ヨシオ氏のUターン転職体験談
(これはヨシオ氏自筆の投稿原稿をそのまま掲載したものです。)
(非常な長文です。)
第一章 就職
転職してからはや十年が経過した。いつのまにか一番長く続けている一つの仕事になってしまった。現在同じグループの中では最年長。しかし満足しているわけではない。そして満足していないことに付いてはこれで良いのだと思う。なぜならば満足したときはもう仕事は適当にすれば良いという身分になってるときだから。
転職の話の前に、どうして転職前の仕事を選んだのかと言ういきさつが必要だろう。
最初の仕事は車の設計。乗用車の内装品、特にシート、シートベルト関連である。
高校二年の中間テストのときに中学時代の友人から借りた自動車雑誌が車の設計に携わるきっかけになった。中学生の頃までにフランスのシトロエンと言うクルマが前輪を駆動していることは知っていたが、自分のごく身近にFF車が有るなんて思いもしなかった。そしてその頃、親父がホンダN360を購入した。これは当時一世を風靡したFF軽自動車で、これで車への興味は一気に湧きあがり、もともと機構や仕組みを考えることが好きだったために車の設計を目指すことにした。すぐ自分の机の中に、車のスケッチそれもスタイルだけでなく中身まで書いた紙がたくさんたまっていった。自動車は制約された受験生活から夢見た自由そのものだった。
大学は予定通り工学部に進むことができた。でも大学ではどういうわけか自動車部ではなく、アマチュア無線部に入っていた。二級ハムの資格まで取ったが自分では交信をせず、一人でアンプなどを作っていた。でもこの当時自分は必ず車の設計に関わるものと信じていた。したがって就職先の希望で悩むのはどの会社にしようかと言うことぐらいだった。設計者と言う言葉にあこがれがあったし、今から考えれば甘かったが、自分にはそのセンスもあると思っていた。
今の就職難の時代とは違い、ほとんど滞りなく予定通り車の会社に入った。但し希望していた会社ではなかったが。しかし一度入ってしまえば希望通り乗用車の設計につくことができた。同期の人間も乗用車関連の仕事を望む者が多かったが、その大部分は研究実験関連に行きたがった。要は皆車の運転がしたかったようで、学生のときに車の運転の経験を持つものはまだ多くはなかった。そして自分のように設計を目指す者は比較的少数派だった。
入ったところは自動車メーカーでも、トラックが主となる会社だった。いますこし後悔するのは、乗用車ではなくてトラックの設計に行けば良かったと言うことだ。もしあなたが設計を目指し希望配属先をきかれたら、その主力商品を設計している部署を目指すべきである。そこにはやはりその会社の柱となる何かが有るものだ。技術でも人材でもそこの設計者たちの考え方でも。そしてその中核をなす人間になれればそれなりの充実は有るし、たとえ躓いて再度出直すことになってもその時の経験は役に立つだろう。ただそのぶん厳しい環境のはずである。
ただ自分は、若気の至りでやはり乗用車の方がかっこいいと思っていた。日本のモータリゼーションが始まって少したった頃だったし、乗用車の方が進んでいる気がしていたのである。しかし、今ふりかえると、トラックの方が乗用車より面白いしくみを持ち、プロドライバーが評価するか故に合理的な思想を持って設計してされていると思う。
行った先はたとえ主流の製品設計ではなくとも、仕事は予想以上に厳しかった。それでも十年間続いた。朝は八時から、夜九時が事実上の定時という世界。しかし逃げ出そうとは思わなかった。この仕事がこなせなくてどこに行けばこなせる仕事が有るというのか。一生懸命やっていればそれなりに成果が出ると信じていた。いま思えばうぶな考え方だったが。
他の会社から転職してくる人間がいた。彼らがここに来て成功するのかと言えばかならずしもそういうわけでもない。転職してきたがすぐ辞めてまたどこかに行く人間もいた。実際いろいろな奴が転職して来てそして辞めていった。弁舌さわやかでいろいろなことを知っている(様に見える)奴。彼は一ヶ月とたたぬうちに辞めていった。従って口ほど頭が有ったかは分からない。彼に言わせるとここの仕事は理に合わぬことが多かったらしい。また、とんでもないことを夢見て、しかし技術力が無く、結局ついて行けなくなり辞めたものもいる。
さすがに同業他社で同様の仕事の経験を持って入ってくる者は続く場合が多い。それなりに仕事を理解しているし受け入れるほうも即戦力になる。なぜ彼らが転職してきたのかといえば、一つは小さなメーカー(少なくとも乗用車では弱小メーカーだった)なら自分の裁量の範囲がひろがり、より思い通りの製品設計が出来るだろうと言う期待、または、大きなメーカーの下請けで同様の設計をしているのに、立場上自分の思う通りの仕事が出来ず、給料も低いと言う不満。これらの動機で来た奴等はそれなりに使えるし順調に伸びて偉くなる奴もいる。
しかし彼らを見ていて自分も転職しようと言う動機は湧かなかった。何と言っても同じ仕事をするならば、いまいるところで実績を積み上げている分有利ではないかと思っていた。そんな自分の考えが変わったのは、いきなり自分が望むと望まないとに関わらず社命での転職、即ち他の会社への出向を経験したからである。
第二章 出向
