用途を推定したが、いずれも確かではなかった。しかし、後述するOさんに尋ねたところ、昔の肥溜であったらしいことが分かった。このことから、はじめに発見した石垣は段々畑の一部であると結論づけた。
 年代についてはビール瓶や化粧品が大きなヒントである。「大日本ビール」は戦前のビールメーカー(現アサヒビール)であるのでこれらの発見されたところには戦前に人々が住んでいたと推定してもよいであろう。
 炭焼き窯による炭はエネルギー源として使われる。しかし窯の大きさからはそこに住んでいた人々の自給用を越える炭が産出されたと考えられる。錆びた鉄具は木材を切りだすのに使用されるのが明かである。このことからここでは木材を切り出し、炭焼き窯で焼き炭を製造し、それを現金収入の糧としていたエネルギー産業が成立していたことが考えられる。それで得た金でもって酒や化粧品などを入手していたのであろう。それらの生活は1960年代まで続いたであろうことが考えられる。そのころに日本のエネルギー需給構造が地下資源依存するように転換したとされるからである

 屋久島でも薪や炭から石油へと主要エネルギーがシフトした結果、炭への需要が減り、この西部林道半山地域の集落が廃村になったのであろう。目を閉じると、往年の人々の亡霊が浮かんでくるようであった。

<2日目(20日)>
1. 上屋久町豊漁まつり

 2日目は午前中に「上屋久町豊漁まつり」に参加した。祭りでは町長の音頭による漁民の総決起大会を見た。尚、一部にははちまきをもらって一時的に住民になった者もいる。決起大会では「産業が衰退傾向にあるが、一団となってガンバロー」という内容を叫んでいた。一般的な観光ではその土地の負の部分は見えにくいが、このときは屋久島の抱える現実的な問題を垣間見た。その後我々は地元住民のご厚意により、船団パレードの船に乗ることができた。船は沖に出ると他の船と競争したり、船内では飲み物や刺身が振る舞われ、我々は海の男の心意気を感じると共に地元住民の生活に触れることができた。

2. Oさんのお話

 Oさんは80歳近くの元気な男性である。彼のつくった自宅の庭「精浩庭」、民具、自作の地図の順番でお話をして頂いた。「精浩庭」はまさに彼の心や想いが強く反映されている庭で、彼の生物に対する愛情が感じられた。植物にも喜ぶという感情があり、人間がいかに与えてやるかということを考える。そして植物と共に語りあう。育てた植物は山に帰し、今までに一本も売ったことはない、と仰った。お金をとることで、心を売ってしまうことになる、とのことである。庭を人に見せることは彼にとって喜びであり、家を訪れた人には、ここに来た、という記録をしてもらう。そのことが楽しみだ、と語って下さった。
 民具の収蔵庫では戦前のお話、とうふの作り方、ご先祖のお話などを聞いた。そこで印象に残った言葉は、「21世紀は心の時代、互いに支えあって未来へつなげていく」であった。古い時代からずっとあらゆるものを保存してきているので、自分の歩いた道が見える。何でも気づいたことをやっていく、という考えがこの道を築いていることがよくわかった。
 そしてこの考えが自作の地図制作につながる。地図にはOさんの住む楠川地区の住民の住む場所や、屋久島の特色、屋久島の生き物など、多彩な情報が詰まっていた。それを見ているだけでなんだか心が豊かになってくる気がする。Oさんの屋久島への思い入れが感じられた。

