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 水のようだと、思った。
 白い氷を浮かべた水が透き通っていると。
 それくらい暑い夏空。
 むせ返る草いきれ。
 果てしなく続く蝉の声。
 土の気配を感じる。
 自分が郊外に来たことを思い知らされる。
 短い編成の列車は、彼女一人を無人のホームにおいて、再びがたごととディーゼル音を響かせて走り出した。単線に戻るところで、レールが軋む。そんな列車の音でさえ、夏の山々に吸い込まれていく。
「あっついなぁ・・・・・・」
 スーツの上着を脱いだ彼女は、額に手をやって彼岸を見た。
 アップにした髪まで汗で張り付く気がする。
 肌を、紫外線が焼いていく。

「知りませんでした、こんなところに『自然史博物館』があったなんて」
 すすめられたパイプ椅子に腰掛け、資料を取り出しながら彼女は云った。
「そうでしょう、だって、こんな田舎ですもの」
 佳澄は盆の上に載せた麦茶を出し、自分も座った。後ろでゆったりと束ねた髪が、窓からそよぐ風に靡いた。
「あ、申し遅れました。わたし、結縁寺と申します」
 彼女は慌てて立ち上がると、鞄の中から名刺を出して、佳澄に渡した。
「これは、『あわか』さんとお読みするのかしら。結縁寺淡霞さん・・・・・・綺麗なお名前ですね」
 云いながら、佳澄も名刺を差し出す。柔らかな物腰が、空気を和らげた。思わず、結縁寺も柄になく微笑む。
「佳澄綾乃さんですね。広報を担当していらっしゃるのですか?」
「いいえ、ここの学芸員の一人です。小さな博物館ですので、何人もいませんが。事務専門の方もいるのですけど、今回はわたしが」
 確かに小さくて少し古ぼけた博物館だ。こんな博物館が、広告社に広告制作を依頼してくること自体珍しい。
 結縁寺が大学を卒業後、広告業界に勤めはじめてまだ5年ほどだが、博物館の広告を頼まれたのはこれが2度目だ。今回は、その1度目に依頼された千葉の鳥類博物館の紹介だったようだ。
 一通り、博物館の概要と依頼する広告の内容を説明し終わったとき、結縁寺がメモと資料を鞄に仕舞いながら、ふと訊いた。
「あのぅ、佳澄さんの専攻はなんなんですか?」
 立ち上がりかけていた佳澄は、もう一度座り直すと、首を傾げるようにして微笑んだ。
「わたしは、形質人類学です」
「形質人類学?」
「ええ、文化人類学とかと違って、出土した人骨などから人類の歴史を研究する、とでもいいましょうか」
「へぇ、じゃぁ、北京原人とか」
「そうですね」
「でも、なんで、ここの学芸員を?」
「昔、アメリカやアフリカの方に短い期間でしたが留学したこともありました。でも、実家がこの近くの村なので、結局戻ってきてしまったのです」
「じゃ、あれですか。『猿人』とか『類人猿』とか、そういうやつも研究していらっしゃるんですね」
「まぁ、そんなところですかしら」
 結縁寺は申し出て、博物館内を見学させてもらうことにした。博物館には入館者は誰もいないようだった。佳澄は「何か説明でも」と云って、結縁寺を案内した。
「そういえば、この近くでしたよね」
「はい、なんですか?」
「あれですよ、今世間を騒がせている事件」
「ああ、山で男性が殺されていたとかいう・・・・・・。わたし、あまりテレビとか見ないのでよくわからないのですが、確かにこの近くだと聞いています」
「山にライフルを持って入った人が、翌日死体で発見されたんですよ。それだけだったら大した事件でもないんだけど、その死体っていうのがかなり損傷していたらしくて、一体何者の仕業なんだろうって。それで、妙な噂まであるんですよ」
 人が一人死んでいて、「大した事件でもない」ということ自体理解できないと佳澄は思ったけれど、軽く頷いて結縁寺に続きを促した。
「この殺人は、山に棲む未知の獣の仕業だって」
「未知の、というと?」
「その言葉の通りです。身体中、引っ掻き傷やら囓ったような痕やらだったらしいですよ。最初は身元の確認も大変だったって。山に入ってから、たった一日しか経ってなかったのに」
「まあ・・・・・・」
 佳澄は口元を抑えて、眉を顰めた。
「しかも、熊でもない、狼でもない、そういう傷痕だったらしくて、それで未知の動物の仕業だといわれたんです。ほら、テレビとか週刊誌ってこういうネタが意外と好きでしょう?すぐに飽きちゃうくせに」
「未知の動物がこの山の中に・・・・・・」
「そういえば、こんな話もあるんですよ。あれは、山に棲む『類人猿』の仕業だって」
「え・・・・・・」
 そよと窓から迷い込んだ微風が、僅かに頬を撫でた。

