思い出の人、馬

ステイゴールド

 思い出の馬としてやはり最初に出てくるのは2回も万馬券を取らせてくれたこの馬である。私
が最初に認識したのは98年の春の天皇賞の時である。この時私はローゼンカバリーから狙っ
ており似たような成績(2着屋)の馬がいるなあといった感じで新聞を見ていた。とはいえ重賞
の2着はダイヤモンドステークスのみでここでは格が違うだろう、と軽視した。ところがここでも
ステイゴールドは2着に入り「相手なりに走る馬」として全国ネットの人気を得る事になる。ロー
ゼンカバリーが3着だっただけに余計悔しさが募ったものである。ワイドでこの2頭ならどれくら
いついただろうか、かなりの人気になっていたかも。(当時はワイドの発売無し)
そしてこれ以降私は追いかけ続ける事になる。

 宝塚記念も2着となるが、秋シーズン緒戦の京都大賞典で敗れたことと、とてつもなく強い
馬、サイレンススズカがいることもあり秋の天皇賞では人気の盲点に。ステイゴールドから勝っ
たオフサイドトラップを含め4頭に流したがサイレンススズカが負けるとは思わなかった。骨折
でもしない限りサイレンススズカは負けないぞ、と同僚と言っていたら本当に骨折してしまった。
馬券は的中し10万円近く儲かったのだがこれほど後味の悪い当たり馬券はなかった。まだス
テイゴールドが1着なら救われたかもしれないが・・・。 その後もそこそこの成績を残しながら1
着は無し。そして翌年の秋の天皇賞。

 本来の人気馬であるスペシャルウィークは「悪い、悪い」を連発し大きく人気を落としていた。
ステイゴールドとの組み合わせは157倍。ここで買わずにいつ買うんだ。レースでは直線で先
頭に立ち「やった、ついに・・・」と思ったところに「悪い」はずのスペシャルウィークが突っ込みま
た2着。本当に勝つ気あるのかよう。なおこの時の収益金で私は腕時計を購入した。今でも
「すてご」と呼び大切に使用している。

 さあ、あとは勝つのを見るだけ。でもそれがいちばん難しい?それを見ることが出来たのは
翌年の目黒記念だった。ついに主戦ジョッキー熊沢は見捨てられたのか武豊が騎乗。正直私
も熊沢のウデに疑問を持っていたので(もちろん悪い騎手という意味ではない。ただ流れを変
える為には騎手変更も必要だということで)大歓迎でレースを見つめる。そしてようやく重賞初
勝利をあげたのである。私は池江厩舎へ祝電を打った。ファンにとってはそれくらいの出来事
だったのである。

 翌年7歳となりながらも日経新春杯、ドバイシーマクラシックと2連勝しようやく名前らしく「ゴー
ルド」になった。京都大賞典でも1位入線(失格)と絶好調にみえたが秋の天皇賞、ジャパンカ
ップとも敗れ最後のレースは香港ヴァーズとなった。行きたかったが年末に休めるわけも無
い。ステイゴールドはこの最後のレースでようやくG1を勝ち引退するのである。

 50戦7勝2着12回3着8回。記憶に残る馬としてこれほどの馬はいない。もし話せるなら一
度話してみたいと思う馬である。「しゃあないやん、相手が強かっただけやし」と答えるのか。
「へへへっ、俺はへそ曲がってるからな」といたずらっぽく笑うのかどちらだろう。


サクラホクトオー

 弥生賞の季節になると思い出すのがこの馬である。ダービー馬サクラチヨノオーの弟で父は
トウショウボーイという良血馬にふさわしく当時の横綱の名(北勝海)を冠したこの馬は昭和63
年デビューし新馬戦、特別戦、朝日杯3歳ステークスと3連勝、クラシックの最有力候補として4
歳(現3歳)緒戦として弥生賞を選んだ。当然単枠指定で単勝が2倍をきる圧倒的な1番人気。
ただ朝からどしゃ降りの雨でいやーな予感がしたが朝日杯でのあの強烈な瞬発力を見るとま
さか負けるとはと思わず私はウインズ神戸で馬券を購入した。当時のウインズ神戸は1000
円単位でしか購入できず四点買うともう4000円で当時○○生の私には大きな金額だった。不
良馬場どころか水溜りの中で行われているかのようなぐちゃぐちゃの馬場の中淡々とレースは
流れサクラホクトオーは見せ場なく惨敗した。次の日に購入した週刊競馬ブックには「雨は得
意な方ではないがまさかあれほどとは」などという境調教師のコメントが載せられていた。それ
なら先に言いやがれ、と毒づいたことは言うまでもない。