<3日目(21日)>
1. 寺田猛さんのお話

 最終日、我々は上屋久町議会議員の寺田猛氏を招いて屋久島の今と未来について語った。ざっくばらんに氏と話をすることにより、我々は現在の屋久島のイメージを構築することができた。寺田氏によると、屋久島は「入り人」で成り立っているという。「入り人」とは島外からの流入者である。その時代時代において入り人がやってきたということである。例えば現在では世界遺産登録されてから若干ながら観光客が増加傾向にあるという。その結果従来無かったレンタカー業やガイド業が誕生した。彼らはほぼ入り人である。
 また、世界遺産登録されてから、島の子どもたちが屋久島に対して誇りを持つようになったという。これは親世代の価値観の変化も関係してくるのであろう。それと関連して氏は語ったが、かつては屋久島を脱出した若者が東京大阪などで暮らす例が多かったが、最近ではせいぜい福岡止まりで出ていく傾向があるという。ここで寺田氏は非常に示唆深い言葉を残された。「人がその地に戻ってくる理由は、その土地の人に会うためだ」。続いて我らが安渓貴子先生はこう言った。「人は生まれる場所は選べないが、生きる場所は選べる」。
 これらの言葉から我々は、屋久島で暮らすというのは一つの事例で、その問題というのは自分たちがどう生きるかということに関係する、ことに気づいた。世界遺産に登録されたといっても住民側の心の準備ができていない、公共事業がなければみんなが食べていくことができない、という事実に触れるにつれ、関係する人々が一体となって未来を考えていくことの重要性を痛感した。そしてその関係する人々とは単にそこの住民だけでなく屋久島を大事に思っている人々、例えば我々のような学者・学生も含まれるのであろう。そこで我々は屋久島の未来を見つめることをテーマとして寸劇として表現した。それを次のセクションに記す。

2. 「ドラマ・屋久島でこんな夢を見た」

上演、1999年7月21日夜 上屋久町一湊青年研修センター
脚本、森脇・長田・井熊・根津・奥山・安渓遊地・安渓貴子

配役
Oさん(自然が大好きな島の人・森脇)
はる(Oさんの妻、農家の主婦・長田)
エコ(自然が大好きな観光客・井熊)
どん(どんちゃん騒ぎが大好きな観光客・根津)
運転手(「あこんきバス」運転・安渓遊地)
自己防(じこぼう、評論家学者・安渓遊地、二役)
土方(ひじかた、土建業、議員・奥山)
浦島花子(30年ぶりの帰郷者・安渓貴子)

第一幕
(近未来の屋久島を走る観光バス「あこんきバス」の車中)

ズズズーン!がらがらドッシャーン!キキキーッ!パシャーン(なぜかカメラの三脚が倒れて効果音となる)
運転手「ああああ、土石流です!お客さん、大丈夫ですか?」
どん「もお、いやだよお、怪我しちゃったよ、腰が痛いよ」
エコ「大丈夫?」
どん「どうしてこうなるの?」
エコ「わかんない」
自己防「ええ、学者評論家をしている自己防でございます。リクエストにお答えいたします。そもそも屋久島の土石流といいますのは、原生林を切って杉を植えた結果、地盤がゆるくなって起こる人災であるという意見があります。ですが、たくさんの雨が降ったのが原因であって、これは天災であるという意見もまたあるわけでして、これは永田の土面川の水害をめぐる裁判でも争われた点で、やはり学問的には難しいといわなければなりませんです、ハイ」
Oさん「(プラカードを示しながら)えええ、互いに支えあって未来へ恵みをつなげよう。はい、みなさんご一緒に!」
出演者・観客一同「互いに支えあって未来へ恵みをつなげよう!」
どん「とにかく、宮之浦のホテルに帰ろう。柔らかいソファーで寝たいよ。明日の朝はビール飲んでどんちゃんさわぎするんだから」
エコ「歩いていくしかないんだよ。ちょっと車から出てみよう」
どん「今日はどこに泊まる?あ、あっち見てご覧。なんか村の跡みたいだよ」
エコ「廃村だね。でも一軒だけ明かりが見えるよ」
どん「あれ、誰か男の人が入り口にいるね」

