2.後半に参加した学生の報告

(1)斎藤 有香

はじめに:
 私は、人の暮らしと自然とのかかわりを自分の調査テーマとしました。それは人が生活する中で自然に与える影響は大きいと思ったからです。そこで私は里山の暮らしに興味を持ちました。これは人が薪などを使うことで自然を利用し、その山や森も人の手が加えられることで成り立っているといったもので、自然と人とが上手く関わり合った生活ではないかと思ったからです。自然が失われていったり、公害などをみていて、今の生活が環境に良いものだとはいえません。そこで、環境保護が大きく取り上げられる現在、どのような生活が良いのかを考えたいと思いました。まずは昔の自然の中での暮らしというのは実際はどうだったのかを知りたいと考えました。

日程:
 8月7日 環境文化村センター見学 上薗辰郎さんに話を聞く
      歴史民族資料館見学
      寺田猛さんに話を聞く
   8日 Xさん夫妻に話を聞く
      山尾三省さん、春美さんに話を聞く
   9日 手塚賢至さんとそのご家族に話を聞く

それぞれのお話:

Xさん、Yさんご夫婦のお話
 Xさん(83歳)。屋久島で生まれ、28歳のときに戦争にいかれる。終戦を迎え、屋久島に戻ってきて山の中で炭焼きや鹿狩りなどをしながら三十数年間そこで暮らされた後、お子さんの学校通いのために山を下りられる。

(暮らし)
<食生活>
 お米があるということが昔と今で一番変わったことだと話されるように、ここでは田んぼが少ないため米が少ないことが特徴で、主にカライモ(サツマイモ)やクサギを米と一緒に炊いて量をふやして食べていたそうです。
 戦後の食べ物のないときにはトウモロコシやカライモやその茎を食べていたが、それさえないときには、山の草木(ツワブキなど)をとってきて食べていたそうです。
 今もですが、漁港があり海が近いため魚は多く食べられたそうです。
 とりあえず毎日無我夢中の生活だったとおっしゃいます。子供が大事だから自分たちは何とか働けるくらいしか食べなかったと話されていました。
<災害>
 山での生活のときはいつも自然災害が心配でそのことを考えていた。自分だけならまだしも、妻と子供のことが心配だったとXさんは話します。
 台風での土砂崩れにもあったが、鉄砲水にも会ってその集落の家2軒が流されたそうです。
<住まい>
 今住まれているこのあたりは、家が鉄筋になったり、道がアスファルトになった以外はほとんど変わらない町並みだと話されていました。
 ただ昔の家には屋根には平木を重ねて石で押さえたり、湿気対策に畳下に竹を編んだのを敷いていたそうです。
 ここ20年くらいは島外から移り住む人たちが増えたとおっしゃいます。
<遊び>
 Xさんが子供の頃は、夏はエビ、ハゼ、ゴマウナギ捕りといった川や海での遊びが主で、山にはほとんど行かなかったと話されてました。別に親に注意されていたわけでもないが、なんとなく行かなかったそうです。

 昔は勘に頼った生活で、アシナガバチが下の方に巣を作ると台風がくるとか、ンババと呼ばれる植物の葉にできたシワの数で台風の数を予想したり、雲を見て天気の予想をしてたそうです。
 今の生活はとても便利で安心だし、夢のようだと話されていた奥さんのYさんの言葉が印象的でした。

(炭焼き)
 Aさんと二人で窯を持ち始められたそうです。終戦後、開墾地として一町三反ずつ農地が分配されたが、そこは雑木林で立木を伐らなければ畑ができない状態で、その伐った木を利用して炭焼きをはじめられたそうです。
 人を雇うだけの収入もなかったので、ごく少人数(ほとんどお二人)でやっていたそうです。木を運ぶのも今はトロッコなどがあるが、昔は人力で運んでいたそうです。
 昭和30年代の炭の需要が増えた時期には、炭百五十俵を納めるように言われ、それ以上作ると一俵につき三銭もらえたそうです。それでも、Xさんは白炭を焼いていたので一番多く課せられていたそうです。白炭は黒炭と違い、焼いたらすぐに窯から出して砂をかけて冷ますので、多く作ることができたからだそうです。一俵は25kgで、1回の釜焼きで70俵ほど焼けたそうです。一晩で2、3回焼くこともあったと話されてました。
 杉林になり、雑木林がなくなったので原木がなく、材料がないので、もう炭焼きはできないとおっしゃってました。