 この年のクラシックは雨にたたられ皐月賞も雨だった。なのにサクラホクトオーは1番人気に
押されており「馬鹿じゃねえか」と今度は外して買った。結果は言うまでもない。ダービーでは天
候は回復したが一度途切れた流れは戻らずやはり惨敗した。
 秋になると「単なる早熟馬」として片づけられようとしていた。そんな評価に反発するかのよう
にセントライト記念を勝ち復活の兆しが見え始めた。それでも春に期待を裏切り続けたせいか
菊花賞では人気を落としていたが私は「買い時だ」と狙いを定めていた。菊花賞当日は晴れ上
がりまさに雪辱のチャンスだった。ところが何を血迷ったか4コーナーで思いっきり膨れてしま
い勝負にならなかった。それでも末脚だけで5着まで来ており真っ直ぐ走っていれば、と私は大
いに悔やんだのである。この後有馬記念に出走したがこの日も雨上がりでぬかるんだ内を嫌
い外外を走りイナリワンの3着に食い込んだ。
 それ以降私はサクラホクトオーを買っていない。5歳(現4歳)でAJC杯を勝ったものの産経
大阪杯、天皇賞では荒れた馬場のせいか見せ場のないまま敗れている。この後走ったのかど
うかの記憶は私には無い。

 弥生賞が晴れていればクラシックの一つも取れただろうなとこの馬の不運を嘆くのみである。
それを含めて勝つことが「強い馬」の条件なのはわかっているがこういう弱さを持った馬に対し
同情的になるのは私だけではないと思う。


ラグビーボール

 現在では考えられないが20年から15年程前は関東馬が圧倒的に強く関西馬はクラシック
にもゲートを埋めるような存在でしかなかった。そんな時代だからこそ関西から彗星の如く出て
きた馬には大きな期待が寄せられたものであるが結果的には関東馬の軍門に下るのであっ
た。そんな1頭であるラグビーボールを。
 オークス馬ノアノハコブネや最近でもロバノパンヤ、ナゾなど面白い名前を付ける九州の小
田切有一氏の所有馬であるラグビーボールはデビューは2月と遅かったものの新馬、特別と
連勝しさらに当時のダービートライアル、NHK杯を圧勝し関西からの刺客としてダービーの一
番人気に押された。鞍上は河内洋で関西の競馬ファンの期待を一身に集めたのだが中2週と
いう日程がたたったのか関東馬ダイナガリバーに屈し「ああ、やっぱり」と今年も期待だけだっ
たかとがっかりさせた。河内は計3回ダービーで1番人気に騎乗するが(後の2頭はロングシン
ホニー、サッカーボーイ)いずれも敗れておりそれについてあるインタビューで突っ込まれると
「サッカーボーイは距離に不安があったしロングシンフォニーも1番人気になるような馬じゃな
い。でもラグビーボールは・・・」と最後の部分を濁して答えており河内自身チャンスがあったと
思っていたに違いない。ダービーに勝てない騎手はずっと勝てないというジンクスが当時はあり
記者の質問もそのあたりを意識した意地悪いものだったが気分を害することなく答えているの
はさすがに名ジョッキーである。先に2回もダービーを勝たれた弟弟子武豊にアグネスタキオ
ンで競り勝ったのはいかにも彼らしい。
 