おそらくは上司の不評を買ったことが直接の原因になったのだろうと思う。自分の信念からでは有ったが、逆らったのである。直属の上司ではなくて他のグループの長だった人だが、運の悪いことにこのトラブルが有ったあとしばらくして、その人が自分のグループをも見ることになった。
非常に仕事に熱心で、それがゆえに独善的な上司であったが、しかし彼の一存だけでいきなり社員を出向させたわけでは無かったと思う。今と違い、まだ若い一般の組合員をすぐ系列部品メーカーに出向させられるわけではない。それまでそんな出向は聞いたことが無かったし、多分に初めての事例だったと思う。ただ、自分の評判は自分が思うよりも高くなかったらしい。だれそれを出向させるとは、今迄その人物がやっていた仕事を誰かが肩代わりすることで、逆に言えば、それまでの実績として彼は誰かが代わってやれる程度の仕事しかやっていなかったと評価されていたのである。少なくともこの出向を決められたとは、上司はそう判断したし、そして出向から戻ったときにその正しさをこんどは自分の目で確認させられることになった。十年近く一つの部署に在籍していながら、自分の実績とはその程度だったのである。今考えてもベストは尽くしていたとは思うが、努力と結果はかならずとも比例しない。これも世の中の事実である。
その出向の理由が明確ではなかった。だから関係者はそれぞれの立場でそれぞれの都合の良いように考えた。出向先は自分がそれまで親会社の社員とて自分が指示を出していた系列の部品メーカーだった。定年間近の人員整理とは違い再び戻る条件だったし、これもおかしな見方をされる原因の一つになった。当初受け入れ先の会社はこの出向の意味をはかりかね困惑していたが、折りから主力乗用車の部品の入札が始まる直前だった。だからその発注先の担当設計者が出向してくるというのは、自分達のところに間違いなく受注がくる証拠だろうと考えたのである。そして帰ったときに今度はその仕事を親会社の立場から引き継いでくれるものと思ったらしい。
自動車部品の入札は建築物とか橋梁工事と同様、まだ物はおろか図面も無いうちに、要求仕様に対する構想と値段で決められる。具体的な設計は納入メーカーが決まってから始まる。それは部品メーカーの設計力を取り込むためである。当初から部品メーカーを参加させるこの開発方式は当時デザインインと言われ開発ステップの初期段階からコストをつめる方式として注目されていた。
自分は出向先の社長からこの新しい車の部品の設計をすることを命ぜられ、自分でその仕様書を受け取りにいった。その仕様書はまさしく自分が半年前に書いたその物だった。
第三章 立場の違い
下請けと言われる会社の人が頭を下げているのは親会社の社員の個人ではなくてその立場に対してである。これを強く意識せざるを得ない出来事が起きた。出向先で自分は課長だった。自分と入社日が同じ係長とさらに部下を二人与えられ、自分も入れて合計四人でチ-ムを組んだ。ところが一ヶ月くらいして係長から一週間のストライキを打たれた。最初は二日くらい風邪で休むというその理由を疑わなかった。さすがに三日目になるとその理由に無理がある事を感じ始めた。どうしたんだろうと思うちに自分のとなりの課長が電話を受けているのが聞こえた。
つまり上司の自分に対する不満が有ったらしい。ダイレクトに言えなかったのはこちらが得意先から出向してきた人間だからだろう。愚かにも自分はそれに気付いていなかったのである。入札に勝つために走り回っていた最中だった。自分のやっていることが回りの部署から浮き上がっていること感じてはいた。が、まさか自分の足元がそうだとは思ってもいなかった。
困った挙げ句ようやく出てきた係長を捕まえて、酒をさしで飲むことにした。向こうもこのままではいけないと思ったのだろう、付き合ってくれた。そこで言われたことは当時の自分には衝撃だった。彼はこういった。「設計するチームを持たされたのでしょ、それならばその我々を連れて客先に挨拶に行き、そちらの発注を受ける体勢ができました、だから安心して発注をくださいと言ってくるべきだ。」客先とはつい半年前自分がいた職場である。それまでは行けば自分の家の気分になれる場所であり、さらに情報収集の場所でもあった。しかし客先と言う意識はそれまで無かったのである。立場が変わるとはこういうことなのだと思った。言ってくれる人間がいただけ自分は幸せだった。そしてこのことはその後自分の意志で転職した際に、心構えとして非常に役に立った。別な場所には別なルールが有るのであり、それを理解しないうちに動くことは危険である。第一印象と言う言葉でわかるように、その会社のプロパー即ち生え抜きメンバーのヒンシュクを買った場合はそれをリカバーするのに長い時間がかかる。
第四章 二つの会社
さて、こうして何とか軌道に乗りかけた仕事だが、結果は無残にも受注できなかった。自分の構想書に対して自分で受けられなかったのである。後で自分だけの責任ではないことが分かったが、失敗直後は社長の前で二時間立たされていろいろ聞かれたり説教された。この社長も自分と同じ会社から出向してきた人だが、社内では人気が有った。コンペチターの営業部員からですら、「真に自分の会社のことを思っている唯一の人」と評価された人物である。しかし何と言っても八百人近い従業員の生活を預かる身である。当然の事ながら、彼は非常に重大に受け取っていた。彼から強く言われたのは、「どうしてもっと情報を持ってこなかったのか」との言葉である。この言葉通り、出向先で自分が期待されていたのは情報の入手の手段であった。