(鹿狩り)
 昭和30年ごろは、猟の時期は11月15日から2月15日までで、一人でも猟に行き自由に何頭でも猟ができたそうで、ただし雄のみだったそうです。いまは、グループ(3人以上)で何人で何頭といったぐあいに割合が決められていて、有害駆除として県の許可が必要で、雌も獲るそうです。

(その他)
 漁師もしておられたことがあり、鯖は昔は夜に漁に出かけて明かりに集まる魚をとっていたそうですが、今は夜捕れなくて昼に捕るそうです。
 他にも、パルプ材を伐って送る仕事や、温泉で働いたりといろいろな仕事をされていたそうです。
 今は畑をされていますが、シカやサルの害が絶えないそうで、杉林になり自然が減ってきたからじゃないかとおっしゃってました。

 今の暮らしは、お金があればほとんどなんでも買えるが、昔はできないことが多かったと言います。
 「昔と今ではどちらの生活が良いですか?」と尋ねると、「もちろん今ですよ。」と答えられます。

 自然が生活の場・・・そうおっしゃっていました。

山尾三省さんのお話
 山尾三省さん。25年ほど前に東京から屋久島へ移り住まれて、いまは白川に奥さんの春美さんとお子さんとで住んでいらっしゃいます。
 どうして屋久島に来られたのかとお聞きすると、「それは話すと長くなるけど一言で言うと、いい海・森で暮らしてそういうところで死んでいきたいからだ」とおっしゃっていました。
 いわゆる離島の苦というもの、台風で郵便が来ないことや雨で島を出れないというものや、本が少ないといったこともあるが、豊かな自然の中で暮らせるということがやはり一番いいとおっしゃっています。


(人は自然に属しているもの)
 「人間の目標はずっと『自然を征服すること』だった、それが20世紀は"自然との共生"そして21世紀のテーマは『人間も自然に属しているものだ!』」ということだそうです。
 「都市にも緑を増やし、水もそのまま飲めるような、そういった自然を豊かにできる科学の発展を望む」とおっしゃいます。たとえば都市の自然の再生として大阪梅田のニューメガシティーがあります。この計画はいわゆる大阪の真中に森を作ろうというもので、2つの大きなビルを空中でつなぎ、下は土で木を植え川や土の道などを作り最終的には人が手を加えなくてもよい自然のサイクルを持った森を作る計画です。コンセプトは"日曜日にも会社に行こう"ということで、たとえば日曜日にでも子供と一緒にその自然を楽しみに会社に行くとか、今までと違い会社が癒しの空間となり、会社にくつろぎに行くといったように利用されることを目指しているそうです。こういった考えを三省さんは肯定するといいます。「都市には都市の性質に合った、そこの考えにあった自然の再生を目指し、それぞれの地域にあった計画が必要なんだ」と。「ようは便利になりようが大事なんだ」とおっしゃいます。

手塚賢至さんのお話
 手塚賢至さん(47歳)。屋久島の白川という自然の豊かな山で約15年間暮らされています。家族は奥さんと7人とお子さんがいらっしゃいます。白川は昔は地元の方が住まれていたのですが、今は島外の方が16世帯中15世帯を占めているそうです。
 手塚さんは高校まで鹿児島に住まわれていたそうですが、当時屋久島には一度も来られたことがなかったそうです。屋久島に来られる前、埼玉の学校で絵の勉強をしてのち、いろんな仕事もしながら画家としても個展を開かれたりして8年間そこで暮らし、31歳で奥さんと4人のお子さんを連れて屋久島に移られました。当時も今も同じ感じの絵を描かれるそうで、屋久島に来るときには自然をモチーフにしようと決めていたそうです。モチーフは"自然の中の樹木"だそうです。