 ダービーで勝てなかった代わりに次走の高松宮杯では(当時の高松宮杯は7月に行われ20
00メートル戦だった)古馬を相手に圧勝し秋に大いなる期待をつないだ。菊花賞トライアルの
京都新聞杯は5着だったものの菊花賞では再び1番人気に押された。しかし今度は関東馬で
はなくステイヤーの関西馬メジロデュレンに敗れクラシック制覇の夢は消えた。関東馬に一矢
報いるという関西の競馬ファンの期待には応えただけに複雑だった。
 この後ジャパンカップに出走し4着となり翌年以降に期待を残したのだが脚部不安で2度と競
馬場に姿を見せることは無かった。
 
 同年代には前述のダイナガリバー、メジロデュレンのほかに古馬となって活躍した馬にはニ
ッポーテイオー、フレッシュボイス、ランニングフリー、レジェンドテイオーなどがいるがこれらの
馬にひけをとることはないだろうと信じている。なんといってもラグビーボールは掲示板をはず
したことがない。彗星の如く現れ消えていっただけに余計にそんな思いが募るのである。もっと
もこの数年後に関西馬全盛の時代となるのだがそんな時代に生まれていたら私の思い出にな
ることはなくクラシック候補のうちの一頭、という見方しかされなかったような気もする。


吉岡稔真

 吉岡稔真を最初に見たのはいつだったか、覚えていない。ただちょうど私が競輪を始めた頃
でその強さにナンバーあたりのスポーツ雑誌でも取り上げられておりそのあたりの記事ではな
いかと思う。
 デビューからわずか2年で日本選手権を制覇しさらに競輪祭、競輪グランプリを制覇する。
競輪グランプリは「誰が勝ってもおかしくない」レースでありオッズもばらけるのが普通だがこの
92年の配当は560円(枠番連勝単式)で今もって最低記録になっている。いかに信頼されて
いたかがわかろう。当時のF1ブームから「F1先行」と呼ばれた先行力は一度先行態勢に入る
と誰も捲ることができなかった。となれば先行させないようにするのがライバルたちでいつしか
吉岡の低位置は7番手や8番手といった最も不利な位置に置かれるようになってしまった。し
かしそうなれば「1台バイクが走っている」と思うかのような強烈な捲りで6人(7人)をあっという
間に抜き去っていった。
 この脚力は吉岡の最大の武器であったがそれに頼ることによりレースそのものは最も下手
な選手になってしまったように思う。
 その後度重なる落者とケガで全盛期(92年から93年だろう)のような勝ち方はできなくなっ
たものの最大のライバル神山雄一郎との東西横綱時代が続くが山田裕仁ら中部勢の台頭も
あり99年の全日本選抜からタイトルから遠ざかる。自在派に転向できればまだタイトルも獲れ
選手寿命も伸びただろうができなかった。
 2006年に7年ぶりのタイトル、4回目となる日本選手権を制覇したがこのとき引退を固めた
という。引退レースは競輪グランプリ06だったが「吉岡ポジション」ともいうべき7番手に置かれ
てしまった。6人をぶち抜く全盛期のような捲りを見せることはできずと9着でレースを終えた。
 吉岡選手ありがとう。引退レースはあなたから買いませんでしたが(爆) 


手島慶介

 太田真一、伏見俊昭、金子貴志、十文字貴信、堤洋ら競輪の75期は逸材ぞろいだがそんな
なかで競輪学校の卒業記念レースを制したのは手島慶介だった。競輪祭新人王も制し将来を
嘱望されながら伸び悩みそのうちに太田らが先にG1を制していく。面白くないところもあったの
かもしれない。2003年のオールスター競輪の際、宿舎内に携帯電話を持ち込み使用したこと
が発覚し1年間の斡旋停止という厳しい処分を受ける。
 しかしこの後の手島は大きく変わった。練習、ファンサービス、欠場しない誠実さ、スタート直
後に落車しても乗りなおして3位に入るといったガッツあふれるレースぶりで成績も向上。200
5年にはS級最多勝、2006年にはふるさとダービー(G2)制覇しついに昨年SSカップみのり
で念願のG1制覇をなしとげた。
 2009年になって名古屋F1、小倉競輪祭と病気を理由に欠場しておりよほど状態が悪いの
かと思いきや1月25日に急に亡くなられた。一昨年の大宮記念で新幹線代を稼がせてもらう
など思い出はいっぱいある。
 ご冥福をお祈りします。 


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