追加文(一) 道徳科学《モラロジー》と宗教との相違 【一冊目 p.74】

 モラロジーと宗教との相違につきて本文の記事のみにてはいささか足らぬところがあるので、いま左にこれを補足いたします。

 (一)宗教はいずれもある一つの聖人の名を冠してそれより流れ出《い》でたようにいたしてあれど、その聖人の教えの一部分を教理《ドグマ》とするにすぎず。
すなわち宗教はある一つの聖人の教説中のある若干の経典を根拠とし、その偏狭なる一部分的の教理をもって全体の人間を救済せんとするが故に無理を含む。
故にあるいは牽強付会《けんきょうふかい》をなし、あるいは偽言を造り加え、あるいは自己の臆説《おくせつ》を加えて、ついに弊害を生ずるに至ったのである。
 モラロジー及び最高道徳は天照大神《あまてらすおおみかみ》をはじめ奉り、世界四聖人の教説及び事跡に一貫する学問及び道徳の原理をもって世界の人類を開発し且つ救済せんとするものである。
故にその教説は普遍的にして公平であり、全世界のすべての人類を開発し且つ救済し得る実質を有す。

 (二)宗教は必ず本山とか本部とかいうものありて、ここより信者の家に祭る神仏の像《ぞう》とか名号《みょうごう》とかを下付するを必然的慣例となしておるのである。  モラロジーは元来宗教ではなくして、その研究法は科学的であり、その実質は聖人正統の最高道徳であり、しこうしてその普及法は純教育的でありますから、特に有形物を祀《まつ》ってこれを崇拝さするようなことはせぬのであります。
しかし、日本人に対しては皇祖皇宗を神様として御祀りさせ、その形式は従来の神棚、仏壇もしくは床の間に向かって朝夕道徳的宣誓文を読みあげて最高道徳の実行を誓わせるように致してあります。

 (三)宗教は主として自己の伝統を尊び、他の国家伝統・家の伝統・生活伝統を次となし、もしくはこれを無視す。
故に古来東西ともにその本山はもちろん、信者個人も国家とか父母などと衝突す。
 モラロジー及び最高道徳にては国の伝統・家の伝統及び生活の伝統を尊重することを教うるを目的とす。
しこうしてこれを知って幸福になったことを感謝する結果としてモラロジーの精神伝統を教えの親として尊敬せねばならぬというのですから、最高道徳は国家からも各個人からもすべてから喜ばれるのであります〈この条は本書第一巻第十二章第十一項参照〉。

 (四)宗教は神仏を信ぜさせ、これに依頼させて幸福を求めしむるにあり。
故に一般人を眩惑《げんわく》するために形式すなわち殿堂を広大にし、儀式を荘厳《そうごん》にすることに力を尽くす。
 モラロジー及び最高道徳は人間をして神仏の本質に同化せしめて最高道徳を実行せしむるにあり。
しこうしてモラロジー団体の幹部は真にこれを実行し、八面玲瓏《はちめんれいろう》の生活をなす。
故にその教えと団体の有様とともに純真高潔にしてその感化力偉大なり。

 (五)宗教はその祖師はとにかくとして、今日の宗教家は自己の品性完成を措《さしお》きて顧みず。
しこうして他人を救済するという名義の下に自己の団体を繁栄せしめんとして努力しておるのである。
 モラロジー及び最高道徳はまずその団体の幹部自身が神の慈悲心を体得して自己の最高品性を完成することを目的とす。
しこうしてその幹部が人心の開発及び救済をなすということは、その「目的」すなわち「自己の最高品性の完成」を貫徹し成就する一つの方法としてあるのであります。
すなわち元来《はじめから》人間の幸福実現は人間の品性を完成することにあるのですから、聖人はその品性を完成することを「己れの利益を心に得た」と申しておるのであります〈第一巻第十二章第六項第九節に『法華経《ほけきょう》』序品《じょほん》を引く。参照すべし〉。

 (六)釈迦《しゃか》の教えにては「われは法を依所《えしょ》として行くなり」(Dhammam saranam gacchami.)、「われは仏を依所として行くなり」(Buddham saranam gacchami.)、「われは僧伽《さんが》(教団)を依所として行くなり」(Sangham saranam gacchami.)、すなわち三帰依《さんきえ》ということが完全に具備しておったのであります。
しかるに、現代の仏教その他の一般宗教もしくは教化団体では「依法《えほう・法により》、不依人《ふえにん・人によらず》」と申して正法《しょうぼう》を信ずることに重きを置くのみでありますが、モラロジーは(1)聖人の正法と(2)その正法を説く人(能化《のうけ》)の品性と(3)これを受くる人(所化《しょけ》)の品性と三つを併せ重んずるのであります。
すなわち聖人の教えにては正法は必ず正法を守る人の口からでなくては他の人の精神を救済することは出来ぬとなっておるのでありますから、モラロジーは法と人とに重きを置くのです。
この宗教とモラロジーとの両者の相違の結果は甲は弁論を主となし、乙は実行を主となすこととなり、更にその次の結果は現実的《まのあたりに》に真に安心・平和及び幸福の有《あ》ると無《な》いとの差を生ずるのであります。
これは議論ではなく、今日までの実際の事実であるのです。