第二幕
(廃村に一軒だけ残っている農家の玄関先)
土方「もしもし、はるちゃん、町会議員をやっている土方です。ちょっとよろしいですか?」
はる「はあい、どうぞ」
土方「はるちゃん!いつになったら立ち退いてくれるの?はるちゃんもわかっていると思うけど、今の時代、漁業や農業なんて時代遅れだよ。屋久島はこれからリゾート都市として生きて行くしかないんや。ハワイを見てみ。あんなになったらいいで。車にクーラー、パソコンなんだって思い通りや」
はる「コンクリートで泉を埋めちゃって、おいしい水もなくなって、道路なんてつくったって、わたしら農家にはね、何もいいことないよ。畑があれば食べていけるよ。あんた、お札食べられる?」土方「子どもの教育や医療費には現金がいるでしょう。リゾートが成功すれば、がっぽりもうかるんや。これからの時代、お金がすべてやで。自分たちが便利になればそれでいいやないか」
はる「便利便利ってね、いいすぎたから今みんな環境破壊ってさわいでいるよ」
土方「この屋久島には他に産業なんてないでしょ。トビウオもいなくなったし、杉も切っちゃったし、それに公共事業がなくなったらどうすんの?みんなこまっちゃうよ」
はる「そんなこと言ったって、今まで私達ここで生活してたんだ。これからも私達は自給自足でやって行くんだよ」
土方「じゃあわかった、これやな。みんなには1000万円でわかってもらったから、はるちゃんには特別3000万円
でどうや?」
はる「やっぱりあんたが金くばったんやな!わたしは動かんよ」
土方「はるちゃんさあ、みんなもう行っちゃったじゃない。はるちゃんもそろそろあきらめても良い頃じゃないの……。あんた高校生のころから頑固やったからねえ」
はる「あんたも高校のころからセコイ男だったからねえ。金さえあれば何でもできる
と思ってたら大間違いよ、あんた!」
土方「あんたさえいなければ観光でがっぽり儲かるのや!どうしてもいややというな
ら、こっちにも考えがある。強行手段で退いてもらうで。覚悟しいや」
Oさん「はるちゃんの夫です。花をあげたら、人も花も喜ぶ、花を売ったら、心を売
ることになる」
(一同、くりかえす)

第三幕
ナレーション「時は流れて30年。ハワイのようなリゾート開発都市をめざした屋久島はすっかり変わってしまいました。」
浦島花子「30年ぶりに島に帰ってきたら、まあどうしたことでしょう。コンクリートで固めた道、おまけに四車線。車だらけ。ホテルが立ち並ぶ浜。緑が全然見えないじゃない。ホテルに泊まってみたらでてくるのは世界の料理、それもいいけど、どこでも食べられるものばかり、屋久島らしいものがなんにもない。さばのお刺身やさば節が食べたいわ。トビョ(飛び魚)はどこへ行ったの?あのおいしい水は?道のそばがコンクリートで固められて、春のツワブキもとれないし、磯モンも有機スズなんかで汚染されて食べられないんだって。お岳参りの山に咲くシャクナゲの花もなくなってしまったの。奥山までバスが通うようになって、ヤクスギもずいぶん枯れてしまった……。私が島を出ないで、はるちゃんとがんばっていたら、あんなことにはならなかったのに」
エコ「やあ、どんちゃん、ひさしぶり!屋久島に何しにきたの?」
どん「うん、縄文杉ゴルフ場でちょっとプレイしてみようと思って。ロープウェイもできて、便利になったからねえ」
(二人、ホテルに入り、テレビをつける。)
エコ・どん「あれ!昔どこかで見た人だなあ」
自己防「みなさま、毎度おなじみのワールドウォッチの名シリーズ、『落ち目の観光地』の時間でございます。今日は、30数年前、世界遺産としてもてはやされた屋久島を久しぶりに訪問してみましょう。一時はたくさんのお客さんが押し寄せたこの島でしたが、いまではすっかり落ち目になりました。どうしてこうなったかということについては、森や川や海が汚れたことから、魅力が急速に落ちたから天災であるという意見と、手っ取り早く収入に結びつくどんちゃん騒ぎが大好きな観光客ばかり誘致したことによってすれっからしの観光地になった、つまり人災であるという意見などがありますが、やはり学問的にはたいへん難しいといわなければなりませんです、ハイ。(傍白)まあ、どうころんでも、うまく評論できるちょっとした才覚さえあれば、地域の運命なんかにかかわりなく学者は困らないわけだな、ガハハハハハ」
Oさん「小さい花に生まれたい」
一同「小さい花に生まれたい」
Oさん「おわり」
一同「おわり」

