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う ら ら

 沈丁花の香、きつく、彼は春を実感していた。
 ロマネスク様式の講堂の裏手。
 小さな出窓は、いつか見た歌劇の舞台を、彼に連想させる。
 照らす陽ざしは、時間をかけて、座る彼の背を暖めた。
 冬物の詰襟は、余りに窮屈で、彼はばらばらっと一息にボタンを外して芝の上に脱ぎ捨てた。
 開襟シャツの白は眩しい。
 彼がこの場所に来たのは初めてのことだったけれど、ここが講堂が一番美しく見えるところなのだということを予感していた。
 予感しながら、塔の鐘が鳴るのをじっと待っている。
 彼の前の沈丁花もまた、無言のまま可憐な花を咲かせていた。
 香りだけが、存在を誇示しているかのようにも思える。
 やがて、鐘が鳴る前、彼の前に一人、男がつと立ち止まった。
「おや、」
 男は丸眼鏡を鼻の上で上げながら、言う。
「このようなところでお会いするとは、奇遇ですね」
 彼はまっすぐに男を見上げてから、軽く笑みを作った。
「いえ、俺、この春からここに通うので、下見にでもと思いまして」
「成程、解ります、僕も入学の年の春は、同じように下見をしました」
「何分、街のことから何もかも初めてのことが多くて。右も左も解らないとは良く言ったものです」
 男は軽く、ははは、と笑った。
「大丈夫、すぐに慣れます」
 と、その時。
 講堂の時計台の鐘が、正午を告げた。想像したよりもずっと重厚な響きは、彼の鼓膜を不愉快なくらい、震わせる。
 ほんの、その刹那だけ、沈丁花の香が物怖じしたかのように、引いた、そんな気がした。
「お散歩ですか?」
 今度は彼から尋ねる。
「ええ、こんなにお天気が良いので、つい嬉々としてしまいましてね。これから、少し市電に乗って、丘の桜の様子でも見ながら帰ろうかと思います」
 男は想いを馳せるように、北の方角の空を見た。
 光が男の眼鏡をすり抜けそこなって、微妙な反射をした。
 彼は立ち上がり、学生服を片方の肩からかけると、言った。
「ああ、それなら俺も途中まで一緒です。よろしければ、ご一緒にどうでしょう」

「・・・・・・卒業式、」
「え?」
 市電の駅に向かう途中、蕎麦屋の前を通り過ぎた頃、書生風のこの男はふと、呟いた。
「卒業式、なのでしょうか」
 彼の見ている方向に、不似合いなほどめかしこんで、家族に見送られる少女がいた。
「そうですね、たぶん、この近くの女子学校でしょう」
「・・・・・・」
「どうかしましたか」
「いえ、ね、少しだけ、羨ましくて」
 書生は照れたようにしきりに丸眼鏡を上げている。
 彼はそこで自らの無神経さに、はっと気がついた。
 そうなのだ、この人は通っていた学校を辞めたとかいう・・・・・・
 この書生は彼が先日から入った下宿の先輩格なのだが、まだ対面してから日も浅く、ろくに言葉を交わしたこともなかった。だから、いたしかたないことではあるのだが、下宿の主人から書生のことは少しでも聞いていたのだから自分が未熟であったという他ないではないか・・・・・・。
 彼は一寸うつむいて、後悔した。
 そんな彼に気付いてか、気付かずにか、書生は日差しほどの明るい声で、尋ねた。
「貴方は、どちらのご出身で?」
「俺ですか、俺は武州です」
「そうですか、それはいい・・・・・・」
 彼らは連れだって市電に乗り込んだ。
 昼時は客も少なく、硬い座席に並んで腰掛ける。
 市電は彼らが乗り込むと、すぐに発車した。
 緩やかなカーブで日向の向きがぐるりと変わる。
 書生の眼鏡にも、日差しが反射したり、向きを変えてみたりと、せわしなく光が入ったり出たりしている。
 しかし、書生は落ち着いた面もちのまま、足を組んだ。
 彼の紺色の学生服はすっかり春の熱を吸収していたけれども、腕をまくりあげている書生の白いシャツは尽く、熱を跳ね返し、涼しげだった。
「どちらまで?」
「半時ほど乗らねばならないのです。義姉が患っていまして、病院へ」
「お義姉さんですか」
「ええ、本当は兄が行くべきなのですが、交通の関係もありまして、なかなかそうもいきませんので、この春からは俺がかわりに」
「それは、偉いのですね」
「そんなことは・・・・・・ところで、桜はどちらの桜ですか?」
「いえ、どこの桜と決まっているわけではありませんよ、今日はこの辺りかとふらりと見て回っているのです、蕾はどのくらい膨らんだかと。僕はただごろつくだけの毎日ですからね」
 書生は五つめの停留所で、その言葉の通り、ふらりと下りて行った。