「それでは、失礼しました。レイアウトが出来次第、また伺います」
「はい、よろしくお願いします」
 佳澄は軽く頭を下げた。肩を繊細そうな髪が重力に逆らわず、滑っていく。
 相変わらず、博物館には誰も来ていないようだった。
 鞄に上着を引っかけて、半袖をさらに捲った。
 蝉の鳴き声が近づく。
 ポーチの照り返しが眩しい。
 熱気がすぐそこにある。
 外はきっとさっきよりも暑いだろう。

1章 | 3章 | 4章

 広告会社の若い社員が辞してから、佳澄は自らに割り当てられたスチールの机に座って、書きかけの論文を捲った。
「書き上がりましたか、佳澄さん」
 不意にかけられた声にはっと顔を上げる。見慣れた同僚が、佳澄の手元を覗き込もうとしていた。
「いえ、少し遅れてしまいそうなので」
「そうですか。貴女にしては珍しい」
 同僚は、佳澄の向かいにあたる自分の机に鞄をどさっと置いた。
「あ・・・・・・」
 佳澄はふと目にした文字に、手を止めた。
「秋田さん、その新聞記事、いいでしょうか」
「え?ああ、これですか?」
 秋田は鞄に無造作に突っ込んでいた新聞だということが即座にはわからず、やがて笑って云った。
「佳澄さんが、スポーツ紙なんかに興味を持つこともあるんですね」
「い、いえ、その・・・・・・」
 頬を紅く染め、ゴシップばかりが並べ立てられた紙面を指し、
「この記事が、気になりましたので」
「ああ、『謎の山男』、ですね。いや、確かそこの山でしたよねぇ。佳澄さんも、女性の一人歩きは危ないですからね。気をつけた方がいいですよ」
 佳澄は曖昧に微笑んだ。
「今時、『ブロッケンの山男』じゃあるまいし、こんな噂、誰が創ったんでしょうかねぇ。そうしたら、『いや違う、あの痕は人間や猿の噛みついた痕が一番近いんだ』なんて。山猿が人を殺しますか?人が人殺すのに、噛みつきますか?山男だってこんな荒唐無稽な展開をされちゃ、出てくるにも出てこれませんよ」
 肩をすくめて見せてから、秋田はカラー紙面を佳澄に差し出した。
「荒唐無稽・・・・・・」
 細い縁の眼鏡を外し、佳澄は差し出された紙面を広げながら、さっき広告社の社員が云っていたことを思い出した。
「『類人猿』・・・・・・」
「そうそう、挙げ句の果てには『隠れて棲んでいたネアンデルタール人が、なわばりを荒らされたことに怒って殺したんだ』なんていう説まで飛び出して。ベストセラーになったくだらない本の影響ですかねぇ。考古学を専攻している身としては、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるって感じですよね。誰が云いだしたのか知らないけれど、最近じゃ専門家って名乗る、怪しげな輩まで出てきて」
「違う」
「え?」
 秋田はぎょっとしたように佳澄を振り返った。
「違うの、こんなこと、するわけないもの」
 佳澄がまっすぐ前を見つめたまま、取り憑かれたように繰り返した。
「佳澄、さん?」
「あ、ごめんなさい」
 慌てたように、佳澄は立ち上がった。
「この新聞、一寸お借りしてもいいかしら」
 スチール製の椅子が甲高い声をあげる。
「え、ええ、構いませんよ」
「あら、うっかり気づかなかったわ。秋田さん、喉乾いたでしょう?麦茶でも、いれますか」

 そんなはずはない。
 彼らに限ってそんなはずはない。
 優しい瞳。
 軟らかい表情。
 馬鹿げてる。
 そう、馬鹿げてる。
 死者に花を手向ける、そんな彼らが、どうして。
 一番残酷なのは、わたしたちなのに。
 彼らを絶滅させたのは、わたしたちかも知れないのに。