後半の活動報告(7月23日〜25日)

 後半の各日の活動内容は以下の通り。
  23日 半山遺跡の現地調査。半山での暮らしについてFさんのお話をうかがう
  24日 地力センター、郷土資料館見学、おばあちゃんにお話をうかがう
  25日 柴鉄生さんのお話をうかがう、まとめ

<1日目(23日)>
1. 発見した遺構・遺物
 a)遺構・遺物の概要

 我々は手塚賢至さんに導かれ、西部林道・半山地区まで出かけた。前期の調査を引き継ぐべく林道から山の神にお祈りをしてから山に入り下った。山を下っていくと、我々は倒れている材木を発見(フロア2)。その周辺を探索すると円形状に石で囲まれた炉と思われるものを発見。炉と思われるものを掘りおこすと中から炭が発見された。これにより、これは炉であったと判明。また周辺にはイスに使用していたと思われる角材(あるいは倒れた柱である可能性もある)と酒瓶、茶碗などが何カ所か発見できた。ビール瓶のブランドは「DAINIPPON BREWERY Co. Ltd.」だった。フロアのすぐ下には割れた焼酎瓶が落ちていた。これらから推測するにはここはおそらく酒盛りをする場所であったのではないかとおもわれる。
 またそこから少し下に下っていくと進むと草のない平坦な部分を発見した(フロア5)。そこには柱に使われていたであろう3本の木が立ち並び、1本の木が倒れていた。それらの木は明らかに垂直に立っていて、それらが人工物であることは明かだった。そこはこれらの状況より民家が存在していたことが推測される。またこの場所からは森の神様の導きにより水晶を発見し、神様の存在と感謝の大切さを学ぶという一幕もあった。また、松の大木が倒れているものも発見。松ヤニをとった跡としてそこには細かい整った間隔の傷がついていた。
 最後に前期の班が発見していた数々の錆びた鉄製の道具のスケッチをし、この後にお話をうかがう時の資料とし森を後にした。

 b)遺物の一覧
  (1)木を倒す時の道具

 横引き鋸(小)と目立て用のヤスリ。クサビ大小4つ。小さい穴は、腰にさげるためのものと思われる。大きいものは、打ち込むための木の柄の部分があったのであろう。ヨキは2種で、頭が変形していない方は、ハガネ入りであろう。草や枝葉を払う厚鎌があった。おそらくナタガマの一部と思われる鉄片があったが、図示しなかった。砥石が荒砥と仕上げ砥それぞれ1個ずつ発見された。

  (2)木を運ぶための道具

 ひっかけて引っ張るトビ。トビの変形で、突き刺す働きもあるらしいものもある。木の下側から持ち上げるためのツル。大きい方は伐採した現場で使うモトズル、小さい方は、海辺に集めた時に使うダシヅルであろう。木をころがすガンタ、その他、海辺にシュラという木馬のようなものを作ったというが、それに関連するらしい道具としてカナヅチ、釘、座金、カスガイなどが発見された。材木に打ち込むカンも大小2種類あった。
 さらに、松などの皮むきのための道具、シュラを岩に固定するための穴をあけるタガネ2種、石を動かすツルハシ、材を運び出す船の釘もあった。 
 フロア5の入り口にU字型の鉄製品があったが、これは鍬の柄のところらしい。その横に拳大の水晶が埋もれていた。これらの道具や貴重品が放置されているのは、またくるつもりで戻ることがなかった事情を反映しているのであろう。

2. 聞き取り

 半山遺跡を後にした我々は、昔、半山に住んで木を切っておられた、Fさんに当時のお話をうかがった。半山遺跡でのスケッチや拾った瓶、松の皮などから、いろいろなお話をうかがうことができた。松ヤニを採るための傷が1日に一本つけることや、スケッチした道具の使用方法。また当時どのように木を伐採していたかなど、屋久島の木が過去にどのように伐採されてきたかということを知ることができとても貴重な体験だった。また安渓遊地先生がオカリナを最後に吹かれるとその音色に静かに目を閉じ、じっと耳を傾けておられた。
 そこで安渓先生は大切なオカリナをFさんに譲られました。Fさんがオカリナを吹くたびに我々のことを思い出され、いつまでもつながっていられますように(以上、杉本)。