一方自分はまだその親会社に籍を置きいずれ親会社に戻る身分だった。その親会社から言われていたのは皮肉にも情報を持ち出すことはするな。ということだった。
話は入札の結果が出る前にさかのぼるが、ある日、自分の元の職場で自分に取って代わった担当者の机上に一枚の書類を見た。それは競合する他社の部品の略図だった。今迄に無い画期的な構造だったが、すぐどういうメリットが有るかは理解できた。同時にデメリットも解かった。が、その夜自宅に電話が掛かってきて、その秘密は出向先には決してもらすなと言われた。自分は出向先からこの仕事を取る責任者に指名されている立場である。よってこの警告を無視して出向先のために役に立てる事もできた。実際そうすれば結果は変わったかもしれない。
が、そうすれば元の職場に戻れない可能性があった。そしてその方が恐かったのである。このように自分の身分は非常に矛盾したものであった。
やってられっかと言う気分になったのは当然だが、自然に自分の行動の基準は出向元であろうが出向先であろうが、「会社」と言うものを離れたものになった。何しろ会社が二つあり、双方から事が互いに矛盾した指示が出るのである。だからこう考えた。会社から与えられた行動規準はそれだけの物であって、それはいずれにしても他人が決めたものに過ぎない。他人とは出向したことも無い連中である。よって、そんなものは無視してしまえと。
自分中心とはつまり会社人間にならず、はっきり言えば自分のために会社が有ると思えという考え方である。どこそこの会社の従業員になったということは、自分とその会社の間でお互いに対等の利益となるから雇用の契約を結んだのであり、それが自分や家族の害になるとか、会社の利益になるが常識的におかしい事を要求されたならば、当然自分はそれなりに身を引く・・場合によっては辞めるのが当たり前だ。
第五章 定年間近の出向
それならばなぜ入札が失敗した時点で辞表を出さなかったのかと言うことになるが、それは自分が楽になることに気付いたからである。入札失敗の結果は一年で出た。そして出向期限は二年だった。つまり一年後は確実にもとの職場に帰れるし、それまでは給料保証付きで実際の仕事はあまり無い状態になった。出向先としてはお荷物になるはずだったが、ここではその自分中心的な行動規準に従うことにした。
前にも書いたように、設計とは激務である。よって仕事が楽になりしかも給料の保証があると言うことはきわめて魅力的だった。この時の一年間は今から考えても期待通りの「充電期間」だった。
まず出始めたばかりのノート式パソコンを初めて購入した。まだノートとは言わずラップトップと称した頃の代物である。しかし出向元にいたならばおそらくはパソコンに触れる時間のないままいつのまにか置いてけぼりを食うオジンになっていっただろう。そしてそのインプット手段として、日本語ブラインドタッチの指導書を買って練習した。二週間ほどでマスターした。以前学生の頃モールス信号を覚えた時の反省から言えば、肝心なのは忘れないようにすることだった。そのために日記を書き始めた。
さらにこのとき思い付いて、自分の過去にさかのぼって日記を付けることにした。つまりそれまで持っていた仕事の記録や手帳、あるいは写真等から自分がいつどの時点で何をしてきたかを思い出し都度パソコンに日付と一緒にランダムにインプットしていった。これを日付の順にソートすれば過去の日記ができる。無論、日にちが限定できず、月くらいまでしか解からない項目もあったが。面白い作業で、自分を知るための資料になった。自分がどんな経験をしてきたのか、何が得意で何が苦手なのか、そしてどんなときに一番楽しいのかが解かった。また、どんなに探しても何の記録も見付からない年があった。特に理由などは思い付かないし、前後の年の記録から見ても何をしていたのかはっきりしない、そういう年があった。
ともかくこの時から日記を付ける習慣が始まった。日記は現在も続いている。とにかくこの記録のおかげでいざ転職するときに自分を進める方向を、自信を持って決める事ができたのである。
出向二年目は仕事でも好き放題をやった。再び入札受注の仕事をやったが一年目と違い、今度は攻めるほうだった。一年目の入札はモデルチェンジ部品であって、そのモデルチェンジされる車の部品は、その時出向先のラインを流れているものだった。よって次のモデルチェンジ車の部品が受注できないと言うことはそのまま売り上げの減少につながるわけだった。
ところが二年目の入札の仕事はそれまで他のメーカーに行っている仕事を取ってくるもので、仮に取れなくても仕事が減るわけではない。だからプレゼンテーションや、はでな内容の資料作りやらとにかくやりたい放題をやり、出向元の会社でも少しは話題になったようだ。この為に一年目の評価を多少は挽回できた。ここでその詳細をこれ以上説明するつもりはないが、その間に、他の出向者の考え方、仕事への姿勢なども目にすることができた。これももし出向元にいたならば見聞できなかったことだろう。それについて言っておこう。
