甲子園競輪


 甲子園といえば誰しも野球を思い浮かべ競輪場とは思わないでしょう。もっともこの甲子園競
輪も誕生時は鳴尾競輪という名で便乗したのか、はたまたかって騒擾事件がありイメージが悪
いからと改名したのでしょう。おそらく私が初めて行った競輪場ですが尼崎競艇と違いその時
の印象はあまりありません。既に競馬場、競艇場に足を運んでおり慣れがあったのかもしれま
せん。

 阪神電車の甲子園駅から無料バスは出ていた。不思議なことにどこの場でも駅前にいるは
ずの新聞売りのおばさんはいなかった。何らかの規制があったのかもしれない。歩いても15
分もかからないが行きはバスに乗ることが多かったような気がする。帰りは歩いていたが。歩く
時は甲子園球場を突っ切って行くと近かった。阪神高速をくぐり球場の1塁側スタンドに沿って
歩く。野球開催時は当日券を求める観客が並び応援団は真昼からヒッティングマーチや六甲
颪を合唱していた。住宅街を少し歩いたら入場門が見えた。住宅地を抜けていくだけにまわり
の苦情があり無料バスを運行していたような気がしないでもない。野球場近隣の飲み物の自
販機は普通100円だった時代に120円とかとっていた。やっていることは非常に汚い。球場
内に入ればもっと高かったから結構売れていたようだ。今のように甲子園駅前にダイエーが出
来コンビニもあちこちにある時代にはこんなあこぎな商売は成立しない。
 入場門前でようやく「ダービー、けんきゅー」と専門紙を売るおばさんたちに出会う。ちなみに
前半レースだけで帰ろうとするとこのおばさん達は「新聞頂戴」と持っていた専門紙を50円で
買い取ってくれた。8レースが過ぎた頃、おばさん達はこの中古の専門紙を売っていた。半額
の200円から50円まで、残りレースの数によって値段は違ったような気がする。考え様によっ
ては非常に無駄のないシステムでありかっての路面電車や地下鉄の回数券売り(大阪ではタ
ーミナル駅には回数券をばら売りするおばさんがおり自動券売機がない時代、混雑する発売
窓口を避けおばさんから切符を買うのが普通だった。おばさんの儲けは回数券の1枚分の
み。万博の時禁止され姿を消した)を彷彿とさせるが法律上は問題があろう。もっとも総合版な
どという各スポーツ紙の予想フォーカスのみを載せて売っている専門紙(といっていいのか)が
ある大阪のことである。気にしないことにしよう。
 競輪場の隣は同じ施設会社(甲子園土地)が経営する自動車教習所があり競輪開催時は教
習はなく競輪場の駐車場になっていた。もっとも競輪場も開催がないときは野球場の駐車場と
なり車券売場の通路にまでぎっしりと車を詰め込んでいた。さらにいえばバンク内でパターゴル
フもやっていたようだ。月に6日しか開催しない競輪場を民間の会社が維持するのは大変なよ
うであった。競輪では松戸(松戸公産)、西武園(西武鉄道)、花月園(花月園観光)なども民間
所有だがやっていけるのだろうか。この会社は阪神電鉄系で阪神タイガースの若手選手がシ
ーズンオフに運転免許をとるのにこの教習所を利用しており「選手に会える」と話題になったこ
ともあった。某元選手(松村邦洋に物真似される現解説者)は教習車をぶつけて大破させたこ
とがあるらしい。

 メインの入場門は北側でバック側だった。バック側には新しいスタンドがあり特別観覧席にな
っていた。夏の暑い日に入場したらもろに南から日光が当たりあまり冷房も効かなかったよう
な覚えがある。このスタンドの形や構造は岸和田競輪とよく似ておりほぼ同じ時期に造られた
(平成2年頃)のではなかろうか。
 ホームスタンドはオープンで初めて行った頃は特別観覧席もあったがのちに無料化された。
単なるプラスティックの椅子で新スタンドが出来れば金を取る必要はない。コースの近くまでス
タンドは迫り出しており1階は車券売場のみで椅子がなかった。この部分は常に日陰になるの
で冷房はなくとも夏でも涼しかった。南向きのスタンドに懲りてからはここでよく見ていた。出走
前の選手に野次や声援が上からも下からも飛んでいた。南側にも入場門があったがこちらか
ら出入りしたことはない。駐輪場があったような記憶がある。
 スタンドは新しくとも場内の食堂は古いままのスタイルで10数軒が軒を連ねていた。店頭で
はお好み焼きや焼きそばのソースを焦がす匂いがお客を呼んでいた。やはり関西はこれだろ
う。最近は澄ましたような食堂が多くなったがやはり「おっ」と思うのはこういう匂いものである。

 一時期はサンテレビでレースリプレイを深夜に放送したりグランプリを誘致しようとするなど
積極的なところを見せ、バブル期にはドーム化という大きな夢まで語っていた甲子園競輪だが
主催者が複数の市町にまたがる事務組合のみでしかも地元(西宮市)に多くの配分があるよう
に調整されていた。収益が上がらなくなるともともと配分の少ない自治体は「やめよう」と言い
出しまた施設を借りている以上その費用もかかり西宮市自体が熱意をなくし廃止という方向に
進んでいった。もともと閉鎖したがっていた西宮競輪を廃止し甲子園に統合しようという動きも
あったが結局両場廃止という最悪の結末となった。
 選手宿舎を西宮競輪と共用していたが日自振の指導もあり数年前に新築したものの無用の
長物となってしまい施設会社・甲子園土地の怒りも納得できる。私が当時勤務していた会社は
この会社と取引がありもともと売上の減少で賃貸料が下がっているという状況下で選手宿舎を
新築したことについて「阪神パークが閉鎖されその跡地にドームを作るという計画がありせめ
てそれまでは廃止ということはないでしょう」と語っていた。結局会社は教習所を含めて清算さ
れ資産を売却した。

 甲子園競輪の最終日に私は行った。その最終レースが審議となり失格が出るというなんとも
ばたばたした結末だった。全レース終了後西宮市のY市長が挨拶し日頃選手にぶちまけてい
る以上の野次や罵声が送られた。その後兵庫支部所属の選手が並び板東支部長が挨拶しフ
ァンからは「近畿は全部地元だと思って走れよ」など温かい声援が飛んだ。選手達はユニフォ
ームやレインコート(雨天時の選手紹介に着用するもの)を客席に投げ私も緑色の8番車ユニ
フォームを手に入れた。これを持っている限り私は甲子園競輪があったことを忘れないだろ
う。入場門を出る時に主催者から貰ったのは「長年のご愛顧有り難うございました」という紙が
入ったタオルだった。芸がないといったらありゃしない。
8番車ユニフォーム

 廃止され1年半が過ぎたある日私は跡地に行ってみた。スタンドもバンクも、隣接する教習所
も含めて全くの更地となっており仮囲いがしてあった。大手デベロッパーに売却されたらしく高
層マンションが建つらしい。近隣の住居には例の如く建設反対の看板が立てられていた。付近
に競輪場があったことを示すものは全く残っておらず建物が出来たら道も変わりわからなくな
るだろう。それが戦災復興に、自治体の福祉向上に活躍した甲子園競輪の運命としたらあま
りに悲しすぎる。

甲子園球場を過ぎたあたりから競輪場跡を望む。

かっての入場門付近。横断歩道の跡が悲しい。

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