 市電は社の前に停車して、彼を下ろした。
 左折して、病院までは細い路地を歩く。
 仄かに珈琲が馨る喫茶店や豆腐屋のにがりの匂い、そして路行く人の足音。
 彼は何かに急かされたかのように、早足で通り抜けようとした。
 向こうからきた子供たちが彼の足元を走り抜ける。
 彼は白い病院の建物の入口で、履物を脱ぎ、冷たい内履に履き変えた。
 病院の空気はひやりと肌に染みた。
 薬の匂いが鼻に刺し、大きな掛時計が、地を這うような音で時を刻み続ける。
 それでも、彼は立ち止まることなく、先を急いだ。
 階段は、彼の一歩毎に、みしみしと鳴った。
 彼はすれ違う看護婦に軽い会釈をしてから、病室の入口で立ち止まった。
 義姉は寝台の上で、うららから陽を受けながら、頼りなげに窓の外を見ている。
 匂いたつ辛夷の白い花が、窓の丁度外で、梢の先に奇妙な形で花を開いていた。
 開け放たれていた扉を遠慮がちに叩くと、義姉は彼の方に振り向いた。
「まぁ、」
「すみません、今日はもう少し早く来ようと思っていたのですが、」
「気になさらないで、来てくだすっただけでも、嬉しいもの。さ、そこにおかけなさいな」
「はい」
 あの沈丁花を折って、持って来れば良かった。
 彼は心からそう思った。
「義姉さん、これ、大したものではありませんが、お土産です」
「あら、何かしら」
 義姉の手は白い。寝巻から覗く手首も白い。まるで白磁製の繊細な人形。見える辛夷よりも、白いと彼は信じていた。
 彼の差し出した包を楽しそうに開けている義姉を眺めながら、彼は何気なく、尋ねる。
「兄は、」
「なに?」 
「兄は来ていないのですか?」
「ええ、でも貴方が来てくだすったから、嬉しいわ」
 義姉の肩から黒髪がはらりと落ちた。
 彼は安堵に似た気持ちで、義姉の笑みを見つめている。

 数日後、彼はまた声をかけられた。
 今度は蕾が精一杯膨らんでいる桜の樹の下だった。
 桜の蕾の赤みが、樹々全体を仄かに匂いづけていた。
「また、お逢いしましたね」
 春空の下、偶然出くわした二人は、同じ下宿の住人なのだが、他人行儀にお互い挨拶を交わす。
「今日はどうなされたのですか」
 書生は丁寧に尋ねた。
「先日、お聞きした花の様子はどのようなものかと思いまして」
「そうですか」
 二人は真上の樹を見上げた。
 爽風。
 今にも、その花弁を開きそうな花。
「僕はね、本当は林檎の花や梨花の方が好きなんです、白く可憐で。でも、桜の花はまたそれで、胸騒ぎがしてしまいます」
「もうすぐ咲きそうですね」
 彼は言った。
 しかし、書生は頷かなかった。
「いいえ、少し、遅れるでしょう」
「え?」
「開花はたぶん、遅れるでしょうね」
「どうしてですか、こんなに蕾も膨らんで、暖かい日が続いているのに」
「でも、もうすぐ降り出しますよ」
「何がですか?」
「雨か雪、春の嵐ですね」
 書生は、つっと視線を元に戻すと、丘の不揃いな石段を登り始めた。
 慌てて彼も後を追った。
「どうして、そんなことがわかるのですか?」
 彼は書生に背後から尋ねた。
 書生は答えず、ただ、ゆっくりと一段づつ歩みを進めている。
 流石に、彼は書生にからかわれたかと思った。
 それを察したのか、書生はくすくす笑いながら言った。
「嘘ではありません、まあ、少し空模様をみていなさいな」
 迦羅色の着物を着た女性が二人とすれ違った。
 その色の地味さとは対照的に、女性の唇に差した紅が彼の網膜に焼き付いた。
「ほら、」
 書生はその女性には無関心と言わんばかりに、彼方の空を指して言った。
「雲が出てきたでしょう、あちらの方に」
 彼は頷きながら、ふと身体に絡みついた、視線に振り返った。
 あの着物の女性が、彼の方をじっと見つめていた。
 勿論、彼は彼女に面識があるわけではない。
 しかし、女性は彼らを見つめながら、石段を下りている。
 何か言いたげに、見つめている。
 もしかして、あの女性が見ているのは、俺ではないのかも知れない。
 彼はそう思って、前を行く書生を見たが、書生は足元に気を付けながら、ただ石段を登っている。
「おや、袖口のボタンが外れかけていますよ」
 書生の草履が小石を踏んで、僅かに鳴いた。
 彼は、もう一度だけ、振り返った。
 が、すでに女性の姿はどこにもなかった。
「どうか、なさいましたか?」
「あ、いえ、何でもありません」
 女性が手に持っていたのは、鮮やかな紫の和傘だった。
 彼女も、春の嵐を予感していたらしい。

