((昭和12年))雪彦山について書かれた一文で不行岳初登時の非常に興味深い記です. 


雪彦山・今昔                                       
                                                           藤 木 九 三


1
       ――"この峰の高くあらねど
しきを賞でてひたよず男の子にしあれば"

 山は、高いほど貴いということは動かすことのできない真理である。と同時に、高さが幾分おとるにしても山そのものの構成が峻嶮で、頂上に立つことが困難であればあるほど登りがいがあるという見解も正当である。
そこにロック・クライミングの使命がクローズアップされ、さらに近代登山としてのバリエーション登高の意義が光ってくる。
そうした張り切った気持ちに似たものを抱いて、初めて播州賀野の庄に雪彦山をおとずれてから、早くも四分の一世紀以上の歳月が流れた。
 それはちょうど、阪神地方を中心に、気鋭な山男たちの間にR・C・C(ロック・クライミング・クラブ)と名付けるグループの結成が迫り、寄り寄りその旗上げについての談合が重ねられつつあった頃である。
なにがさて、日曜や祭日を待ちかねて弁慶の七つ道具よろしく、いかめしいピッケルやザイルに身をかため、その頃仲間で"戦闘艦"と呼びならわしていた鋲グツをどっか・どっかと踏みしめ、芦屋の裏山―今日いうところのロック・ガーデンに押し出したものだ。

このロック・ガーデンは、その後幾度かの台風や山崩れでむかしのおもかげを偲ぶよしはないが、今でも関西の岩党にとっての聖地であり、阪神地方でアルピニストと呼ばれるほどの山男で、このゲレンデで洗礼をうけないものはないといっても過言ではなかろう。
そしていわゆる"より困難な登路の選択"というものの中に見出される山登りの傾向を是認し、冬山と併行してわが国の山岳界に新時代を作った原動力が、岩登りを通じてのザイル・テクニックの普及にあったことは説明を要しない。
そうした見方から、芦屋の裏山は、きわめて理想的な地の利を占めていた。その上ロック・ガーデンの名にふさわしく、アット・ホームな気持ちで岩に親しみ、ザイルさばきを楽しめるというのだから、気鋭なクライマーが将来の活躍をめざしてプラクティスを行うにはあつらえ向きの条件をそなえていた。
したがって土曜から日曜にかけての繁昌ぶりはたいしたものだった。
しかもその頃はまだハイカーなどは誰ひとり寄りつかず、若い岩男の独壇場だった。だが、その後間もなく、o
尾根という尾根、壁という壁がネールド・ブーツやハンマーで痛々しい傷を負い、あるいは仲間で「キャンドル・ドック」と呼んでいたスパインなどが、いつの間にか影も形もなくなってしまうという災厄が起こった。
また、マッターホルンの難場を偲んで命名した「イタリアン・リッジ」などもはなはだしく形が変り、むかしの凄さもおもかげもなくなってしまった。
 だが、R・C・Cが名乗りをあげ、ロック・ガーデンが発見された当時の岩男たちの張り切り方ったらなかった。
そして高座の滝筋をさかのぼった左岸と、「岩ばしご」と呼んでいる荒地山の斜面との二ヶ所に岩小屋を発見したことが、このゲレンデを楽しいものにし、またその真価を高めたことは忘れられない喜びだった。
それは、テントを担ぎあげる労力がセーブされただけでなく、クラッグス・マンのムードとセンスにぴったりと来るものがあった。そして土曜の午後から出かけて、この岩小屋を根城とすることが若い仲間の誇りともなり、深いあこがれを呼んだ。しかし、ロック・ガーデンが繁昌するのはいいとして、二、三年もすると、そろそろこのゲレンデの欠陥が眼につきだした。
まず、風化した花崗岩のもろさがすっきりした感触をはばみ、リズムを破壊すること。さらにスケールが小さいことが、いかにも物足らなくなった。そこで、将来に期待をかける若い連中は、ロック・ガーデンに代る新らしいゲレンデを発見することに熱中し、やっきとなった。
ちょうどその頃、R・C・Cの仲間で"毛虫"という合言葉が流行したものだ。そして、地図と首ッ引きで、この不気味な存在を発見することに夢中になった。
それは平面図で現された地図では、断崖や岩場の表現がむずかしく、したがってそうした地形はケバがきで表現されるのが唯一の手段だった。そのハッチングが画面の上でしばしば"毛虫"の形であらわされているのを探し出し、それを持ち寄って仲間で検討するというので、これを"毛虫会議"とも呼んだものだ。
そうした段取りで発見された岩場の中には、手近いところで道場の岩場があり、不動岩や百丈岩はそうとうのもので、今日でも若い人たちの間に人気があって、国体の予選などもこの岩場で行われたことがある。
そのほか千刈りドラゴン・ロックもその頃の発見で、遠くは戸隠や、四国の石槌、また九州では阿蘇の猫岳などがリストされ、わざわざ有志を派遣して踏査させたものだった。