「ネアンデルタール人が、僕らの祖先やない、ゆう話は、本当なんですか?」
 背後からの声に、はたと我に返った。
 振り返ると、長身の若い男が立っていた。分厚いレンズの向こうから、丸い目瞳をくるくるさせて、佳澄を見つめている。
 博物館は夏の空気がとまっている。
 窓の外の照り返しが、奥行きのある空間を照らしていた。
 遠い、蝉の声すら聞こえない。
 聞こえないわけじゃない。
 あらゆる雑音と混じり合って、一つの音となり、空気に吸い込まれていた。
「す、すみませんでした。わたし、見学のお邪魔をしてしまいましたか?」
「いいえ。ここの人、ですよねぇ?」
「はい、そうですが」
「ネアンデルタール人は僕らが、滅ぼしてしもたんですか?」
「え・・・・・・」
 佳澄は、つい今し方考えていたこととだぶって、咄嗟に次の言葉に窮した。
「本で読んだんです。学校で僕らの祖先やって教わっとった『ネアンデルタール人』ゆうのんが、実は僕らの直系の祖先やなかったんやって」
「ええ、そうですね。つい最近、DNA鑑定でわかったそうですが」
 男は、つっと前に出て、展示を覗き込んだ。
 等身大の模型。類人猿・原人・・・・・・そしてネアンデルタール人。
「この人は、僕らの祖先やない。ほな、僕らの祖先は、誰なんですか?」
「そちらの・・・・・・新人、いわゆるクロマニョン人だといわれています」
 ネアンデルタール人のさらに向こうの模型を指して云った。
「もっと具体的に云うと、全世界の人類は、そのDNAを辿ると、アフリカで暮らしていた一人の女性に繋がると云います。聖書をなぞらえて、彼女を『イヴ』と呼んでいます」
「その『イヴ』ゆうのんの子孫が、クロマニョン人ていうわけですか」
 入り口から、熱いそよ風が舞い込んで、佳澄のスカートにまとわりついた。
「理論上の仮定に過ぎないのですけれど、そういうことになりますね」
 午後の陽の照り返し。
 二人の顎のラインを、薄ぼんやりと照らしている。
 興味深そうに佳澄の話を聞いていた男の眼鏡にその光が反射した。
 眩しさに、一瞬目を細めた。
「この前の殺人は、ネアンデルタール人の仕業やいう噂がありますね」
「は・・・・・・」
 眩しくて、男の表情がわからない。
「ご存じですか」
「あ、はい。先ほどもその話をしていたんです」
 佳澄は少し右に立ち位置をずらした。
 眩しさが、急激に和らいで、男の無邪気な瞳が覗いた。
「『類人猿』なら、日本にいてもおかしない。究極的には、僕らの祖先なんでしょう?でも、ネアンデルタール人は、日本におったんですか?」
「いえ、正確には確認されていません。だいたい『ネアンデルタール人』という呼び名は、発見されたドイツの谷の名前からとったものですから。けれど、その時代、当時は大陸と繋がっていた日本列島に、そういった人々がいたとしても、おかしい話ではないと思います」
「そうですよねぇ。『明石原人』は、最近じゃ存在自体疑われてるみたいやけど、三ヶ日や浜北で旧石器時代の人骨は出てるわけですからねぇ」
「でも、三ヶ日や浜北、それに港川などの人骨化石は新人のものといわれています。明石については、現存していないのでわたしは何とも云えませんが、事実とするなら原人。つまり、ネアンデルタール人にあたる人骨は、日本では発見されていないのです。いえ・・・・・・しかし、発見されていなだけなので、この真下にだってある可能性はあるのですが」
「ほな、そのネアンデルタール人は、僕らを殺しに来るんですか?」
「・・・・・・そ、そんな」
 佳澄は眩暈を覚えて、人差し指と中指で額を抑えた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・彼らは、そんなことしません。好きこのんで同族を殺すような、そんなことはしない」
 男に支えられたまま、夢中で語った。
「知っていますか?残虐といわれるライオンもトラも、同族どうしで殺し合うことはないのです。食糧を得るために、他の動物を殺すことはあっても、自分の利害のために同族を殺すなんて、ヒトだけなのです。ヒトの先祖、クロマニョン人は、攻撃性を備えていたと云われています。その攻撃性を継いだのが、ヒト 。理由を付けて、殺し合う、そういう動物なのです」
 佳澄の話に思わず聞き入った男の力がふと緩んだ。
 途端、佳澄の身体はぺたんと、冷たい床にへたり込んだ。
「うわ、すんません」
「あれを・・・・・・見てください」
 佳澄は、座り込んだまま、壁一面に描かれた人類の歴史を指した。
「実は、ネアンデルタール人とクロマニョン人は、一時期ですが同じ時代を生きていたんです。発掘調査によれば、ネアンデルタール人の遺跡からわずか数qの地点にクロマニョン人の遺跡も存在していました。わたしたちが、他の国の人々と顔を合わすように、彼らも顔を合わせる機会が必ずあったと考えられるのです」 スカートを軽くはたきながら、佳澄は立ち上がった。
「では、なぜ、彼らが滅びてしまったのか、ですが」
 佳澄は男の瞳をじっと覗き込んだ。
「それは・・・・・・殺してしまったから」
 その男の瞳から、視線を逸らした。
「先ほどおっしゃられたように、彼らを絶滅させてしまったのは、わたしたちだったのかも知れない」 「・・・・・・そやけど、彼らがこないなとこで生き残ってた、なんてことはあるんですか?」
 男は遠慮がちに訊いた。
「それは・・・・・・わかりません。そちらの模型は、発掘された骨から復元されたものなのですが、どうですか?今風の洋服を着せて、髪もばっさりと切ったら。わたしたちとあまり区別がつかないと思うのです」 「あ、本当や。わからんかも知れへん」
「彼らは新人と変わらないほどの脳を持っていました。ある遺跡からは、埋葬された人骨と共に、花粉が見つかっています。つまり、死者に花を手向ける、そのような心も持っていたのです。彼らはまだこの地球のどこかで、何万年という時間を超えて、存在しているかも知れない。けれど、ひとつだけ、云えることがあるのです」
 蝉の声が、やんだ。
 熱気が、引いた。
 空気が、止まる。
「たとえ、彼らがこの山に存在したとしても、人を襲うことはありません」

