熱海海底遺跡、三浦半島調査記録

三浦為通 前9年合戦での褒美で三浦半島をもらう。
1247年北条早雲に宝冶の合戦(北条時頼三浦泰村が鎌倉で戦った。)
敗れるまで。墓は白旗神社にある。
長野の峠を越えたり、富士山の方にも遠征している。
富士古文献の写本が三浦一族の手元にある。
延暦19年、800年に富士山大噴火、サガミの高座郡に難を逃れ、寒川神社が勧請された。
弘安5年1282年 馬入川氾濫、洪水で寒川神社を襲った。
1180年頼朝の援軍に行こうとしたが、船が馬入川の洪水で立ち往生。
頼朝が石橋山から千葉に海上から逃げた。

三浦半島は、鎌倉時代まで、陸地が少なく入り江が多かった。
海岸線もいまより引いていた。
入り江が多いので、三浦一族には、要塞として便利だった。
衣笠のあたりまで入り江があった。
その前は、東京湾もなかった。
須田式土器、陶磁器、鉄、石刀子、鉄ぞく、石じく、くびかざりもあり。
刀は豪族などがもっていた。
陸地が増えると。平野に降りてきて住むようになった。
住まいは竪穴式のわらぶき屋根。
床高ではない。墓は岩穴にある。池田古墳もある。
田んぼは税の対象。ランクがあった。


博物館に書物があり、小田原に早雲大群を集結。小田原城取立て、
伊豆を制覇、相宗端老に見させる。