ひとつは定年間近の出向についてである。最近はリストラという言葉のなかに含まれるようになったが、昔から系列メーカーに出向させることは、非組合員で定年間近の人に対する人事の常識だった。入社したては同期の人はそのままそろって昇進して行くが、当然上に上がればポストは限られてくる。ここではじき出された人間の行き先が系列メーカーである。今は崩れつつある系列会社の集団の存在意義は、この人事のためでもあったことはもう周知の話である。競争激化のために系列が維持できなくなったことも、リストラが盛んになった要因の一つだろう。
自分が出向した先には、このようにして親会社から出されて事実上もう帰れる当ての無い人が何人かいた。
たとえばある人は自分と同じ親会社の出身で百人近い部下を率いる部長だった。自分はその人の元いた職場での活躍を知らない。でも少なくとも出向先では、取締役として迎えられてはいたもののどういう役に立っているのかさっぱり解からない状態だった。口から出るのは出向元の親会社の、自分のおそらく同期に近い専務クラスの人の悪口。あるいは今、自分がいる出向先の社員が無能だと言う嘆き。ある日プレゼンテーション用資料を作りそれを持っていったら、「うちの社員ではとてもこういう物は作れないからなあ」と言われた。幸いにもその場に他の社員はいなかったが。
しかし昔がいくらのんびりしていたとは言え、東証一部にのる会社の部長クラスまで上がった人物が無能なはずはない。彼がこうなった理由は明確でないが、確実なのは出向先の社員から浮き上がっていたことだ。その人の気性で唯一自分が敬服していた点であったが、とにかく容易には妥協しなかった。そしてその為かプロパーの重役との対立が激しかった。このプロパー重役も問題児で、それこそ昔の浪花節的営業活動をいつまでたっても振り回していた人間である。しかしその性格の故に部下から人気があった。だからこの重役に敵対する出向重役に従う人間は少なくなってしまった。自分も同じ会社から出向してきた身分であったが、親しいプロパーの課長から、「あまり近づかないほうが良いですよ」と耳打ちされたことさえある。繰り返し述べるが、違う会社に入ったら、たとえ自分の地位が偉くてもまずその会社内のやり方について一度黙って見てみるべきだ。出向前に外部から見ていて良く知っていたつもりでも、中に入ってみると全く違うことがわかる。
もう一人の出向者について話してみよう。彼は対照的にプロパー重役の言いなりになってしまっていた。性格的にもあまり強いほうではないため長いものにはまかれろと言う姿勢がありありと見えた。したがって自分の意志でこの会社をどうしてやろうと言う気概は全く無い。出向が決まったとたんにプライドも捨てて悟りを開き、つまりは定年以降の収入源をおとなしく確保していただけなのである。
二年目は出向先の同業会社とかなり密にコンタクトする機会ができた。自分は両社共同で共同入札をしようという作戦をやっていたのである。そもそも別の系列に属する会社だったが、ここもその親会社からの出向者を受け入れていた。その一人はデザイナーだった。
デザインの仕事は実力主義の世界であり、傍目の想像とは裏腹に厳しい世界である事は同期のデザイナーから聞きかじっていた。乗用車は若い人間をターゲットに開発される。今ではオジンになりつつある自分は良く理解できるのだが、車は年寄り向けに開発しても売れない。それは大部分の年寄りはより若く見られたし、年寄りに見られたい若者はいないからだ。だから車のデザインは若者向けにする。ところが若者の好むデザインは当然若いデザイナーでなければできないところが有る。また、デザイナーは多分に生まれつきの天分によるセンスが物を言う。年を取って経験が豊富になった分だけ良いデザインができるわけでもない。だから、デザイナーと言う世界は年寄りには厳しいのである。
そもそもデザインとは流行の先端を目指す仕事であり、流行を追うのは年寄りには苦手なものなのだ。実際デザイン部においては、新入社員が入るたびに先輩達が彼らのセンスの良さに嫉妬する場面もしばしばあるらしい。もしあなたがデザイン部門の人間で、しかも抜群のセンスを持っているとは言いかねるならば、早めに管理者としての能力を磨き、デザイン能力とは別の、人をコントロールする術を得ておくことだ。それを忘れるといつのまにか自分より若くなったデザイナー達の中で、あなたは単なる粗大ゴミになりはてるだろう。
話しを元に戻すと、おそらくはその粗大ゴミとして出されたこの中年デザイナーはやはり出向先で浮き上がっていた。彼はデザイナーらしいわがままだけは身につけていたが、同時に人と付き合うセンスはその年に見合わず全く幼稚だったのである。だから出向先であきれられるだけだったらしい。
定年間近の出向者が、全部が全部駄目な人間ばかりだったわけではない。自分の役目を心得て、懸命にその出向先のために役に立とうとしている人も確かにいた。だがその姿勢もせつな的で、はっきり言って大部分の出向者は惨めなものだった。
そしてこれは自分の将来を予見するものだと理解せざるを得なかった。
第六章 出戻り
さてやりたい放題をやって、予定通り二年の出向を終えて帰ってきた。帰るとき出向先からはたとえ儀礼的なものか多少はあるにせよ、戻るのを慰留された。実際大部分の出向者は帰ってこないのである。しかし出向させた元の職場からは戻ってくるように指示が出ていた。しかしその理由は自分が欲しかったわけではない。