1章 | 2章 | 4章

 ヒグラシが山の木々に木霊している。
 山の向こうの夕日が真っ赤になって、机の上を照らしていた。
「じゃぁ、お先に」
 最後まで、佳澄と一緒に残っていた秋田が、出ていってしまうと、余計にヒグラシの鳴き声が、近くに遠くに聞こえてくる。
 すっかり捗 らなくなってしまった論文を机上に置き、佳澄は博物館内の点検を優先することにした。  通常、点検は事務員がしている。事務員といっても一人しかいない。だから、結局最後に残った者の仕事となっていた。
 展示室の照明を切り、ドアに鍵をかける。書庫と倉庫の錠を確認して、廊下の古びた窓にも鍵をかけた。
 ふと、受付に置いてある来館者名簿が目に入った。
 そういえば、さっきのあのひとは、どこのひとなのだろう?
 何気なく、佳澄の手がその表紙を捲った。
 今日の日付には、1人の名前があった。住所は東京。
 名簿といっても、来館者の任意に任せているから、あの男が書くとは限らない。
 そうは思いながらも、名前を辿った。
「冷泉為彰?」
 真摯そうな瞳とそれでいて少し間の抜けた感じのした彼には、なかなか合った名前と思った。
 窓の外が、いつの間にかすっかり真っ暗になっている。
 そんな時間なのかと、佳澄は腕時計を確認した。
 日の長い夏にしては、少し早すぎるような気がした。
 沈んだ暗さが、夜闇とは異なった重量感で、辺りを覆っていた。
 佳澄はもう一度、窓の外を覗いた。
 閃光が横切る。
 やがて、廊下が身震いしたような振動に、足がすくんだ。
 夕立。
 つい今し方までヒグラシが鳴いていたというのに、あっという間にその声は雨音にとって変わった。
 無数の水滴が叩きつけられる。
 乾いた土の上に、大きな水玉の模様が描かれたかと思うと、それすらかき消されていく。
 遠い稲光が、寸分の時差もなく、窓から射す。
 地を揺する振動が、内臓をも震わせる。
 ここでやむまで待っていようか、それとも駆けて帰ってしまおうか。
 佳澄は少しだけ迷った。
 しかし、あまりもたもたしていては、家で待つ母親が心配するだろう。
 心を決めた佳澄は、荷物をまとめ、扉に鍵をかけ、埃くさい表へと、出た。
 傘は持っていなかったから、ハンカチをかざし、スカートを気持ちだけたくった。
 一歩ごとに、水滴が跳ね上がる。
 何もない田舎町だから、ほんの少し雨宿りするスペースもなかった。
 気の遠くなるくらい走ったような気がしたが、まだ家は遠い。
 なのに、夕立は酷くなる一方で、止む気配はなかった。
 いい加減、佳澄は雨宿りしてこなかったことに後悔しはじめたとき、水たまりの深みに足を取られた。おたついている間に、佳澄は身体ごと埃っぽい雨の中に投げ出されてしまった。
 辺りは暗く、街灯もない。
 ただ、雨の打ち付ける音が響くだけだ。
 佳澄はふと、昼間の話を思い出した。
──────この近くに・・・・・・未知の生命が。
──────夜の一人歩きは止めた方が・・・・・・。
──────それはネアンデルタール人のせい?
 思わず、背後の山を振り返った。
 いつも見慣れた山。深い緑の山。
 しかし、そこには代わりに無限の闇がある。
 不安に駆られたその瞬間、稲光が音もなく、辺りを透かした。
 そして、轟音が届くよりも前、佳澄は絶句した。
 黒い人影。
 いや、人影なのか、シルエットでそう見えるだけなのか、わからない。
 構えることもなく、ただ佳澄をとらえていた。
唖然とした佳澄の顔に、容赦なく雨が打ち付けた。
 悲鳴すら出ない。
 ただ、それを見つめていた。
 殺されるのかしら。
 佳澄はただ、そのとき・・・人影が襲いかかってくる瞬間を待っていた。
 追いついた音が、辺りを震わせた。
 内臓を揺さぶる音。
 気が遠くなるのを感じた。
 突然襲った、極度の緊張の糸が、切れたのだ。
 相変わらず、雷は遠くで燻っている。
 その轟音は唸り声になった。
 地を揺るがすような唸り声。
 違う、これは雷の音ではない。これは・・・・・・。
 目前の黒い人影。
 彼は、低く、唸っていた。
 その足元が見えた。
 なぜか、毛むくじゃらに見えた。
 土だらけのその足には、しかし、大地を踏みしめた痕跡を見たような気がした。
 遠い、遠い、記憶の中の痕跡・・・・・・。
 そして、佳澄は深い意識の淵に堕ちた。
 雨が佳澄と彼を打ち付ける。

