西宮競輪


 西宮競輪は野球場に仮設バンクを設置して行う競輪場だった。近畿では大阪競輪(住之江)
についで古く全国でも小倉、大阪、大宮に次ぐくらいの初期に作られたということもありこんな
開催が認められたのかもしれない。河川をそのまま使って開催される江戸川競艇同様公営競
技の創成期を思い出させるような風景である。

 阪急電車の西宮北口駅は「北口」とついており町外れのようなイメージもあるが実際はJR、
阪神電車を含めて西宮市内の駅では最も乗降客の多い駅である。阪神間を結ぶ本線と宝塚
へ向かう今津線が十字に交差しており私が小学生の頃は道路の交差点のように平面で交差
していた。そんな駅の南東に阪急西宮球場(のちに阪急西宮スタジアムと改称)があり阪急ブ
レーブスの本拠地、関西でのアメリカンフットボールの聖地、そして競輪場として君臨してい
た。競輪は一番最後になっているが収益は当然ながら一番大きく他の二つを食わせている存
在だった。以前同僚で関西アメリカンフットボール協会に所属する審判がいたが彼によると競
輪のおかげでかなり割安の値段で西宮スタジアムは借りられたという。日程も競輪が最優先に
組まれていた。ゴールデンウィークはすべて競輪開催となり野球は最大の稼ぎ時に1日も開催
できないという年もあったらしい。オリックスはそれに嫌気が差して西宮を去りそのあたりから
スタジアムの存続自体があやしくなってきた。ターミナル駅前の一等地だけに再開発の噂は何
度も上がり施設所有者の阪急電鉄は実際に色々青写真を描いていたようである。ところがバ
ブルの崩壊と阪神大震災により阪急電鉄の経営は悪化し別の意味で売却せざるを得ないよう
な状況となり収益の上がらなくなった競輪はお荷物となり甲子園への統合や廃止への道が探
り始められた。

 甲子園競輪同様、駅の近くに新聞売りのおばさんはいない。狭い道にタクシーやバスが並び
駅前の喫茶店や食堂は弁当や一杯飲み屋の露店を出しているという道を3分も歩けば急に前
方が開け野球場の敷地となる。「だーびー、けんきゅう」と新聞売りのおばさんはこのあたりか
ら出没しはじめる。右手の外野席入口がメインゲート(?)で入ってすぐに前売りの売り場があ
りその奥に手荷物預かり所があった。内野席からも入場できたがこちらの方は晩年には閉鎖
された。
 外野席入口に入ってもスタンドには入らずそのまま広い空間が広がっており露店もそんな中
に広がっていた。瀟洒な球場のたたずまいとは全くミスマッチな光景だった。西宮はソース物よ
りもおでんなどの煮物系が美味しかったように思う。ちなみにおでんが一番美味しかったのは
スコアボードの裏の店だった。一番目立たない奥にあるので味で勝負していたのかもしれな
い。特別観覧席建設時に立ち退きその後復活しなかった。
 スタンド内にはきちんとした食堂もあった。特にアストロのカレーは阪急百貨店の大食堂と同
じ味でルーとカレーが別々に出てくるスタイルも同じだった。庶民はそんなちょっとしたことで喜
ぶというコツを知り抜いた阪急商法だがまたそういうのに簡単に引っかかってしまうのが我々
庶民である。阪急百貨店の大食堂も宝塚ファミリーランドもなくなった今このカレーはどこかで
食べられるのだろうか。話題になる甲子園球場のカレーよりよほど旨い。

 野球場の外野に仮設コースが作られバックネット裏の屋根の上に決勝審判室があった。ショ
ートからセカンドのポジション付近にホームストレッチがあり外野席に沿ってバックストレッチに
なっていた。ストレッチといってもわずか26メートルと非常に短くコーナーの傾斜が急なことも
あって「ルーレットバンク」と呼ばれていた。スタンドは野球場のものだから4万人以上が座れる
が内野席の大部分はバンクの陰に隠れコースは見えず全体が見えるのは上層スタンドと外野
席のバックスクリーン付近だった。バックスクリーンに敢闘門があったこともあってコアなファン
はみなここに集まり負けた選手にはえげつない野次が飛び、勝った選手も無茶苦茶言われて
いた。上層スタンドはレース全体が見えることもありファンも多かったがエレベータもエスカレー
タもなくファンの高年齢化と共にあがる人は少なくなり晩年は閉鎖された。
 もっとも西宮球場には見えにくさをカバーするかのごとく非常に古くからスコアボードに大型映
像装置アストロビジョンがあり競輪の際も有効に使われていた。おそらく全公営競技のうちでも
早いほうだろう。プロ野球が撤退し年が経つにつれドット欠けなどが目立つようになりおいお
い・・・と思っていたら隣接する管理棟の屋上に新設された。その後スコアボードは撤去され特
別観覧席が新築された。この時には「二度とここでは野球は出来なくなってしまったな」と思っ
たものである。この最上階には決勝審判室に使われるであろう部屋まで用意されており(スリッ
トカメラ用のガラスがある)スタジアム建て替えの際に利用できるようになっていた。この観覧
席はどれくらい使われただろうか。今もってぴかぴかのままである。

 この文章を書くにあたって約2年ぶりに阪急西宮スタジアムを訪れた。最後に行ったのは最
終開催、西宮記念の前節2日目だったと思う。感傷に浸る者はなく目の前の勝負に一喜一憂
しており出走表の隅に「長年のご愛顧有り難うございました」と書かれていたように思う。
 甲子園競輪場が跡形もなく更地になっているのに対し西宮スタジアムはそのまま残ってい
た。外野席入口の向こう側には露店や手荷物預かり所の看板がそのまま残り単なる非開催日
のような錯覚さえした。
 バンクを保管していたレフト場外には当然ながらバンクはなかったがパトロールフィルム撮影
用のタワーは縮こまって片隅におかれていた。球場に隣接するゴルフ練習場も近々閉鎖され
る旨の掲示が出されておりここの再開発も間もなく始まるのかもしれない。
 東方から伸びてくる名神高速道路はスタジアムに突き当たり大きく左にカーブして終点(西宮
インター)になるがスタジアムがなくなったらなんでこんな急にカーブしているんだ、と疑問に思
う人が出てくるだろうなと思う。その時には「昔ここには競輪場があったんだぜ」と私は答えるに
違いない。ここに野球を見に来たことは数回だが競輪は数え切れない。
 
西宮北口駅よりスタジアムを望む             かっての細い道は拡幅工事中
 
正面が外野席入口。左手が内野席の入口。         開くことのないフェンスの向こう側。

放置されたパトロールフィルム撮影の塔。ここに非開催日はバンクも保管されていた。

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