(なぜ屋久島に来られたのか・・・)
 別に屋久島と決めていたわけではなく、山尾さんの書かれた小さな情報欄に屋久島で土地の空きがあるということを知り、ここに来ることに決められたそうです。「子供たちを自然の中で育てた方がいいと思ったから」とも話されていました。自分で創る暮らしをしたかったそうです。「消費者と生産者が別れてしまって、お金を出せばなんでも買えるという生活はしたくない」とおっしゃいます。「食べ物には食品添加物が含まれていて知らない間にそれを口にしている、また環境汚染や公害などのさまざまな問題がある中で自分たちでできることは自分たちの手で作り上げる生活をしよう!」と思われたからだそうです。
(屋久島での生活)
 「囲炉裏はいい」とおっしゃる手塚さん。子供の頃はまだ薪でご飯を炊くのは当たり前で、このような生活を小学校の頃にはまだやっていたので、生活が戻ったというような感じだそうです。奥さんの田津子さんも、ここでの生活には自然にとけこめたとおっしゃいます。「水は川から引き、電気も電話もある。ステレオセットが文明品で一番捨てれなかったもの。屋久島の生活全体でみれば、図書館が少し寂しいという程度。」ともおっしゃっていました。
 「私はまきでご飯を炊いたりするのは大変なことで、いきなりこういう生活をはじめるのにももっと決心のようなものが必要だったんじゃないかと思っていました」とお話すると、「世代の違いというものは大きい」と話されます。手塚さんは「ちょうど自然の暮らしから高度経済成長になり、公害などのさまざまな社会問題(負の社会性)も知っている」とおっしゃいます。
 
(日本人のアレンジ能力)
 「山そのものが神であるということから、どれだけ色濃く自然との関わりが強かったということが伺える。これは日本人の根源にあるアイデンティティーだ。確かに日本人にとって仏教は渡来の文化であったが、でも日本人はそういった自然な考え(土着信仰)と仏教の調和をうまくとり、自分たちでアレンジしてうまく受け入れた。そのことからも、日本人はアレンジがうまいと手塚さんはおっしゃいます。

(人と森のつながり)
 「屋久島の人がどのように自然に対峙してきたのか?そこには"岳参り"というものがあります。これは異世界へのご挨拶でもあり、森の多いところにはそういった神があるという信仰の現れだ。ではなぜ?どうやって屋久杉が本格的に伐採されるようになったのか?それは江戸時代に経済効果を狙って島の人たちを植民地化したのである。さらに日本国がのりだしてきて(国という単位で)資源として目をつける。しかし地元に利益は還元されていない」とのことです。それでも、今も岳参りが続くのは屋久島の人のアイデンティティーがあるからで、畏敬の念がなくなると完全に植民地化されたことになるとおっしゃいます。
 「森は一種の思想だ。一番かけがえのないものだ」とおっしゃいます。

(自然というものは・・・)
 「人が持っている自然への願望・渇望といったものは人間が近代化の中で捨てきれないものであり、脱ぎ捨て衣を変えてきたけど、結局自然から離れられないのが人間というもので、また自然はそういった人間の希望といったものを持っているものなんだ」とおっしゃいます。「『いつかここに帰ってくるぞ』と思えるのが自然で、木があるだけでは自然ではない、ワイワイ楽しめれば本物。自然とはどう楽しむかが大切なんだ」とおっしゃいます。「屋久島を神聖化してしまうのでなく、屋久島を自分の生活でもいかして欲しい」とおっしゃられてました。

私が思ったこと:

(Xさんご夫婦の山の中の家を訪ねて)
 今ある道から少し奥まったところに昔Xさんご夫婦が住んでいた家はありました。周りは杉林に囲まれていて、屋根には草が生え崩れかけていました。その家を見ても、豊かな自然と共生した生活というものを感じることはありませんでした。そこで感じとれたのは、一生懸命に働いているお二人の生活でした。それまでにあれこれと私が考えていた生活とは違っていましたが、なにか「よかった」いうような気持ちでした。ただそこで生きている。ごく当たり前で自然なことだと感じました。
 どんな生活が恵まれているのか。当たり前ですがそれは人それぞれ違います。何を求めているのか、何を幸せに感じるのか、それぞれの人が自分を満たしてくれる生活を求めるもので、そういう生活をするものだと思います。
 自然もまた同じことだと思います。自分の中にそれぞれの自然というものがあって、どんな自然を求めているのかは違うと思います。だから守りたいと思う自然もそれぞれだとおもいます。それぞれの思いの結果が今の自然の形であって、これからの自然の形になっていくんじゃないかと思いました。

 山尾さんがおっしゃっていた、「それぞれの地域にあった計画が必要だ。」ということですが私もそう思いました。今回話を聞いて、私が想像していた自然の中の生活、昔の生活、といったものはあくまで私の想像でしかありませんでした。それで思ったことは、遠くの人が考えてもそれは実際とのずれが生じてしまうんじゃないかということです。そこで暮らし、そこの自然を感じている人が望むものが大切なことだと思います。屋久島で暮らすおじいちゃんや山尾さん、手塚さん、それぞれの方が求めるものも違うし、大阪に住む私が求める便利さというものも違います。それぞれの土地で自分たちの生活環境を考えることが自然なことだと思います。私は屋久島に行くことで自分の身近な環境にもっと興味をもちました。

 私は科学の発展というものが今までは環境に悪い方に進んでいってしまっているように感じました。でもそれは人がそのときに思った便利な生活を実現させるためのものだったと思います。では今はなにを望んでいるのか?私は自然の環境をよくしてくれる科学を望みます。私たちの生活が自然を破壊し、野生動物を傷つけしまう。そういった破壊を減らしてくれて、そして自分の生活の中にももっと自然を取り入れて楽しめるような、そんな科学の発展をしてくれることを望みます。「ようは便利になりようなんだ」と話されていた山尾さんの言葉が印象的でした。
(私の中の自然)
 以前、自然といって思い浮かべていたのは、アフリカなどの野生の動物がくらすようなところでした。でも今思うのは、身の回りの自然です。私が自然の豊かさを感じるのは、家の周りやすぐ近くの山などの自分の近くにある自然を感じるときです。私はそういった自然をもっと大切にしたいと思います。少し行けば山がある。そういった山を切り開いて崩したり、ゴミを投棄したり、そういうふうに壊してしまうのでなく、もっと人が楽しめて親しみを持って接することができるような、自然を身近に感じて楽しめる所になればと思います。国立公園などを守るのももちろん大切ですが、こういった自然をたいせつにすることも大事なんじゃないかと思います。今はそういった自然にあまり目が向けられていないような気がします。でも、身近な自然を大切にしていくことが地球の環境を守ることにもつながっていると思います。
 「自然はどう楽しむかが大切」という手塚さんの言葉で、豊かな自然とはなんだろうと考えさせられました。

(人と自然のかかわり)
 人はそれぞれのいる場所にいるんだと思いました。そしてそこで生活している。そこにはそれぞれの自然というものが存在しているんだと思います。
 どういう生活が自然とうまくかかわれる生活なのか?ということを考えたくていろいろな人に話を聞いてきました。そこで私が思ったことは、これが自然に良い生活なんだというものはなくて、それぞれの中にある自然というものと関わっている生活があって、それはほんとうにさまざまなんだということです。みんな自分の望む生活をしようとする。
 私はこれからも自分の中の自然、自分と自然、そして人と自然について考えていきたいと思います。それはこれだという答えがないと思うからです。だからずっと考えていきたいと思います。