1章 | 2章 | 3章

 今日も、日差しがきつかった。
 屋根や路面を容赦なく照らす日光が、気温をぐんぐん上げている。
「大丈夫ですか、佳澄さん」
 定刻をゆうに遅れてやってきた秋田が、鞄をどさりとおいた。
「ええ、はい。一週間もお休みさせていただきましたので、すっかり」
「そうじゃなくても夏風邪はきついですからねぇ。無理して夕立の中帰ったんですって?そんな無茶したら駄目ですよ」
 そうなのだ。
 雨の中気を失った佳澄だったが、気がつくと自宅の布団に寝かされていた。
 母の話によれば、帰宅が遅いと思って玄関に出たところ、そのポーチに佳澄が寝かされて、気を失っていたというのだ。
 無論、記憶にはない。
 佳澄は軽く微笑んでから、立ち上がった。
「わたし、一寸展示室へ行って来ます」
「あっ、佳澄さん。忘れてました。昨日、佳澄さん宛に電話がありましたよ。広告代理店の方だとかで、今日の午後、伺うって」

 照り返しが、また展示室を照らしていた。
 重く足下にたまった僅かな冷気が、黴臭さをはらんで淀んでいる。
 まだ何となく微熱気味の身体を引きずって、あの原始人たちのいるところへとやってきた。
 そこには、先客がいた。
 長身の若い男。
「あ、貴方は・・・・・・」
 男は振り向いた。
「ああ、この前の方ですね。どうも、こんにちは」
「また、いらしたんですか」
「僕のせっかちな恋人が、今日ここへ来る、云うんで、僕も来たんです」
 嘘か本当かわからないが、彼はにっこり笑って云った。
「この展示、貴女が監修なさったんですか?」
「え?ええ、そうですが。どうして、ですか?」
「なんや、愛情がある云うか。彼らに対する、敬意と親近感がある。そう思うたんです」
 恥ずかしそうに、佳澄は頬を染めた。
「そや、あの事件、解決したようですねぇ」
「あの事件?」
 佳澄の中で、一週間前の出来事が蘇る。
「あれですよ、『謎の山男』殺人事件です。やっぱり、貴女の云うとおりでしたねぇ」
「解決、したのですか?」 
 佳澄は寝込んでいる間、テレビも何も見ることができなかったから、事件がどう展開していたのか知らなかった。
「ええ、ご存じやなかったんですね。逮捕されましたよ、正真正銘、現代人が。やっぱり、あれはネアンデルタール人の仕業なんかやなかったんです」
「・・・・・・そう、ですか」
「なんや、傷がどうのって云うてたでしょう?あれは凶器の熊手で引っ掻いた後やったんやそうですわ。害者に対してえらい恨み、持っとったらしいて、息絶えてもまだ、死体を痛めつけとったゆうことやそうです。それで、あんな酷い傷跡が残ってたんですねぇ」
「・・・・・・」
 佳澄の記憶が、一週間前の宵を駆けめぐる。
「わたし、先週、会いました」
「え?」
 唐突な告白に、男は大きく目を見開いて訊き返した。
 佳澄はあの出来事を話した。一言一言、出来事を話すうち、現実味を帯びない話が、なぜか徐々に確信を得たかのように、現実の記憶となっていく。要領を得ない話にも、男は黙って頷いていた。
「やっぱり、貴女が云うとった通りやないですか。ネアンデルタール人は、人を襲ったりしない。むしろ、貴女を助けた」
「でも、彼らがまだ生きてるなんて。しかも、日本には・・・・・・」
 男は佳澄を覗き込んだ。
「ええやないですか、ネアンデルタール人が、この山に生き残ってたかて。そのネアンデルタール人が、転んだ貴女を家まで送ってあげたかて」
 佳澄が見た彼の瞳は、優しい、そう、あの展示物のネアンデルタール人のように柔らかな表情をだった。

