東海道の旅

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箱根宿と箱根駅伝

箱根宿の成立

箱根宿の成立て

 一六一八年(元和四年)徳川幕府によって宿場が開かれた。時の松平正綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿(幕府の代官支配地)と相模国小田原宿(小田原城府地)から各、五十戸づつ移住願いせし(約六百人)人為的に箱根宿を創設し、また、二つの系統に依って支配されていた。現在も箱根宿主要部は、字三島町、字小田原町と名付けられている。尚、箱根宿成立に寄与された先人たちの不動の祖嗣として現在、九家が実在し、歴史・伝統等を伝承して行く重責を担い道標を築き務めている。

   箱根字三島町 祖嗣 川口屋



 一六一八年頃ハ

 当宿場無高、五穀野菜 無御座候

 霧深キ激寒ニテ田畑無御座候

 湖水ニ而、八、九月頃鱒、三、四月頃

 赤腹申候、山川ニ而、山生魚取申候




箱根駅伝

 東京箱根間往復大学駅伝競争(現在二百十七、九km)は大正九年(第一回大会)に四校で争れました。

 以来、第二次世界大戦により、五回中断されましたが、昭和、平成と三世代に渡り、シード権の獲得校と予選を通過すた大学、二十校、(二百名)のみが毎年一月二日・三日の決戦に挑み、母校の名誉と栄光のために、勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い、熾烈な戦いをしております。また箱根を制したものが陸の王じゃとなり得ているのです。

   箱根芦ノ湖 折り返し地点

      川口屋




箱根について

箱根宿と箱根駅伝についての説明がありました。
箱根宿の成立については先人の力が記録されています。『祖嗣』というはじめて目にすることばもありました。
「川口屋」さんがいったい何者なのか、わからないのですが、こうやって先人の力があったからこそ

 1618年ごろは

 当宿場無高、穀物も野菜も ございません

 霧も深くって 超寒くって 田畑も ございません

 湖には、八、九月頃はマスがとれて、三、四月頃は

 あかはらで、山川では、さんしょうおがとれるよ


Iceが勝手に解釈したものなので、あまり信用しないでくださいね。
この文書の出展がよくわからないし、解釈もちゃんとできないのだけど、暮らすにはおそらく厳しい土地だったんだろうなぁと想像がつきます。先人たちに感謝の限りです。


※看板の文字を転記しています。誤字脱字はご容赦ください。






※地図の位置は、手作業で行っているため、若干のずれがあります。訪問の際は正しい地図をご確認ください




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