(2)長井 美緒

-屋久島の森林・林業について

 二日目は、屋久島森林管理署署長の中西誠さんに屋久島の森林の実態についてお話を伺った。
 屋久杉の伐採は天正14年(1586年)京都方広寺の大仏建立の用材として伐採したのが最も古いと言われている。その後江戸時代には、島津藩による屋久杉の利用開発が屋久島出身である儒学者泊如竹の献策もあり実施された。屋久杉は「屋久杉手形所規模帳」の布告により伐採から搬出まで厳しく規制し、平木(屋根の葺き板)として上納させ米と交換するなど、一種の専売制度が施行された。
 明治維新後、島津藩所有の山林は全て官林となり、それまで入会地として島民が利用していた森も利用できなくなったため、島民は官有地下戻願書を提出したが、島民が敗訴した。翌年、国はいわゆる「屋久島憲法」を示し、島の周辺部約7,000haは委託林として地元住民の利益を図るなど、屋久島の保護と開発を両立しようとしたといえる。実際の施業においては、樹齢1000年以上のスギ(以後屋久杉と称す)は生立木は禁伐として伐根や伐倒木のみの利用、樹齢1000年以下のスギ(以後コスギと称す)は伐採していたものと推定される。
 戦後になると、建物再建等のために木材需要が増大したため、用材生産重視の考えが取り入れられ、奥岳の大部分が森林開発の対象となった。高度成長期(昭和30年代)に入ると、木材需要は更に逼迫したため、国は木材生産力増強の方針をとり、天然林を皆伐し、その大部分を人工林へ変換した。なお、戦後以降、屋久杉は一般木と同様の扱いであった。
 昭和40年代に入ると、全国的に自然保護運動が高まり、徐々に伐採面積は縮小されてゆき、屋久杉は禁伐となった。
 そして現在では、屋久島が世界自然遺産地域に登録されたのを受け、自然保護と林業等地域振興との両立を図るために、次のような方針に基づき、森林の管理を行っている。
1)森林を自然の特性を踏まえてゾーニングし、厳正保護、保全管理、保全管理と地域振興の両立というように、ゾーンごとに適した経営、管理を行う。
2)屋久杉は禁伐とする。
3)島周辺部は薪炭共用林として島民に委託する。
4)前岳(集落から見える部分)においてはほとんどが戦後植林したスギ人工林であるので、保育管理を行い、間伐、主伐、植林をおこなってゆく。なお、今までは保育間伐であったが次第に伐期に達しつつあるため、必要に応じ主伐をおこなっていく予定である。
5)奥岳(集落からは見えない、屋久杉の分布地域)においては自然環境の保護とコスギの利用を同時に図るため、240年輪伐期の群状択伐区と、屋久杉後継樹を保存する保存区に区分して施業をおこなう。
 以上のように、屋久島の林業は成り立っているわけだが、果たして採算の方はとれているのだろうか。
 そこで、昨年度の屋久島森林管理署の経理をみてみると、歳入額計は18,644万円であるのに対し、歳出額計は81,453万円と単純に見れば6億円以上の出入差である。この差額はどうやって埋めているかと言うと、公益林の保全管理、治山事業などに対し、一般会計を受け入れているそうだ。
 林業は全国的に赤字財政であるが、屋久杉といえば目が細かく、又樹脂が多いために腐りにくく丈夫であるとして材としての評価が高く、その名も知られているであろうに、なぜこのようなことになるのだろうか。その理由として人工林のスギ(以後屋久島産スギと称す)について、まず屋久島内にプレカット工場等が無いために製材するために鹿児島まで運送しなければならず、そのコストが非常にかかるため材の値段が高くなってしまうということが挙げられる。その運賃というのも離島であるために他の産地よりもかなり高くつく。次に、屋久島産スギは芯が黒いものが比較的多いために(他の杉は赤く、より赤いほうが消費者には好まれる)余り良い値がつかないということがある。いくら材としての性質が良くても日本人は見た目を重視するのでどうも買わないらしい。そういった理由により、屋久島産スギは本土の市場に出してもなかなか売れないそうだ。したがって、屋久島産スギの消費は島内消費のみとなっている。そうなってくると消費するほうの需要もかなり限られてくるため、このようなこととなるのであろう。更に、屋久島の林業の場合、屋久杉以外のスギを植えると、湿気のために芯が腐ってしまう。また同じ屋久杉でも挿し木だと同じ現象が発生する。つまり植林するには屋久杉の実生でないと育たないのだ。そして木材搬出の折にも斜面が急峻であるため、高性能機械が導入しにくく、時間、コスト、人手が多く必要となることも追い討ちをかけている。
 もちろんマイナス面ばかりではなく、屋久島ならではの方法で収益をあげている林業もある。土埋木の搬出だ。これは、計画的に国の管理のもと、地元民間会社が搬出している。