 (七)宗教はその信仰の進んだものは寺院とか教会とかいうものを造って、これによって衣食住の生活を営むようになるので、ついにその信仰は一つの職業的となるので信仰の生命を失い、弊害百出するに至るのである。
 モラロジー及び最高道徳にては各人みなおのおの家業とか職業とかを持ちながら、自分の安心且つ幸福になった報恩として、自己の体得せるところの最高道徳を他人の心に移植してこれを開発もしくは救済せんとするのです。
しこうしてその至誠且つ慈悲の努力の結果〈自然の法則に合格する結果〉は神様より健康〈病気の治ることをも含む〉・長命・開運且つ万世不朽の家運を授けらるるということを確信して楽しんで生活するのであります。
故に、万年を経るもその教えの生命は溌溂《はつらつ・いきおいよく》として活《い》きておって弊害の起こることはないのであります。

 (八)宗教はその教理がある一つの聖人の教説の一部分にして、非科学的且つ非実際的であるという理由よりして、現代の複雑なる政治問題・産業問題・経済問題もしくは教育問題のごときものを解決するを得ざるに反して、モラロジーはよく以上の実際問題を解決するを得るので、すでに二十余年間私は全国数万の人々を指導してその各事業の方針を指示し且つ誘導して、すべての人々をして大なる成功をさせております。

 (九)宗教は現世における人間安心立命の真正の方法を説かず。ある宗教は過去前生《ぜんしょう》の因縁《いんねん》〈因縁とは過去の善因・悪因ということなれど、主として悪因を指す。言葉としては因果律と同じであれど、実質は異なる〉を説きて、これを威嚇《いかく》し、信仰を強制して、もって現世に大なる犠牲を払わしむ。
またある宗教は有為法《ういほう》(samskrta‐dharma,the conditioned law)により現世を有為転変《ういてんぺん》の浮世《うきよ》もしくは穢土《えど》と称して極楽を未来に求めしむ。
モラロジー及び最高道徳は科学の本質として一定不変の因果律すなわちいわゆる無為法《むいほう》(asamskrta‐dharma,the unconditioned law)の現世に存在することを証明し、現世において真の安心・平和及び家運不朽の極楽世界に到着する方法を教う〈本書自序文及び追加文(五)万世一系の条参照〉。
 宗教の前生因縁は宿縁(fate)とも称し、主として前世における人間すなわち人間の霊魂《たましい》の精神作用及び行為の善悪を指す。
モラロジーの因果律は主として自己の現世における精神作用及び行為の善悪と、教育の善悪と、自然的及び社会的環境の善悪と、祖先の余徳〈善あり悪あり〉と、遺伝〈善あり悪あり〉との五つの因果関係に重きを置く。
しかしながら、その因果の責任は自己にあるものとして自己反省せしむ。
故に右の因縁と因果律とは似たるところあれどその実質には大差あり。

 (一○)結局モラロジー及び最高道徳はその研究法は科学的にして、その実質は聖人正統の学問・知識及び道徳であり、その普及法は丸呑《まるのみ》主義の信仰でなくして教育であるのです。
しこうしてその教育ということは神の知識を人心に扶植してこれを開発し、且つ神の慈悲を人心に扶植してこれを救済するにあるので、宗教との相違は多大であります。

 右は科学の本質によりて単に宗教とモラロジーとの比較をなしたので、決して宗教を排斥するのではありませぬから、なにとぞ内外における宗教家各位は心を空《むな》しくして当該《この》聖人の教えを受《う》け容《い》れ、もって各自の宗教団体を改善せられ、われわれとともどもに人類の真の安心・平和及び幸福の実現に努力せられんことを乞《こ》う。
私方は教育であって、全人類の安心・平和及び幸福の実現を目指すのみでありますから、宗教のごとくに本山を造って各位の信徒を奪うのではありませぬ。
それ故に御安心をしていただきとうござります(本書第一章各所に私の各宗教に同情しておる記事を御参照ください)。