 市電は彼を下ろすと、ちんちんちんと三回鳴らして通りを下って行った。
 もう陽は西に傾いている。
 昼過ぎに書生はこれから天気が下り坂であることを予言していたが、空はまだ蒼いままだった。
 その日は、何故か不思議と病院への足が進まなかった。
 しかし一方で、胸騒ぎと言うのか、兎に角、義姉に会わずにはいられない。
 昨日持って行った霞草 の水を替えなくてはいけない。
 義姉の手拭を濯いであげなくてはいけない。
 彼は自分の役割を言い聞かせて、心の底の不安を拭い去ろうとしていたのかも知れない。
 いつものように、草履を内履に替え、看護婦に会釈しつつ、彼は義姉の病室に向かった。
 ところが、彼は歩みを止めた。
 大きな掛時計の前。
 相変わらず、必要以上に重々しく時を刻む。
彼は余りこの時計が好きではなかった。好き嫌いというより、存在は知っていても、余り気になるものでなかっただけであった。
 が、この日、彼は立ち止まった。この時計が、この時計の重厚な音が、胸に堪えた。
 どうしてなのかは解らない。
 ただ、左右に揺れながら時を刻むこの時計が、ひょっとしたら自分の時間をずっと支えているのかも知れないと思った。
 今までの時間、生まれて、兄と過ごし、義姉と出会った、時間を。
 考えすぎだ。
 彼は自分で考えを打ち消すと、階段を昇り始めた。
 時計の振子は、何もなかったかのように、鈍い金色に光りながら、左右に揺れた。

 義姉の病室は西陽が射しているようだった。
 開け放たれた扉から廊下にまで橙々色が伸びだしていた。
 彼は、あと一歩で病室というところで、彼はまた立ち止まった。
 立ち止まったというよりも、足がすくんでしまったという方が正しかった。
 眉が微妙に歪んだ。
 義姉の笑い声が聞こえた。重なって、もっと低い話声が聞こえた。
 彼にはその声が誰のものかすぐに解った。
 彼は切なく、顔を歪め、胸の辺りで拳を握りしめる。
 そして、恐る恐る、病室を覗いた。
 いつも彼が座るはずの椅子に、血のつながった兄が座っている。
 義姉は楽しそうに笑っていた。今迄彼に見せた笑顔とは明らかに違った。
 祝福。
 そうだ、あの時、兄が義姉を彼に紹介した時、彼は二人を祝福した。
 今も、二人の睦まじい光景を祝福しなければ。
 何故、こんなに落ち着かないのだ・・・・・・。
 彼は西陽を受けている義姉を見た。兄は丁度影絵のように、黒い輪郭しか見えなかった。
 かつーんという音をたてて、彼の袖口のボタンが外れて転がった。