2
        ――"人みなの「ゆかず」と呼べばことさらに挑みしわれぞこの頂に"

雪彦山の発見といっても、むかしから播州切っての修験場の霊場で、知る人ぞ知る名山のひとつだった。だが、近代登山の立場から、その怪奇な峰頭の  存在と、岩場の良さを見直し、ロック・クライミングのゲレンデとして紹介したことは、たしかにR・C・Cの功績だといえよう。殊に、「不行岳」(ユカズダケ)と呼  ばれた処女ピークの登頂は、なんといっても当時の収穫として最大なもので、仲間の志気を鼓舞したことは大きかった。
誰から聞き、またどうして知ったかは今はっきり思い出せないが、とのかくロック・ガーデンがいささか物足りなくなり、プラクティスが目的だったにしても、も少 しスケールの大きな岩場、打てばひびく手剛いゲレンデで腕をみがく必要のあることを痛感していたやさきだったので、わたしはさっそく単独で踏査にでか けた。
そして実地にぶつかって見ると意外の「おおもの」で、その上変化に富んでいたのでこおどりし、わが党をこぞって遠征することになった。
もっともその頃は、今のように姫路からバスが通じ、賀野神社の前に横づけになって日帰りもできるという便はなく、播但線の福崎駅から昔なつかしいガタ  馬車に乗り、さらに前の庄からはいやがおうでも徒歩をよぎなくされたものだ。
だが、今から考えると、瀬音にまじるカジカの声に耳をすまし、夕暗に飛び交うホタルを追いながら夢前川(ユメサキガワ)にそうてさかのぼるこのコースは、 好ましいハイキング気分が横溢していた。
殊に、未知の岩場にザイルをからませる希望に張り切っていたわたしたちにとって、この清流ぞいの道程は、明日を前に気持ちを和らげる効果があった。そしてひと頃、仲間の常宿のようになった、橋際の「はたご」の情趣もなつかしい思い出だ。
朝のクライミングを前に、せめて岩場のアウトラインだけでも眺めておこうと、宿の椽先に荷物を放り出したまま駈け出したことも覚えている。そしておちつきのない気持ちでザイルを巻き直したり、薄暗いランプのシンをかき立て、泥なわ式に岩登りのテキストに読みふけったりしたことも「今は昔」の感慨ふかいものがある。
 雪彦山の岩場の構成の魅力については、今さら詳しく述べることは避けよう。
しかし、あの社務所の前から仰いだ怪偉なロック・ピークと、あの威嚇的なフェースのものすごさはどうだ。
そして「不行岳」の研ぎすました絶壁を正面に、右に「地蔵」左寄りの奥に「洞ガ岳」が頭をのぞかしている威容は、まったく手も出ないという感じだった。
その上、断崖のところどころに、立ち枯れの針葉樹が危うげに白骨を晒しているのもすっきりした点景だった。
また、見上げる絶壁はいずれも直下150ないし170メートルはあろう、文字通りの垂直の屏風を引きまわし、いったいどこにとりつく隙があるかとおもわれた。
だが、もちろんぶつかってみたら、案外かなりなコースが見出せそうな期待も持たれた。そして一行は、覗きとか、せり割り、馬の背などと呼ばれる難場を過ぎ、ひと通り山中の行場を一巡して頂上に立つと、だいたいの概念がつかめた。
すると気分もおちつき、間もなく一つ二つのバリエーションの見当もつき、急に闘志がむらむらと湧いてきた。
そのいきおいで「出雲岩屋」のてっぺんからザイルを投げ、交互に懸垂をこころみたり、洞ガ岳の直下にトラヴァース・ルートを求め直接「不行岳」にいどんだりした。