最大の理由は、出した人間は約束の期限通り必ず元の職場に戻すと言う人事の大原則を守るためだった。あと二ヶ月くらいで戻ると言うときに、既に変わってしまった職場の上司から「戻りたいならばはっきりそういった方が良い」と言われたことがある。この時もとの職場はもう自分が居ようが居まいが大して変わらない状態になっていることを悟った。二年も不在ならば当たり前の話であるが、そのときの自分は愚かにも大役を終えて凱旋するような気分なっていたのである。
だから帰ったときに歓迎されてないことに戸惑った。そして、元の仕事をうまくできない自分に気付くのに一週間も掛からなかった。二年間の間にまず技術が変わっていた。乗用車の衝突安全性を確保するべくエアバッグの導入を柱とするいろいろな新しい技術導入がされている真っ最中であり、いきなりそれについて行けぬ自分を発見する。用語すらわからないのである。仕事のやり方も二年前の経験が通用する世界ではなかった。新しい開発手法が導入されていた。更に問題だったのは、自分は帰社すると同時に部下を持たされ下を引っ張らなくてはいけない立場になってしまっていた。出向すると同時に元の会社では自分は昇進していたのである。
グループの構成員も半分近く変わっていた。彼らの性格を見抜くまでしばらく時間が掛かった。そしてさらに自分に関係する他の部署も半分以上の人間が変わり、出向前に自分が構築していた人間関係がほとんど役に立たなくなっていた。誰かが名付けた通り「浦島太郎状態」になっていた。部下も上司も馬鹿ではない、こちらがわかっていないことはすぐ見抜かれてしまった。
思えば自分の仕事歴の中でこの時が一番つらい時期だった。この時に比べれば転職時の戸惑いなど物の数ではない。一つの判断ミスが自信喪失につながり今度は逡巡して判断できない。夜帰るのが十時で、しかし朝は四時に目が覚めてしまう日々が続いた。寝不足で出社しまた判断を間違った。とにかく自分が全く駄目に見えた。出勤するときに乗り込むバスを間違えたことすらあった。今から考えるとどうしてこんな精神状態になったのかわからない。
仕事についても愛着がもてなくなっていた。その理由の一つは自分の担当する部品のなかに、入札で負けた相手メーカーの部品が有ったからである。原価が安い新機構をもってして我が出向先の会社にせり勝ったはずだったのだが、一年経ったら、かつて口止めされたその機構は品質上の問題を抱え、しかも原価は上昇していた。これを何とかしろと言うわけだ。今考えれば人をバカにした話だと思うが、しかし当時は怒りすら湧く余裕が無かった。とにかく立場上やらなくてはいけないので、このことは仕事がうまく行かない理由にしていただけである。
理由の二つ目は、何か違うと言う意識だった。実験計画法、PART、FMEA等の開発手法を導入し、それにしたがって開発を進めるのに精一杯で肝心の、クルマの魅力の作り込みはおざなりだった。設計する人間はその製品に惚れ込まなくては良いものはできない。しかしとても惚れ込める余裕はなかった。自分だけでなく惚れ込んでいる人間はいなかったと思う。これで良いのかと思っていたがはたしてそれは・・後で結果がでることになる。
自分がいわゆる部下の管理ができないことも発見した。技術者としての自分はイメージできるのだが、部下の統率や人事考課はどうやるのか全く理解していなかった。長らく自分一人で仕事をすることが多かったためだろう、自分の仕事を人にやらせると言う習慣が無かった、というより思い付きさえしなかった。自分で仕事を抱え込んでしまうのである。生来早口であり、何を言っているのかわからない事も問題としていきなり表面化してきた。
そもそも車の設計は一人でできるものではない。設計だけで最低百人近くの関係者がいるのである。だから他人とのコミュニケーションが大事になるのは当然で、そのためのスキルを身につけてこなかったのは大失敗だった。
この時はつらさから転職を考えた。初めて本格的に考えた時期である。実際バブルの最中だったし職には困らなかった。斡旋業者に電話して資料を取り寄せたこともあった。でも何かが引っかかっていた。今この職場では駄目だが、ここで逃げ出したらもっと駄目になって再起不能になるのではないかと言う不安である。転職してもつらい時期があるだろう、そのときにこの自信喪失のままやっていったのでは再び駄目になるのではないか。いずれそのツケが回ってくるのではないかという不安。このための逡巡する期間が続いた。このまま行っていたら必ずストレスで体を壊していただろう。それでも一年続いた。
何事も一年もたてば状況は変わってくるものである。やがて乗用車の部品設計から小型トラックの部品設計に担当変えとなった。同様の仕事ではあったが関係者も少なく、ほかの部署を眺めても同じ車の担当は少数だった。何よりも関係者が減少したのが幸いだった。ここにいたってようやく「反撃」を開始する余裕が出てきた。
この小型トラックは、トラックと言ってもレジャービーグルとして分類され、実用よりも面白さを主眼にした製品作りがされる傾向になりつつあった。また少数精鋭で自分の独断でやれるようになったのはうれしかった。再びやりたい放題をするようになってきた。
たとえばそのうちの一車種は、車両をまとめる役が一人しかいなかった。彼自身は別に強烈な個性を持っているわけではなく、逆におとなしかったのでこちらの要望を入れてくれた。その代わりこちらも乗用車をやるときよりずっと身を入れ込んだ。