<2日目(24日)>
1. 地力センターの見学

 地力センターとは、上屋久町の町から出る生ゴミからオガクズのみを使用し、自然に発酵させる、堆肥をつくるという生ゴミのリサイクルを行うセンター。生ゴミが分解しやすいようオガクズを空気と水を含みやすいように削ることや、紙の袋も分解できることなどを学ばせていただいた。事務所にもどって、案内してくださった柴鉄生さんのお話をうかがったが、ここでは屋久島のリサイクルの現状と課題を学ぶことができた(杉本)。

2. 上屋久町歴史民俗資料館の見学

 前日スケッチした木の伐採道具の実物を見学。どのような道具でどのように伐採を行っ ていたかを知る。また川口学芸員のご厚意で収蔵庫の資料も見学させていただき、屋久島の過去を少しだけ知ることができた。

3. おばあちゃんのお話を聞いて

 「天知る、地知る、人が知る」
 「今の子らは礼儀を知らない」
 「自分が馬鹿になって、人と人が仲良くするようになれば、うれしいこと」
 「人の話を聞けば、なるほどなあというカンが浮いてくる。」
 これらの言葉に、人と人を結びつける達人の相が見て取れました。問題を解決するために人と人が出会ったり、話をするのではなく、人と人が触れあい、話をするのが快であり悦なのだということを教えられ、はっとしました。
「若い人は言葉が少ない」
 別れの際に言われたこの言葉に慄然たる思いを感じます。(山極)

 お話をうかがった後、なにか言葉では言い表せないような心地よい感覚に包まれ、今までに日常では感じ得なかった感動を得ることができた。心が浄化され腹の中にたまっていた何かが拭い去られた気がした。都会では感じ得ない目に見えない力の存在を垣間見ることができた気がした。(杉本)
 話が流れるように進んでいった。半山で拾った水晶についてどう思いますか?と聞いたあたりから昔の話がどんどん出てきた。今、こんなに平和に見えている島にも戦争の影響はとても大きかった。特攻隊の飛行機3機がこの島に墜落したということは、死ぬのが怖かったということだろうとうかがいました。おばあちゃんがいちばん強調していたのは、人と人とのつがなりのことだった。人のためにできることは何でもしなさい。その後のことは、今はわからなくても、子供や孫に必ずかえってくるから、とおっしゃった。今の若者が言葉が少ない、といわれたが、そのことは人と人の関係がうすくなっている、という意味だと思った。おばあちゃんが90年生きてきた智恵の中で、どう解決すべきか、と問うとたところ、おばあちゃんは生ごみは一切ださない生活をしているという。石油が産出しない日本で石油製品を無駄に使っていることの矛盾を指摘されていた。それが環境問題を考える最大のヒントかもしれないと思った。かつて人々の心の中にあまたの霊が生きていた頃の人々の生き方は、自然との共存の謙虚な智恵であったのかもしれない。昔の遊びのことを杉本君が聞いたら、10人で羽根つきをした。ウナギをつれば大人も子供も笑うし、笑うということが今は少ないと言われた。(福島)

