屋久島フィールドワーク講座

「人と自然との関わり」

澤田昌人編(「人と自然との関わり」コース講師・京都精華大学人文学部助教授)

第1部 活動の概要

1.フィールドワークの目標とその日程
 世界自然遺産に登録された屋久島は、豊かな自然が手つかずの状態で残されているというイメージがある。そのイメージの背景には、都市部にすむ人びとが忘れてしまった生活の原点、すなわち人と自然の調和が屋久島ではいまだに残っているのだ、という思いこみもあるのではないだろうか。しかし、フィールドワークとは自分の目と耳で見聞きし、自分の頭で考える、ということが出発点である。思いこみが出発点となってはフィールドワークをする意味がない。そのため今回の屋久島フィールドワーク講座「人と自然のかかわり」コースでは、参加学生が各自のテーマをもって自分一人でフィールドワークすることを主眼においた。また、その前に基本的な知識を得るために環境文化村センター、上屋久町の歴史民俗資料館を訪問し、島民の方々に屋久島の人と自然のかかわりについてお話をうかがった。
 前半の三日間は4名の学生が参加した。初日の午前中は宮之浦の屋久島環境文化村センターを訪れ、展示を見学し説明を受けたほか、副館長の上薗辰郎氏、総務企画課長の柳田一郎氏にお話をうかがった。その後、上屋久町立歴史民俗資料館を見学した。午後は上屋久町にお住まいで屋久島の歴史や事情にお詳しい山本秀雄氏にお話をうかがった。2日目の午前中は、宮之浦で自然食品の店を経営する中島正治氏に、幼少時から現在までの屋久島の生活の変化についてお話をうかがった。午後は、翌日おこなう各自のフィールドワークのテーマを検討し計画を立てた。3日目は各自弁当をもち、島内各所で各自のフィールドワークをおこなった。そのあと、これまでの調査をまとめ、前半3日間のフィールドワークの報告会をおこなった。
 翌日は他のコースの参加者とともに、島内を一周する屋久島学講座に参加した。後半の3日間には4名の学生が参加した。初日の午前中は前半と同様、環境文化村センター、歴史民俗資料館を訪問し、前者では副館長の上薗氏に再びお話をうかがった。午後は、上屋久町議会議員の寺田猛氏にお話をうかがったあと、翌日からの各自のフィールドワークのテーマを検討し計画を立てた。前半のコースでは3日目だけが各自のフィールドワークにあてられたが、後半のコースでは2日目と3日目をあてた。3日目の午後はこれまでの調査のまとめをおこない、その後夕刻より後半3日間のフィールドワークの報告会をおこなった。
 以下前半と後半のコースのそれぞれについて、学生と講師がともに行動した部分の経緯を講師である澤田が執筆し、各自のフィールドワークの報告と感想を参加学生のそれぞれが執筆したが、澤田が必要最小限の修正を施した。
 