 ところで、雪彦山を舞台としてR・C・Cの仲間が残した最大の業績のひとつは、なんといっても、前に述べた「不行岳」の初登頂だったことはいうまでもない。それはクラブ自身の発展過程からいっても、たしかに一時代を劃するもので、当時の仲間に飛躍的な感激と信念とを植えつけた。
このピークは、主峰洞ガ岳から派出した側綾の絶端にあって、えぐったようなキレットを隔てて三方が切り断った絶壁にめぐらされ、いわゆるジャンダーム形に、不死身の坊主頭をぽかりと空中にもち上げている独立峰だった。
この難攻不落を思わせる「不行」をめざしたわたしたちは、まず洞ガ岳の頂上で綱をつけ、滑りやすい岩場を木の幹にすがりながら側綾を下って行った。
いったいこのピークに取りつくためには、さきに述べたトラヴァースは別として、当時はキレットを乗り越す以外に手のつけようがないと信じられた。
で、わたしは詳細にキレットを偵察した後、仲間にしばらく休息を命じ、別に携えていた30メートルのザイルを木の幹にからませその両端を結んで二重にして投げおろした。
もっとも、キレットの底は上からは好くみえなかったが、綱の重味でたしかに鞍部に届いていることを知ったので、わたしは「脚がらみ」の懸垂で下って行ったものだ。
すると案外たやすくコルに降り立つことができ、続いて仲間もなんなく下り、まず第一の難関は切り抜けることができた。
こうしてコルに達した一行は、帰途の登りにふたたび使用するために補助綱をそのまま残し、馬に背のように伸びた岩場を進むと、すぐ「不行」のピークのつけ根に取りつくことができた。
それにしても、キレットの下降は案外かんたんにかたずいたものの、はたしてこのルートで「不行」のピークそのものが登れるかどうかは、きわめて重大な問題だった。
だが、いま直下に立って仰いで見ると、なるほど部分的には垂直なピッチもあるが、想像したよりはホールドも多く、約20メートルのクレッテライで頂上にみちびかれることが判った。
 片手に輪にしたザイルを握りながら、眼でルートを調べていたわたしは、登頂の確信うるやいなや、輪を投げ捨てて隔時登攀の姿勢をとった。
そして見たところ小さいが、確実なホールドを次から・次へと拾い、リズミカルなバランス・クライミングでついに頂冠の一端にとりつくことができた。そして緊張した気持ちで仲間の全員が安全地帯に勢ぞろいをするのを待ち、綱を整理し、居ずまいを正してしずしずと頂上に進み寄った。こうしてその名の示す前人未踏のピークの頭に立ったのだった!
 その時のこみあげる心の喜びは、どう表現したらいいだろう。わたしはセンター・ロックになる手頃な砕石をもとめ、その頂上のまん中にすえた。それを囲んで、隊員のひとり・ひとりの手でささやかな記念のケルンが積み上げられた。
初夏の空はあくまで晴れ、あるかなきかの微風に揺れ、波立つ脚下の樹海からは、潮の香ならぬ青葉若葉の匂いが、ひたひたとただよって来た。
もっとも、静かに反省すると、たいして誇るに足るほどの初登頂でないかも知れぬ。だが久しい間人間の到達不可能を名に冠したピークのいただきに立ちえたという感激は、生涯わすれることのない印象をやきつけた。
そしてその頃のR・C・Cの一党がいかにファイティングに燃えていたかは、その後引き続いて雪彦山を舞台に遂げられた種々の成績が裏書するとともに、この"不行岳"の初登頂が、クラブの飛躍に精神的な役割を演じたことは大きかった
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3
        ――積みおえしケルンのかたえ綱も解かずかりねせしわれぞこの頂に"