皮肉な話しだが、関係者が非常に多かった主力乗用車は商品として全く成功しなかった。この乗用車は自分が出向していたときに部品の入札に失敗したものだった。その後帰社したときに担当させられてひどい目にあったこともあり、個人的には何もかわいいところがない代物だった。成功しなかった理由は一言で言えば没個性であり魅力が無かったからである。開発手法に追いまくられた関係者達の自己満足だけで終わったクルマだった。反面、少ない設計者の集団で作り上げたレジャービーグルの方は十年近くもたつにもかかわらずまだ売れている。
出向した先での苦労、そして出戻り時の苦労について会社のせいにしたり、上司のせいにするのは物語にはよくあること。しかし現実に元の会社に戻れてはっきり解かったことは、出向させたのは上司でも、その先の苦労は彼の意図ではないことだ。そもそも自分の将来をどうこうしようと、だれかが考えているわけではなかったのである。上司も含め全員が自分のことで精一杯で、他の人のことなど考えてはいなかった。帰社した後の労苦についても、だれの悪意によるものでもない。強いて言えば自分の無能のためだった。それは自分自身が一番よく分かった。故にあれほど苦しかったのである。
第七章 転職の決心
そもそも何の為に仕事をするのか。何でそんな苦労をするのか。その原点に返って考えるときが来ていた。カネ?。そうかもしれないが実は自分は金にあまり困ったことが無い。この時点でも経済的に苦しいことは何も無かった。そもそも金を使う事にはあまり興味が無いのである。そして家族も同様。だから金がたまる。ならば自分は仕事そのもので満足を得たいのか。おそらくそうなのだろう。ならばどんな時に満足をえられたのか。
パソコン日記を開けて分析してみた。自分がうれしいと感じるときは物を作ってそれが期待通りに動いたときである。そして仕事で物を作る環境から遠ざかったりすると、どういうわけが自分の私生活で物を作るようになる事が分かった。日曜大工だったり、アンプだったり、プラモデルだったり。しかし、クルマをいじっているというのはあまり出てこない。
どうもクルマには意外と執着していないらしいこともわかった。それは一般のレベルから見ればクルマ好きかもしれないが、しかし入社してから見た本当のカーキチから見れば大した事はない。そう言えば、寮住まいをしていたときに自分の本棚と彼らの本棚の中身を比べて自分はとてもマニアとは言えないと感じたことがある。本の種類の違いは一目瞭然だった。そもそも彼らは新入社員になりたてでもすぐ借金して車を購入するのに、自分は1年以上我慢して新車を購入する位の資金を貯め、その上ローンで購入している。
とどのつまり技術者になり設計者になることは自分に向いているのだが、しかしクルマにこだわることはないのだと知った。高校生のときからクルマには興味があったが、それは機構としての面白さだった。
それから自分は頭の回転が人並みより遅いことも分かった。つまり気が利かないのである。その代わり熟考することは得意なことも解かった。早く判断を下すことは不得手である。まるでスケッチをなぞるようにして自分の考えをまとめるタイプなのである。
集団行動の中で人に対してリーダーシップを取れる性格でもない。そもそも仲間をあまり作らず休日もほとんど単独行動していた。これでは多数の人間が係わるクルマの設計でイニシァチブを取れるはずが無い。
これらの悟りを開きつつあったときに最大の転機が訪れた。
弟の嫁さん、つまり義理の妹が事故で亡くなったのである。まだ新婚一年目で子供もいなかった。自分は長男でありながら実家は弟に任せて家を出てきていた。この時自分は既に結婚し子供も2人いたが。一方の弟と言えば、病死したおふくろの世話で婚期を逃し、ようやく結婚できた直後だった。嫁さんがなくなり、後には放心状態の弟と親父が二人残された。
我が家族はちょうど子供が翌年から小学校と幼稚園に入学入園する時期だった。また、バブルの真っ最中で転職先には事欠かなかった。嫁さんも同郷であり以前から帰りたがっていた。そして永住するつもりで親父と購入した自分の持ち家は、あと一年で築20年となり、土地以外の建物の価値が消滅することになっていた。しかもバブル末期で不動産の価値は購入当時よりはるかに上がっていた。
条件はすべて整っていた。自分で決断する事態になった。出向の経験から「自分中心」で決めていた行動規準からみれば、親族全員の幸せのために即転職をし、帰郷すべきだった。そしてそのとき職を選ぶ基準も定まっていた。
こうして転職転居の両面作戦を遂行することにした。仕事への未練は全く無かった。
第八章 仕事選び
しかし、自分の第一候補としていた会社からはあっさりと断わられた。それは実家に近い家電会社だった。正確には家電の大手に脱皮したいと考えていた会社だった。そこの副社長と面接したのである。彼らは一般的な求人広告を出してはいたが、実は大手家電会社の電子技術の専門家が欲しかったのである。自分が面接に行くときにはもう彼らの態度は決まっていたようだ。
「うちは要りません」と明確に断わられた時は、まさしく転職に対する想像と現実のギャップを思い知らされた瞬間だった。既に家を売る算段をはじめており、ここでつまずいたらえらいことになるという心配が急に頭をもたげた。いまでも、時々仕事がいやになってまた転職をと思うときに、この時の気持ちが自動的によみがえって思い直すのである。