前半の参加者:金岡雅文、久芳文香(報告未提出)、久保由紀子、柴田拓弥
後半の参加者:齋藤有香、長井美緒、春友彦(報告未提出)、谷津潤

2.前半(8月3日〜5日)の活動報告

(1日目午前)
・環境文化村センター訪問
 4名の学生と講師の澤田は、午前9時から宮之浦にある、財団法人屋久島環境文化財団屋久島環境文化村センターを訪問した。まず、レクチャールームで副館長の上薗氏からこのセンターの設立の経緯と現況について説明をうかがったのち、展示室を見学した。財団法人屋久島環境文化財団は、平成5年に鹿児島県、上屋久町、屋久町によって設立され、自然と共生する新しい地域づくりをめざす財団である。その構想の一部として屋久島環境文化村中核施設が建設された。中核施設としてはこの屋久島環境文化村センターと、屋久町安房の屋久島環境文化研修センターがある。
 環境文化村センターは、平成8年に完成し、屋久島の自然、文化に関する一般的な情報提供、環境学習の普及・推進、地域内外を結ぶ交流、および環境文化村構想推進の核という役割を担っている。上薗氏によれば昨年屋久島を訪れた観光客16万人のうち、実に半分の8万人がこのセンターを訪れたという。私たちの訪問中も観光客と思われる人びとがときにはバスでおおぜい訪れ、自然、文化に関する一般的な情報提供という役割を着実に果たしていることが看取できた。
 次に同センター総務企画課長の柳田氏から、さる5月に屋久島でおこなわれた世界自然遺産会議について説明をうかがった。この会議は、「住民の協力ぬきに自然保護は語れない」という認識のもとに、世界自然遺産をかかえる自治体の会議として計画されたことが特徴であるという。開会式と基調講演には地元の屋久島高校の全校生徒が参加したり、自然保護が経済的な利益と結びつきうるという事例の発表があったりと、地元に住む人びとの生活との結びつきを重視した会議であったのだと説明された。
 その後参加学生から、屋久島における自然保護NGO活動や、エコツーリズムの現状などに関する質問などが活発に出され、両氏からお答えをいただいた。

・歴史民俗資料館見学
 環境文化村センターを出て、同じ宮之浦にある上屋久町立歴史民俗資料館を見学した。環境文化村センターにくらべるとやや古くて狭い建物で、見学者もほとんどいなかったが、屋久島の歴史に関する貴重な資料がたいへん豊富に展示されている。たとえば展示室の入り口には、一湊の松山遺跡から出土した縄文時代の土器(実物)がおかれていて、貴重な資料を間近に見ることができた学生たちは感激していた。
 
(1日目午後)
・山本秀雄氏にお話をうかがう
 さまざまな領域で屋久島のことにたいへんお詳しい山本秀雄氏にお話をうかがった。学生の方から自らの興味に関する質問をだし、それに山本氏が答えるという形式をとった。2時間以上におよぶお話の要点だけでも長大なものとなってしまうので、ここではお話のテーマをいくつか紹介するだけにとどめておく。
 島民の信仰に関する質問に答えていただくなかで、屋久島の歴史に大きな役割を果たした泊如竹のことをくわしくお教えいただいた。また食糧自給が困難なために古く江戸時代から、杉材、鰹節をはじめとしてさまざまな物資を島外に売っては生活してきたこと、岳まいりの祠におかれた外国銭から、難破船の乗組員もお参りしていたのではないかという興味深いお話もうかがった。総じて屋久島の人びとが太古よりさまざまな工夫を凝らしながら生活してきたこと、それにも関わらず内外の様々な要因により苦しい暮らしがつづいてきたことを学ぶことができた。山本氏が屋久島の歴史、すなわち先人たちの努力に深い敬意を抱いておられることをその知識をつうじて実感した。
 
(2日目午前)
・中島正治氏にお話をうかがう
 宮之浦で自然食品店を経営する中島正治氏にお話をうかがった。中島氏は、ここ40年くらいの間の屋久島の生活の変化とその功罪を中心にお話しされた。一般的にいえば、近年若干の進歩は見られるものの少なくとも10数年前まで屋久島は貧しい生活の人びとが多かったという。その点で近年の変化によって屋久島の生活が楽に、便利になってきたことは歓迎すべきことだとのことであった。全体的には歓迎すべき変化ではあるが、いくつか困った問題も目につくようになってきた。たとえば島外の大型漁船のため、島の船の漁獲量が減ってきていること、ゴミを丁寧に分別回収するのはいいことなのだが、燃えないゴミの処理に苦慮していることなどをあげられた。
 その後自然との共生という大きなテーマでお話しされ、屋久島のサルとシカによる農作物への被害についてもふれられた。中島氏以外の方も口をそろえておっしゃるのは、30年くらいまでは島の人々でもサルやシカを目にしたことがなかったということである。中島氏の意見では、そしておそらく大多数の島の人々の意見でも、人間とこれらの動物との生活圏をどう分けるかが喫緊の課題である。その他にも中島氏が考えてこられた環境汚染と自然との共生の方法についても、興味深い話を親しくうかがうことができた。
 