 雨が、降りだした。
 陽が沈んでまもなく、まるでそれまでの晴天が嘘のように、厚い雲が宵の空を埋め、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
 彼は転げるように、病院を出て、路地を市電の駅とは逆の方向に駆け出した。
 雨は次第に強くなり、彼の学生服を湿らせた。
 それでも駆けた。
 何かが怖かった。
 逃れ得ないものから逃れようと、ただ走った。
 やがて息が切れだし、水溜りを蹴る足ももつれだした。
 狭い路地に屋根から落ちる雫 が、叩きつけられていた。
 宵の闇が突然の雨雲の暗さとあいまって、不気味な明るさを秘めている。
 彼はとうとう立ち止まった。
 顎から雨が伝って落ちた。
 大きく上下する肩は、黒く湿っていた。
 その時、ふっと。
 彼の視界を紫が横切った。
 傘。
 すぐに傘だと解った。和傘。
 暗い横の路地を彼は目を凝らして見た。
 あの女だ。
 丘で昼、逢った女性だ。迦羅色の着物は雨の宵の中でもよく解った。
 彼女は誰かと話していた。
 逢引・・・・・・?
 女は男の袖を引いた。強く、強く。
 その男は何も知らないふりで、彼女に背を向けていた。
 彼は離れたその位置から、じっと二人を見つめていた。
 やがて、女は男の肩を強くひいて、自分を向かせ、首に手を回そうとする。
 男は抗 った。
 勢いで、男の眼鏡が飛んで落ちた。小さな音がして、砕けた。
 あの書生だ。彼は気が付いた。
 書生は自分の丸眼鏡が割れても、何も知らないようなふりを続けている。
 彼は、同じ下宿の書生とあの丘で逢った女の間に面識があったことがわかってもどういう訳か、別段驚かなかった。
 女は書生をしっかりと掴んで放さない。
 しかし、書生も何もせず、ただ、彼女の為すが侭にしている。
 彼はそのままの姿勢で、二人を見つめていた。
 見つめたまま、解ったような気がした。
 どうして、書生が彼女を無視しているふりをするのか。
 どうして、迦羅の着物の女性が丘で書生をただ見つめていたのか。
 そして、どうして、彼自身が自分の中の悪魔を許し続けるのか。

「貴方は嘘つきだ」
 彼は梅の香りの甘さに任せて、言った。
 晴天。
 下宿の庭の縁側で庭木の梢を眺めていた。
 書生はあの宵と同じ和服を着ていた。
 彼の記憶の中の嗅覚が雨の匂いもその和服から感じた。
「僕が」
「そうです、貴方はこうやって偶然行き会ったような顔をして、いつも俺を待っているのです」
書生は眼鏡を上げるような仕草をした。が、その眼鏡はなく空振りとなった。
「眼鏡、今朝流しで割られたのですよね。でも、俺は知っています、貴方の眼鏡はあすこの路地で割れました」
 書生は彼を見た。笑みは無かった。だが、不思議と余裕のようなものが彼に伝わった。
「貴方も、狡い」
「俺、ですか」
「貴方は僕が貴方を待っているのを知っていながら、何も知らないふりで、僕が声をかけるのを待っているじゃないですか」
 書生が薄く笑った。
 彼も笑った。
「度なんて、殆ど入っていないのですよね、貴方の眼鏡は」
「・・・・・・」
「それで、感情を隠そうとしているのですね」
「そう見えますか」
「丘で迦羅色の着物の女性とすれ違っても、宵の路地裏で彼女に何を言い寄られても、知らないふりをして。本当のことは何も出そうとしない。やっぱり貴方は嘘つきです」
「・・・・・・」
「桜を、春を待ち侘びているふりで、花が咲いてしまう日を恐れている。貴方が愛でているのは花ではなく、春を待つ、花の枝を眺めて到来を期待する、その時間なのですか」
 書生は可とも否とも言わず、笑みをそのままに、言う。
「お兄さんは病院へはたまにいらっしゃるのですか」
「ええ、」
 書生は彼の顔を覗き込むような仕草をした。
「おや、別に残念そうでもありませんね」
「何がですか」
「いえ、こちらの話です」
 二人は際疾く笑い合った。
「どうです、吸いますか」
 書生が袂から煙草を出して、彼にも勧めた。
「有難うございます」
 彼は代わりにシャツの胸ポケットから鈍色のライターを出した。
「随分、綺麗な手をしているのですね」
 火を差し出した彼の手を見て、書生は言った。
「でも、兄の方がもっと女性的な手をしています。このライター、実は兄のものなのですよ、去年の夏に義姉と三人で病院の中庭で花火をしたときに、兄からこっそり取ったものです」
「そうなのですか」
 書生は煙草を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 その紫煙を眺めてから、彼も目を閉じて味わうように煙を吸って、吐いた。
「ところで、」
 彼は目を閉じたまま訊いた。
「どちらのご出身でしたか」
 湿った庭先の、咲きこぼれそうな遅い梅花。
 その甘い匂いはなおも二人を酔わせる。
「僕ですか、僕は甲州です」

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