 そして、これからの林業であるが、それについて、森林管理署のほうではこの現在の林業を続けてゆき、屋久島の原生的な森の保護と用材林の持続的経営を目指す方針だ。 
 3日目は、5年前まで作業員として屋久島営林署で働いておられた小路口高夫さんにお話を伺った。小路口さんは、昭和28年に18歳で営林署に勤めに入られ、屋久島でもっとも林業が盛んであった小杉谷で木材を搬出する際に利用していたトロッコの運転手をなさっていた。小杉谷での林業は、集落のすぐそばの森を皆伐という形で伐るのが主な仕事であったそうだ。そのため屋久杉はもちろん、ツガやモミ、ヒノキといった針葉樹のほかにも、ヤマグルマ、ハリギリ(ミヤコダラ)、ヒメシャラ(サルスベリ)などの広葉樹もパルプ材として伐っていたそうだ。そしてその主な作業内容は伐採→玉切(木材を一定の長さにそろえ、枝葉を落とす作業)→集材(木材をワイヤーなどで引き出し1ヶ所に集める作業)→搬出というものだ。この作業の際、屋久島ならではの特色として、作業地が急峻である上に材が非常に大きいため、搬出の際、トロッコを使用していたことが挙げられる。又御神木として扱われていた木には、お酒をかけて御祓いのようなものをした後に伐っていた。これらの作業には述べ200人くらいの人が携わっていた。また伐採と同時にスギの植林も行っていたそうだ。
 だが昭和40年代に入ると、国民生活が一応安定し、国民の自然への関心が高まってくるにつれて、森林保護の要請が全国的に広まっていった。又小杉谷周辺で伐採できる木の減少、国民の国内産木材の消費量減少も重なって、伐採面積は徐々に縮小され、昭和45年、小杉谷の集落は閉鎖された。それに伴い小路口さんは、小杉谷から安房へおりてこられ、国有林の管理の仕事をなさるようになり、退職まで続けられたという事だった。
 このように、屋久島が林業地として栄え、衰退していった激動の中で働いてこられた小路口さんに、今後の屋久島の林業に対する展望を伺ったところ、結論としては、林業を続けてゆくのは難しいだろう、そしてその傾向は世界遺産となった事によりますます強まるのではないか、というとだった。その理由としては、まず、屋久杉を伐ってはいけないのでコスギを伐ろうと思っても伐期に達しているものが少なく、採算を取るには厳しい。そして、昔のように林業をしようという人がいない、つまり後継者不足のために、木材がどうのという前に人手がないのだ、ということであった。私ははじめ、現場の方は林業をどうにかして盛り立てていこうとしていらっしゃるのかと思っていたが、実際には、むしろ続けてゆく事は難しいと考えていらっしゃることに驚いた。そしてその原因は、屋久島の森が世界遺産の貴重な森であるという点にあるのではなく、むしろ後継者不足という日本全国の林業地の抱えている問題と全く変わらないものであった。また、世界遺産であることをもっと意識して山に入っていらしたのだとも思っていたが、何も変わりはなく、ただますます屋久杉を切るのは絶望的なのだなあというくらいの気持ちであったようだ。
 以上、2日間にわたり、屋久島の森林・林業についてお話を伺ってみて、屋久島の森林を林業という目から見たときに今一番問題になっていることは、後継者不足と国産の木材に対する需要の少なさ(コストの問題)であり、そしてそれは日本の他の山間地が抱える問題と全く同じものであるということである。屋久島の場合、島産杉は島内消費のみということもあり、現場の人はこれからの林業に対しては半ばあきらめ気味であり、これからはますます衰退してゆくのではないかという意見もあった。今年の林業白書において、国は国有林の施業について、木材生産機能重視から公益的機能重視へと方向を大きく転換しており、それならば屋久島のように貴重な原生林が残っている所はいっそのこと森林保護施業のみにしてしまってもよいのではないかと考えさせられた。
 だが私としては世界遺産となっている所だからこそ、林業という自然との共生を図れる生業を営んでほしいと思ってしまう。林業は島民の重要な産業である。そしてそう考えたときに屋久島の中に人工林が存在することは悪いことではない。もちろん原生的な森は伐ってはいけない。世界にもまれに見るすばらしい森なのだから。だが島周囲部の人の生活圏に近い部分に田畑があるのと同様に、人工林があってよいのではないだろうか。それは自然でないという人がいるかもしれないが、今我々が自然と呼んでいる風景のほとんどが、人々が自分たちの都合にあわせ、森を伐り開き、田畑を作り、小川を引いたものである。そして今、近代化という名のもとに人の生き方が様変わりしたのだから、それに伴って自然という風景も変わっていって当然なのではないだろうか。私はこういう形の"共生"を屋久島の人々が続けてゆき世界の人々に発信し、手本となっていってほしいと思う。