つまり、自分はただの中年男であり(35は過ぎていた)
もはや、新人教育をしてから使おうなどとは、当然の事ながら採用するほうは全く考えていなかった。中途入社組は即戦力を期待されるのである。クルマの内装をやってきたが、電気関連は趣味でアンプ等を作っており電気が恐いとことはない。でもそんな事を説明してもどうにもならなかった。自分でもいい歳こいて甘ちゃんだったねえと自嘲したくなる。まあこのあたりはいわゆる面接技術の問題なのかもしれない。が、仮に潜り込めたとしてもやはり苦労はしたかもしれない。それは適応能力が思ったより下がっていたためである。その事例は後で述べる。
しかし自分は何も電子関連の技術者になりたいと思って転職するわけではない。そもそも機械屋としてやり直すことにしていたのではないかと言うことでもう一社受けた。ここが今いる機械メーカーである。
自分はそのつてを全く使わなかったが、大学時代の研究室とつながりがある会社だった。その事は入社してから分かった。それもあってか採用そのものは全くスムースだった。何しろバブルの真っ最中だった。ただ気になったのは、前年の秋の面接時に「自動車会社から来た中途入社の人も二人いますよ」と言われていたが、その二人とも自分が入社した四月には既にいなくなっていたことである。その理由は分からない。だが後で容易に想像はついた。
第九章 同期の失敗の事例
と言うのは一緒に入った中途入社の人に自分より3歳年上の人がいたのである。そして彼は、結果的には一年で辞めることになった。彼の名誉のために言うが、決していい加減に仕事をしていたわけではない。しかしとにかく適応できなかった。
入った会社の開発部門は、想像以上に厳しいところであった。ただ、その厳しさの種類が今までいたところとは違っていた。上下関係が厳しく、しつけが厳しい。こんな古い体質で新しいものを開発できるのかと思ったほどだったが、仕事の期限や質についても非常にうるさく、達成できない場合は上司の前に立たされて怒鳴られた。その上司もまた開発担当のワンマン重役から同様に責められるのである。殺伐とした雰囲気があった。
自分より年上の中途入社の仲間は、結果が出せなかったのである。そもそも向いていなかったと言うべきか。彼は東京都内で技術コンサルタントの会社にいた。仕事の質が違いすぎた。さらに車を運転できなかった。ペーパードライバーだったのである。十八歳になるとすぐ免許を取った自分は想像するだけだが、車の運転は歳を取ってからマスターするのは結構難しいものらしい。自分はきょうび男はクルマを運転できるのが当然と思っていたが、世の中には運転できない人もまだいるのである。たとえば東京都内で電車通勤していた彼はその必要が無かったわけだ。
この田舎の会社は仕事のみならず、通勤で車を使う必要があった。毎日定時退社ができれば電車で帰れるのだが、開発の仕事はそんなに早くに帰れるわけがなかった。ようやく運転に慣れたかと思ったら、彼は立て続けに事故を起こした。幸いにも人身事故はなかったが、その都度事故を起こした状況を皆の前で説明しなくてはいけなかった。同様な事故の再発を防ぐためであり、事故を起こせば誰もやらせられることだったが、これは彼のプライドをずたずたにしたようだ。
仕事は試験を担当していたが、はたから見ても要領が悪い。皆が心配したのは仕事でも事故を起こすのではないかと言うことだった。彼より若い試験課長は、はらはらして四六時中怒鳴りつけることが多くなった。
やはり若いときに基礎的なことをマスターしているといないでは全く違う。機械というもの知らなさすぎた。新人を見ていてもたとえば大学時代に自動車部でクルマをばらしたことがある奴と、工具などをいじったことも無い奴では手の動きがまるで違う。しかし新人はまだ慣れるのが早い。が、中年では車の運転一つ取っても習熟するのに時間が掛かる。遅れをカバーするため昼休みも働らきづめで、帰宅は深夜。彼は見る見る痩せていった。結局一年で辞表を出さざるを得なかったのである。
その後彼は別の技術コンサルタント会社に再就職し、そこの部長として活躍している。ちなみに彼が再度転職した会社はずっと黒字であり、その意味では自分が転職した会社より業績が良い。バブルの余波が残っているうちに再転職できてよかったと思う。
ともあれ、彼のことを見ていて思ったのは、中年の転職の危険な側面は自分の適応力の程度を誤ることだ。彼も当然、何とかなると思って来たに違いないのだ。しかし自分も、数字一つでも若いときには使用頻度に応じて自動的に記憶したのに、中年になるときちんと意識しないと何回見ても覚えられなくなっている。このことはCAD操作で痛感した。とにかく覚えられない。もとの会社に長くいて、次第に新しいことを覚える必要が無くなるとともに、覚える能力が確実に減退していったようだ。
だから、少なくとも自分の実績と能力について整理し、得意なところを良くわきまえた上で転職先を決め、それを売り込まなくてはいけない。そもそも零から教える必要がある人間ならば、取るほうは若い奴を安い給料で雇うほうがよほどいい。中年以上の転職者はみな「粘りが持ち前」になるが、ゼロスタートでは粘りだけでは絶対にカバーできない。
第十章 転職後
