あれから21年

検見川無線送信所は、大正12年(1923年)12月27日千葉県千葉郡検見川町に建設
敷地23,788坪を当時の金59,944円で買収、登記完了する。
関東大震災(大正12年9月1日)のあとであり頑丈な、重厚な鉄筋コンクリート2階建、外観人造洗い出しの白亜館
第1次世界大戦のドイツの賠償もあり、ドイツ人の設計とも、英国人ともいわれている。
大正15年4月1日(1925年)開局。初代所長菊谷秀雄氏就任(空中線の権威、後芝浦工大教授)
1930年ロンドン軍縮条約成立に際して日英米3国首相の記念放送。浜口幸雄首相が日本最初の国際放送(J1AA)
1932年ベルリンオリンピック大会の実況を全国中継。
昭和2年(1927年)日本最初の標準電波発射業務。
と短波通信の研究実用化を図り短波全盛時代を歩む。
そして日本の富国強兵時代軍国時代に入り植民地通信の強化。重要な送信所として任務をはたす。
昭和20年8月15日、日本の敗戦により、これらの通信は一斉に停止した。
戦後は敗戦による混乱の中、有線による国内回線通信網の荒廃が著しく無線による国内通信網の整備
検見川の幹線通信は東京と12主要都市間19波の回線。社会秩序維持の為の警察無線。
その後海上保安通信、共同通信、時事通信社による国内外のニュースを短波による同報通信。
航空気象、国内気象。防衛庁の委託業務、そして大きな傘型アンテナで検見川の象徴でもあった長波40KHzによる
標準電波の発射。
25代の所長、多くの労働者に支えられた送信所も電電公社の経営の無施策(土地に対して買い取る等
必要な手だてをしない)と労働組合つぶしともいえる合理化、金儲けの為無人化したいだけで、検見川での維持を放棄。
昭和54年(1979年)2月28日廃局にしたのです。
私達は、公社に負け、労働組合にだまされて、臼井無線送信所へ配転させられその臼井も7年後に廃局にされました。
業務は茨城の無人の名崎無線送信所へ移管されました。
今年20年をむかえここに私の歴史を少し紹介します。
追記 局舎の設計者は、吉田哲郎氏(逓信省経理局営繕課)表現派風建築、富山県福野町出身、おじさんが卒業した
福野高校の前身県立農学校の建物(国指定の重要建築物)の設計で有名。洋風のしゃれた建物で保存されている。
インターネットで調べる。(日本近代建築データベース)

廃局前の送信所から見たアンテナと周辺1973年10月撮影

西友、JR新検見川駅〜山側90度パノラマ
シンボルの第1鉄塔から海側へ45度のパノラマ
社宅方向
正門から桜と松でかざられた道路(1978年4月撮影)この春最後の桜。公社は、ベトナムで使用した枯草剤で、先輩達の財産を枯らしてしまった。