 この「不行岳」の初登頂にくらべるに足る感激は、わたしの長い山旅の過去をふりかえっても、片手で数えるほどしかない。特に岩登りを主としたものでは、初めて穂高の滝谷を登って北穂に取りついたものと、錫杖の岩小屋を根城にして附近の岩場をあさった時のクレッテライぐらいである。
もっとも、雪彦山のヴァリエーションの業績については、R・C・Cの第二期ともいうべき時代に初めてとげられたのだった。
そして水野祥太郎君らの努力で、とうてい寄りつけないと思われた断崖やフェースに登路を発見し、次ぎ次ぎに新らしいルートが開拓されたことを特筆せねばならぬ。
 この雪彦山をゲレンデとしてつづられた"あの頃"のエピソードには、ずいぶん愉快なものがある。
初めてわたしが試登に出かけた時など、ザイル肩に、いかめしい七ツ道具のいでたちで村の入り口で休んでいると、"子捕り"にまちがえられ、村から村へ伝令がとんだことがあった。
そして最近、加賀神社をおとずれて柏尾さんからそのことを聞かされ、当時わたしが社務所の玄関に立った時、ふすまの陰で泣き出したという娘さんが、すでに二人の子供のおかあさんになっていて「この娘がその時小学校に通っていて、先生から子捕りが村のほうへ行ったから、早く帰ってお父さんに知らせなさいといわれたのです……」と紹介され、あきれ返ったのだった。
 また、何回目の訪問だったか忘れたが、いきなり雪彦山の岩場でロック・クライミングの洗礼をうけることのなった長老N君が、「地蔵岳」のてっぺんから綱を下げて懸垂のプラクティスをやった際、補助綱でジッヘルしているにかかわらず、脚をぶるぶる震わして悲鳴をあげたものだ。
その頃また、物の本挿画を参考としてハーケンを作ったり、カラビナの考案に頭をひねり、開閉の箇処をナッツ留めにしたものを試作したのも、今はむかしの語り草だ。
だが、なにせ雪彦山の岩場が道場として新たに登場したことは、関西のロック・クライミングの進展と歴史に寄与したことは大きかった。というのは、さきにも述べたように、芦屋のロック・ガーデンにせよ、あるいは不動岩にせよ、それぞれゲレンデとして特徴があり、変化にも富んでいるが、そのどれもがスケールが小さく、しょせんヒナ型の域を脱しなかった。
この点雪彦山は堂々としたロック・ピークで、日本アルプスへ持って行っても見おとりのしない威容をそなえている。
中でも「不行岳」のごとき、ザイルさばきに相当自信がないかぎり、登頂を許さない厳然たるものがあった。
ひと通り芦屋で岩をマスターし、バランスとリズムをわがものにした岩男が、段階的に腕をみがくために、あつらえ向きのゲレンデとしてデビューしたのだった。


   その後、日支事変がようやく長期戦の相貌を呈しはじめた関係で、しぜん雪彦山にもぶさたがちに過ぎただが、ふとした機会で、久しぶりに賀野谷をおとずれ、何年ぶりかで「不行」の頭にも立った。
そして午後の日射しをあび、腰綱も解かず、相棒と二人でケルンのかたわらに寝そべり、"トカゲ"をきめこんだものだ。
折からそよ風にゆらぐ青葉・若葉のこずえに埋まった谷間から、ひるねを誘うようなヤマバトの声に耳をすましながら、むかしを偲び、今をかえりみて感慨を深くした。
 それにしても、この時の雪彦行で、わたしは思いがけない身の引きしまる山村風景に接して襟を正した。というのは、十指に充たぬ山下の部落のほとんど戸毎に、「日の丸」の旗が軒たかくはためいていたことだった。そしてあの蘆山や大行山脈を偲ばせるいかめしい岩場をバックに、心打たれる軍国調を仰ぐにつけて、北支や中支の山岳戦にかりだされている勇士の多くは、こうした素朴な山村の人たちでもあろう。
そして今、わたしが雪彦山の岩壁をふりかえって大陸の"山"を偲んでいるように、この村々から出征している勇士たちは、夕日にかがやく戦場の岩山を仰いで、故郷の山を思い出していることだろう!

 

 本稿は昭和三十年発行「山の花暦」に記載。