(2日目午後)
・翌日の個人フィールドワークの準備
 一湊の宿舎に戻り、翌日おこなう各人のフィールドワークのテーマを選定し、インタヴューをする場合はその約束をとった。
 
(3日目午前から午後2時半まで)
・前日の予定にしたがって各人が出発。全員無事定刻通り宿舎に戻り、翌日の夜行われる発表のまとめをおこなった。この講座が終わってからあらためて報告書を各人に提出してもらった。第2部でその報告を紹介する。講師はそれぞれの原稿の一部に手を入れたが、各人の思いは伝えることができたと思う。その反面、文体の統一性に欠けていて読みづらい面もあるかもしれないが、ご海容をお願いしたい。

3.後半の活動報告(8月7日〜9日)

(1日目午前)
・環境文化村センターを訪問。前半と同様副館長の上薗氏にお話をうかがい、館内の展示を見学した。その後上屋久町立歴史民俗資料館を見学した。その内容は前半の報告と重複するのでここではくり返さない。

(1日目午後)
・寺田猛氏にお話をうかがう。そして翌日の準備
 一湊の宿舎で明日以降の各人のフィールドワークについて、テーマを考えインタヴューさせていただく方がある場合はその約束をとった。
 午後2時に、上屋久町の町会議員寺田猛さんに来ていただいてお話をうかがった。2時間にもわたって親しくお話をうかがい内容も多岐にわたったので、そのうちの一部の話題しか紹介できない。寺田さんは昭和33年(1958年)一湊で生まれた。一湊周辺の山は昭和40年代の前半くらいまでサツマイモの段々畑であった。したがって寺田さんの子どもの頃は、サツマイモの混ざったご飯が多かった。そのころは、屋久島のどの集落も海、山、川とのかかわりのなかで生活の糧を手に入れていた。現在では、一湊で消費される食料品のうち8割以上はお金で購入されている。猿害の原因としては、営林署が山の木を伐りすぎて、山のなかでサルの食料の減少したことが第一の原因であろう。明治以降、営林署長が島のなかで一番権力があり、誰もこういうことを口に出していえなかったが、それが猿害の第一の原因ではないか。
 また、屋久島は昔から島外からの移住者が多かった。最近、都市部から移住してくる人が目立っているが、もともと屋久島はそういう島だったのだ。愛媛、高知などの四国の人、あるいは宮崎の人は、山仕事の関係でやって来てそのまま住み着いてしまうこともある。また、糸満漁師、与論の漁師が来てトビウオ漁をはじめたが、そのまま住み着いて世代を重ねている人もいる。結局明治以降に移住してきた人が多く、何代前にどこから移住したのか分かっている人が島内に多い。
 一度島外にでてもまた島に戻ってくる人が多くなった。世界自然遺産に指定されてから、経済的には一部を除いてそれほど変わらないが、子どもたちが自分の島を誇りに思うようになったことはうれしいことだ。屋久島の森林を、国有林の伐採反対運動などを通じて守って来たのは、島の人びとだ。決して国が守ってくれたわけではない。自然との共生という考え方はもともと島の人びとの中にもあって、それが島の森林を守るための運動を何度も繰り返すことができた理由であろう。
 
(2日目午前から3日目正午まで)
・各人のテーマに沿って、一人一人別々にフィールドワークをおこなった。3日目の正午頃には宿舎に戻りその日の夜の発表会のために、資料と考察の整理をおこなった。発表会の報告をもとにして、それを練り直したものを各自からフィールドワーク終了後に提出してもらった。第2部にそれを掲載する。

4.おわりに
 「人と自然のかかわり」班の調査は、鳥やサルや植物を相手にするのとは異なり、さまざまな人に時間と手間を割いていただいてはじめておこなうことのできる仕事である。その点では、フィールドワーク講座をサポートしてくださった、上屋久町、環境文化財団をはじめ上述のように私たちにお話を聞かせてくださった皆様のご協力なしにはこの講座をすすめることができませんでした。私たちの班のメンバーを惜しみなく助けてくださったこれらの方々に厚く御礼申し上げます。


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