 今日も、空は水のようだった。
 入道雲の白い氷。
 暑い、夏空。
 深い緑の草。
 蝉の声が聴覚を麻痺させる。
 土の匂いが、懐かしい。
 短い編成の列車は、一週間前と同じように、彼女一人を無人のホームにおいて、再びがたごとと走り出した。レールが大きく軋んだ。
 それらの出来事が、まるで懐かしい。
「きょぉも、あっついなぁっ」
 ノースリーブのワンピースを着た彼女は、額に手をやって向こうを見た。
 前髪が、僅かな風にふわりと舞った。
 肌を、気づかないような優しさで撫でていく。

「ずいぶんと」
 佳澄は来客に冷茶を差し出した。
「広告は、早くできるものなのですね」
 結縁寺は、水滴が張り付いたコップを手に手に持ったまま、首を左右に振った。
「いいえ。本当は、こんなに早くないんですよ。でも、わたし、せっかちで。それに、先週ここでいろいろ展示を見せていただいたおかげで、なんていうんですか、ピーンとくるものがあったんです。イメージがすらすらっと湧いてきて」
 鞄の中からとりだした筒状のA4版レイアウトを、結縁寺は広げながら、どこか得意げだ。佳澄はそれを丁寧に受け取った。
「まぁ、素敵・・・・・・」
「そう云っていただけると、嬉しいです」
 云いながら、結縁寺もレイアウトを覗き込む。
 深い緑。
 ただ、緑。
 そして、何者かが添えたと思われる野の花の小さな束が、土器や石器と共に一本の大樹の下に供えられている。
 白ヌキ斜体文字で、コピーが並んでいた。
「『わたしたちの記憶を、さがすとき』・・・・・・いいですわ。こんなに素敵なものをつくっていただけるなんて」
 わたしたちの記憶・・・・・・
 わたしたちが、いまという瞬間。
 何億年と積み上げた、瞬間。
 歴史は、瞬間の積み重ね、それが記憶。
 この惑星の記憶。
 だとしたら、彼らの記憶もまた、ここにあるのだ。
 佳澄はぼんやりと考えた。
 わたしたちが彼らを滅ぼしたとしても、彼らの記憶を継いでいるのかもしれない。わたしたちの中を流れる、彼らの記憶という血。
 たとえ、遺伝子は受け継いでいなくても。
 そう、クロマニョン人の中にはネアンデルタール人と共存した者たちもいたという。
 滅ぼしたのか、共存したのか。
 どちらであっても、どちらでもなくても、わたしたちに残された記憶・・・・・・。

「では、このデザインで進行させていただきます。あと、コピーやロゴの色指定などもありますので」
「はい、わかりました」
 佳澄は頭を下げた。束ねた髪が、吹き込んできた微風にそよぐ。
 今日も、博物館には誰も来ていないようだ。
 丸めたレイアウトを抱え直した。
 精一杯の蝉の声。
 ヒグラシの声が、だぶり始めていた。
 すっかり熱く火照った地面。
 放射される熱気は、微風が奪い去っていく。
 どこかしら、草いきれには秋の匂いが混在している。
 きっと次にここへ来るときには、あたりは秋へと変わっているのだろう。
 彼女は思った。
 果てしなく繰り返してきたように。
 46億回目の秋を。

悠久氷河 了

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