-最後に

 屋久島というのは確かにすごい島である。広大な照葉樹林に、亜高山帯までの垂直分布の見られる森、屋久杉のそびえたつ屋久杉ランドと、熱帯魚の見える海、とそのすばらしさには圧倒された。けれど、そこに住んでいる人々やその暮らしなどはどこにでもある島であった。林業も停滞していた。世界遺産に登録されようと、普通の島であった。そして私は、だからこそ、世界遺産なのだと思った。原生的な森と人の暮らしが共存する町だからこそ、である。そしてそれを、世界に向けて発信し、「自然との共生」の手本となっていってほしいと思った。
 最後になりましたが、お忙しい中時間を割いてお話をしてくださった皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

(3)谷津 潤

<2日目>
G夫妻とそのおじいちゃんの話

G夫妻の話

エコツアーについて
・エコツアーを行っている店の中でYNACが一番力を入れている。(他の県に勉強に行くほど)
・ネイティブはここ二年ぐらいの間から活動している。しかしどちらかというと観光ベース。この手のSHOPは最近増えてきている。

(感想や考えたこと)
 エコツアーの名において、この手の店が徐々に増えているのは予想通りであった。今後もこの状況は変わらないと思うが、このことが原因で環境破壊がかえって進むのではないかとの心配をもった。

海について
・屋久島の海の中は魚の種類が多い(学術的にも調査が行われたのでまちがいない)。サンゴもある(沖縄のように全てがサンゴではなく岩もある)。熱帯気候と温帯気候の両方の海のものを見ることができる。
・最初に海に潜ってから5年ぐらいしか経過してないが、海の水が濁ってきたのがわかる。
・どこかの業者が土砂を落としたため、パンフレットに載っているテーブルサンゴはもうない。
・この集落付近の海水浴場から港にかけてある海岸は、昔は一つの砂浜でつながっていた。砂を取ったら潮の流れが原因で岩場が出てきてしまった。

(感想や考えたこと)
 屋久島といえば山を連想します。いろいろな規則があるのはその山です。しかし、きれいな海も存在することを忘れがちです。山と同様に海にも規則を作り、目を向けないと手遅れになってしまうと考えます。

漁業について
・この港には船が最高100隻ぐらいあったのに、今では20隻ぐらいになった。
・漁師のほとんどが60代。30代と40代が一人ずつのみ。
・トビウオ漁ができなくなったのは、藻がなくなっため。
 つまり、生活排水が多量に流れる→藻が消える→トビウオが産卵できない→戻って来ない(トビウオは鮭のように帰省する性質がある)→トビウオがいない→漁ができない

(感想や考えたこと)
 正直に言って、近いうちに一湊での漁業は消えてしまうと思います。なぜならば、漁獲量が絶対的に少ないからです。このことは日本各地で起こっているのではないでしょうか。