<3日目(25日)>
1. 柴鉄生さんにお話をうかがう
 最終日、我々は元議員の柴鉄生さんにお話をうかがった。屋久島出身で東京に出ていたが、屋久島の森を救うために屋久島に帰郷し、島の住民という外からではない、内からの視点で議員として屋久島の自然を守ってきた人だ。現在も地力センターや、パントピアなどの活動を通して、屋久島の自然について考えて、行動しておられる方だ。お話は最初に結成された「屋久島の自然を守る会」、「屋久の子会」のお話から始まり、瀬切川流域の原生林を守って現在に至るまでをお話しをされた。
 お話を聞き、屋久島の自然がどのように守られてきたかを知り、自然を大切にしようと口で言うだけでなく、実際に行動におこす際の苦労や行動の仕方を教えていただいた。
 これから先、環境を考える際どのように自然と関わって行くべきかを考えさせられる時間だった。(杉本)
 瀬切川の森を見たとき、彼は同行していた若い研究者に「この森は残るよ」と言ったという。その確信にみちたビジョンが仲間を動かし、やがては鹿児島の営林署の担当者を瀬切の森の現場に導き、林野庁の中からもこの森を守ろうという動きを引き起こしていった。人間が守ったというよりも、屋久島が多くの人々をひきつける神秘的な力を発揮して結局みずからを守った。屋久島そのもののもつ力だった、という結論が心に残った(安渓遊地)。
 ひとりの人に合うことで、いろんな人に出会いがつながっていくことがすばらしいと思いました。こうやって大切な自然が守られていくんだということが直かにきけてよかった。自分たちは、森の遣い人だったんだと思う、という言葉が印象に残った。様々の理屈をいうけれど、屋久島の不思議な力が人間に乗り移って動かしていく、というふうに思った(福島)。

謝辞
 わたしたちのために、貴重なお話を聞かせてくださったOさんご夫妻、寺田猛さん、Fさん、匿名のおばあちゃん、柴鉄生さんに深く感謝もうしあげます。また、半山と川原の住居あとを案内してくださり、すばらしいスケッチを書いて下さった手塚賢至さんの御協力なしには、この実習はありえませんでした。豊漁まつりで船に乗るようすすめてくださり、おいしいサバや飲み物を下さった一湊の漁民の方々の心意気が心にのこりました。上屋久町歴史民俗資料館では、収蔵庫の山仕事の道具を見せていただくことができました。ありがとうございました。

参考文献(本講座の後に公表されたものを含む)
  • 安渓遊地、1977「八重山群島西表島廃村鹿川の生活復元」『人類の自然誌』雄山閣(南島のエスノアーケオロジー事始め)
  • 渓遊地、1989「自然利用の歴史――西表をみなおすために」『地域と文化』53・54合併号、ひるぎ社(日本生命財団助成による現地シンポジウム「西表島の人と自然――昨日・今日・明日」の記録)
    安渓遊地、1999「屋久島オープンフィールド博物館の夢」『エコソフィア』4号、昭和堂(フィールドワーク講座の受講生の声を紹介)
  • 安渓遊地・安渓貴子、2000「される側の声――聞き書き・調査地被害」「小さい花に生まれたい」「欲ではありますが――屋久島の祈りのことば」『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』葦書房(人間を対象とするフィールドワークの心得、本報告のOさんと匿名のおばあちゃんの語りを収録)
  • 安渓遊地・安渓貴子、2000「屋久島西部半山での暮らし――上屋久町永田・Fさんの語り」『季刊生命の島』52号(本報告のFさんの語りを収録)
  • 市川聡、1999「半山のビール瓶(屋久島ウゾウムゾウ第9弾)」『Y-NAC通信』9号、(有)屋久島野外活動総合センター(半山で見つけた帝国麦酒、サクラビール、大日本ビールなどの瓶についての短報と使われた時代の考察)
  • 松田高明、1997『世界自然遺産の島・屋久島の不思議な物語』秀作社出版(半山に住んでおられた田中袈裟吉・ユキ夫妻の甥にあたる松田氏が語る、昭和30年代の半山の暮らしと、そこに伝えられた不思議な物語の数々)
  • 無記名、1999「1712集落消滅、今後も2200集落に可能性――1960年からの38年間」『南日本新聞』1999年7月23日号、1面(国土庁調査による過疎地域での廃村の統計。集団移転や自然減が要因とする

図 半山北部住居址分布図
屋久島半山遺跡遺物 その1
屋久島半山遺跡遺物 その2
屋久島半山遺跡遺物 その3
屋久島半山遺跡遺物 その4
屋久島半山遺跡遺物 その5
屋久島半山遺跡遺物 その6

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