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――積みおえしケルンのかたえ綱も解かずかりねせしわれぞこの頂に"
この「不行岳」の初登頂にくらべるに足る感激は、わたしの長い山旅の過去をふりかえっても、片手で数えるほどしかない。特に岩登りを主としたものでは、初めて穂高の滝谷を登って北穂に取りついたものと、錫杖の岩小屋を根城にして附近の岩場をあさった時のクレッテライぐらいである。
もっとも、雪彦山のヴァリエーションの業績については、R・C・Cの第二期ともいうべき時代に初めてとげられたのだった。
そして水野祥太郎君らの努力で、とうてい寄りつけないと思われた断崖やフェースに登路を発見し、次ぎ次ぎに新らしいルートが開拓されたことを特筆せねばならぬ。
この雪彦山をゲレンデとしてつづられた"あの頃"のエピソードには、ずいぶん愉快なものがある。
初めてわたしが試登に出かけた時など、ザイル肩に、いかめしい七ツ道具のいでたちで村の入り口で休んでいると、"子捕り"にまちがえられ、村から村へ伝令がとんだことがあった。
そして最近、加賀神社をおとずれて柏尾さんからそのことを聞かされ、当時わたしが社務所の玄関に立った時、ふすまの陰で泣き出したという娘さんが、すでに二人の子供のおかあさんになっていて「この娘がその時小学校に通っていて、先生から子捕りが村のほうへ行ったから、早く帰ってお父さんに知らせなさいといわれたのです……」と紹介され、あきれ返ったのだった。
また、何回目の訪問だったか忘れたが、いきなり雪彦山の岩場でロック・クライミングの洗礼をうけることのなった長老N君が、「地蔵岳」のてっぺんから綱を下げて懸垂のプラクティスをやった際、補助綱でジッヘルしているにかかわらず、脚をぶるぶる震わして悲鳴をあげたものだ。
その頃また、物の本挿画を参考としてハーケンを作ったり、カラビナの考案に頭をひねり、開閉の箇処をナッツ留めにしたものを試作したのも、今はむかしの語り草だ。
だが、なにせ雪彦山の岩場が道場として新たに登場したことは、関西のロック・クライミングの進展と歴史に寄与したことは大きかった。というのは、さきにも述べたように、芦屋のロック・ガーデンにせよ、あるいは不動岩にせよ、それぞれゲレンデとして特徴があり、変化にも富んでいるが、そのどれもがスケールが小さく、しょせんヒナ型の域を脱しなかった。
この点雪彦山は堂々としたロック・ピークで、日本アルプスへ持って行っても見おとりのしない威容をそなえている。
中でも「不行岳」のごとき、ザイルさばきに相当自信がないかぎり、登頂を許さない厳然たるものがあった。
ひと通り芦屋で岩をマスターし、バランスとリズムをわがものにした岩男が、段階的に腕をみがくために、あつらえ向きのゲレンデとしてデビューしたのだった。
その後、日支事変がようやく長期戦の相貌を呈しはじめた関係で、しぜん雪彦山にもぶさたがちに過ぎただが、ふとした機会で、久しぶりに賀野谷をおとずれ、何年ぶりかで「不行」の頭にも立った。
そして午後の日射しをあび、腰綱も解かず、相棒と二人でケルンのかたわらに寝そべり、"トカゲ"をきめこんだものだ。
折からそよ風にゆらぐ青葉・若葉のこずえに埋まった谷間から、ひるねを誘うようなヤマバトの声に耳をすましながら、むかしを偲び、今をかえりみて感慨を深くした。
それにしても、この時の雪彦行で、わたしは思いがけない身の引きしまる山村風景に接して襟を正した。というのは、十指に充たぬ山下の部落のほとんど戸毎に、「日の丸」の旗が軒たかくはためいていたことだった。そしてあの蘆山や大行山脈を偲ばせるいかめしい岩場をバックに、心打たれる軍国調を仰ぐにつけて、北支や中支の山岳戦にかりだされている勇士の多くは、こうした素朴な山村の人たちでもあろう。
そして今、わたしが雪彦山の岩壁をふりかえって大陸の"山"を偲んでいるように、この村々から出征している勇士たちは、夕日にかがやく戦場の岩山を仰いで、故郷の山を思い出していることだろう!
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