少なくとも今自分はやり甲斐のある仕事をしている。上手く行けば今迄で一番大きな仕事を成功させることになるのだろうが。その時には十年我慢したかいが有ったと思うことだろう。我慢と言う言葉に表わすように、現状に満足しているものではないことは最初に述べた通りである。
しかし、確実に言えるのは自分の転職転居は家族のためには確実にメリットがあったと言うことだ。仕事意外の内容については120%の成功である。その内容について説明は省略するが、ただ転職は、仕事が不満だと言う理由だけでやるのはやはりどうかと思う。自分はこの転職が失敗し、惨めな思いをしていたとしても家庭の幸せが有れば十分だったと言える。もっとはっきり自分に合う仕事を得るまで「頑張る」と言い切れぬあたりに、まだ自分の煮えきらない性格が出ているのかもしれないし、また逆に今リストラされてやむなく職を探す人からは、不満が有るから辞めるなどとは現実離れもいいところだとお叱りを食らうかもしれない。
これで終わるのは大事なことを抜かしていることになるのだろう。転職した自分はどうだったのかと言うことを何も言ってはいない。
最初の一年でひとまず結果は出た。要求された新しい機構の開発に成功したのである。二ヶ月にわたる、自分の体温より高い部屋で汗を流しながらの苦闘の連続で有ったが、とにかく結果は成功した。おそらくこれで、メカニズムや機構には強いと言うことが回りから見ている人たちには印象付けられたのだろう、一目はおかれるようになり、翌年すぐ昇進させられた。何よりも自分に自信がついた。ところがここからはなかなかスムースに行かなくなった。
一つ目の理由は、新しい開発に必要な数学的、物理学的な知識が自分の頭からごっそりなくなっていたことである。技術はやはり科学が基礎になる。そしてそれらはかつていずれもそれほど人に劣ることはなかった。大学入試が終わっても理数系と言われる学力は保っていたはずだった。ところが長年クルマの内装をやっていたおかげで無くなってしまった。たとえばスクロールの曲線をあらわす式を作りその特性について分析するなどと言う仕事に、簡単だと思って取り組んだら、実際には手も足も出ない自分に突然気付く。そしてこの会社の開発にはこのような基礎学力が必要だったのである。微積分も忘れ、できる計算は原価ぐらいと言う情けない状態になっていた。
二つ目は、また人とのコミュニケーションが上手く行かなくなってきた事である。何も意思が伝わらないわけではない。相手にすぐ迎合するのである。この点については以前より悪くなったと思っている。元々上下関係が厳しい社風のために、中々思ったことを言えない。それがいつのまにか自分に根づいてしまった。自分からリーダーシップを取って関係部署と調整しという管理職の仕事がなかなかできないのである。一昨年はそれでも部長級の仕事をやらされて下に十人近い部下を持たされた。しかし失敗だった。コントロールできない。更にこの時は以前の会社の事例とは逆に、今度は基礎知識の不足が足を引っ張ることになった。経験不足から瞬時に判断できないのである。中途入社であり他の同年代の部長より15年近くの経験の差があり、簡単に埋めることができなかった。一般機械はクルマよりももっと保守的な技術分野であるという背景がある。
かつてクルマほど保守的なものはないと思っていた。しかし今考えるとエアバッグの導入やこれから起こる燃料電池車の商品化などクルマはやはり時代の最先端を行くものなのだ。かつてたった二年のブランクで泣かされたほど変化の激しい世界なのだ。それに対し一般機械はきわめて保守的なのである。だから開発組織も古い形態を保ち、上下関係が厳しく、つまりは古い人間の経験がそのまま役に立つ世界なのである。
だから転職した当時は五年経てば技術は半分入れ替わると思っていたが、間違いだった。はやり転職してはじめて解るところがあるのはやむをえまい。
昔の経験が役に立つかどうかと言うことだが、直接には役に立ってはいない。ほとんどやり直しだった。今現在役に立っているのは、かつてやらされた英語である。自分の英語の程度などたかが知れたものであることは以前の会社で十分承知していた。劣等感すら覚えていた。しかし英文のファックスを書いたり呼んだりすることはかつてやったことが有った。絵が比較的上手い事もあり、それに単語を並べればたいていは通用する。これが今ごろ役に立っている。
ただこれだけは言える。かつて出向を経験し出戻りした。その時の経験が無ければ自分はここまで来なかっただろうと思う。何よりもまず低姿勢ではじめたことが良かった。社風の違いを理解するまで自分を押さえておくことが重要だと思っていたが、まさしくそうだったと言える。その意味では出向させてくれたかつての上司に感謝している。また、出戻りしたときのリセッション。この経験が有ればこそ転職先でのいろいろなトラブルでも落ち込まずに済んだ。これも貴重な経験だった。人間、カラ元気でもなんでも手段を講じて、落ち込み続ける事態は極力避けることだ。マジに落ち込むとブラックホールみたいに良い面も能力もすべて潰れて行くものだ。
そして自分はまた転職するかもしれない。でも今度やるならば、会社を変わると言うことではない。それをするならばまたこの十年間を繰り返すだけだし、そもそもこの歳で移るべき会社が見付かるはずも無い。何せこの時勢である。
ただ、今度転職するとなればその動機は純粋に自分のわがままからでありたいと思う。
以上終り