街やその他について
・ここ3年ぐらいで急激に街の様子が変化してきた。
・店の閉店時間が18、19時だったものが22時になったりした。
・大人がゴミを捨てるのは、分解しないことを判っていないからでは、
・子供はゴミに対する意識が強い。大人を注意する。
・結構、山の奥の方で不法投棄をやっている。野焼きだってやっていた。
・部落によってスタイルが違うが、山の者と海の者がはっきりしている。

(感想や考えたこと)
 もともと環境保護に対する教育がなかったので、大人のゴミ捨ては仕方ない部分であると思う。これは今後の課題であり、逆に子供に対するこの教育は成功していると考えてよいと思う。
おじいちゃんの話(現役の漁師)
・南の島に行くほど漁業衰退。
・昔は川にも海にも魚がいっぱいいた。
・漁獲量が減少しているのは地球規模。
・この40年間で魚の量が10分の1ぐらいになった。
・食物連鎖の関係でいろんなものがいなくなった。小型魚がいなくなる→ブリ、カンパチがいなくなる→さらに魚を食べる鳥(カモメなど)もいなくなった
・魚の種類はとても多いといわれたが、減っているのは間違いない。(昔は鰯もいた)
・漁獲量衰退の原因
 a.乱獲 技術の発展(魚群探知機、網など)で同じ場所で何度も獲れる。→減る。2、3年で回復するわけでない(回復は難しい)
 b.温暖化(例)藻がなくなった。→トビウオ漁(約25年前に中止)に影響
 c.開発 山が削られたことによって、土砂が出て水がにごる(昔からあったが質が違う)。山が近いので特に影響を受けやすい。
 d.コンテナ船ができたこと。何よりも安い外国産の魚が入ってきたことが強い影響。
・漁業衰退の対策として現在、青ダイ、青ボタ、黄ボタなどの魚を獲る計画もある。

(感想や考えたこと)
 漁師本人が、これほどまでに漁業衰退の原因を分析できているのに、いままで何の対策も立ててこなかった(特に聞かなかったので推測であるが)のは残念でならない。また、行政が何らかの協力をしないと観光のみに財政収入を頼る島になってしまうと考える。それでも構わないといわれたらそれまでだが。

その他について
・世界遺産登録後に生活は特に変わっていないがゴミの分別は面倒になった。また、スーパーができたので他の小売店が危機的状況にあるのではないかと考える。

(感想や考えたこと)
 漁業で食べていきづらくなったので、観光で売り出せない地域は、衰退するしかないのであろうか。ただの住宅地になるのはもはや避けられない状況にきていると思う。

<3日目>

Z商店のおばちゃんの話
・この集落に人口の割に酒屋が多いのは、シケで島の外の船が立ち寄っていたから。
・漁がなくなると町の商店や酒屋が衰退していく。
・昭和30年代半ばの高度成長に合わせて多くの人が島から出ていった。
・昔女性が芋や野菜を作っていたのは、自分たちが食べるため。

(感想や考えたこと)
 酒屋と漁業のつながりは、驚きで感心した。しかし、この連鎖的衰退は大きな問題ではと思う。

鯖節工場長の話
・鯖節を蒸すときに使う薪は島内の照葉樹林。
・鯖の余り部分(頭、骨、はらわた)は肥料にして、ポンカン農家に売っている。
・いい鯖節ができるのはここの水とカビがいいため。
・現在は、鯖は全て島外から買っている。いなくなったのは潮の流れと乱獲が原因ではないかと考える。
・この工場の鯖は全国に出荷(特にうどん、そば店の老舗が購入)。
・文政5年の番付では西日本のトップにランクされている。
・よその工場が行っていることだが、真空パックができたことによって製品の種類が増えた。しかし、出荷量はまだ少ないようだ。パック製品はすぐにできるので、すぐに金になる。うちの工場は鯖節と枯鯖節の2品で精一杯なのでやらない(ある意味ではこだわりがある)。

(感想や考えたこと)
 一と二番目の意見は、大変興味深いものである。なぜならば、全てが島の内部で行われており、無駄な部分がなく、効率よく循環しているからである。昔から存在するものであると思うが、これは今後の島の課題の解決のヒントになるような気がしてならない。


前ページへ

目次へ戻る