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そうふけ

 揺れに合わせて、義姉のうなじもゆっくり揺れていた。
 列車は都心の地下を抜け、河を幾つか越えたところで高架区間に入る。
 僕は靴を抜いで、座席の上によじ登り、窓の外を見た。
 景色の、単調に見えて、しかし不規則な光の配置に僕は嬉々とする。
ぎりぎりまで顔をガラスにつけて、描く弧を追い続けていた。
 そして、暗いキャンバスの中の義姉の後ろ姿も追い続けていた。
 ガラスの中の義姉は僕の横で、揺れている。おくれ毛が、彼女の揺れとは関係なく、扇風機の風に乗ってふわりと舞い上がる。
 国道の街灯が耳の裏のほくろを通過した。
 僕は飽きることなく見ている。

「あ、お義姉さん」
 僕は義姉の袖を引いた。
「隣のホームの電灯が全部消えてる」
 義姉は肩ごしに窓の外を見た。
 高架のホームに留まる列車の右どなりの、全ての電灯が消えた上りホームを僕は指さした。
「どうして?」
「もう今日の列車は終わりだからよ」
 義姉は軽く微笑みながら、ごくごく簡単な答えを返してくれた。
「終わり?」
「この列車は最終だから、もうすぐこの駅はこちらのホームも真っ暗になるの」
「真っ暗に?」
 あかるい皎々とした駅しか知らない僕は、想像できずに少しだけ苦しんだ。
 そんな僕にもう一度笑みをくれてから、義姉はまたうつむき加減の元の姿勢に戻った。

 列車が再び高架を疾走し始める。
 僕はまっすぐに台地を駆け抜ける列車から、後方を見た。
 義姉が言った真っ暗な駅を見られると思ったからだ。
 まっすぐだと思われた線路は、僅かに反れているらしい。
 僕から今はなれたばかりの駅が見えた。
 あかるい駅が暗闇の中に浮きだしている。空中に忘れてきたみたいだと思った。
 僕は駅を追い続けた。
 目で、じっと明りが消える瞬間を、見届けてやりたい。
 列車はだいぶ駅から離れてしまった。
 それでも、僕は見ていた。
 高架線路の上を銀河鉄道のように、最終列車が走り抜ける。
 恒星の軌跡のような残像を残しながら、台地を駆け抜ける。

 僕は義姉に手を引かれて、改札を出た。
 まもなく、この駅すら暗闇に閉ざされる。
 そして、僕らを見送った駅員たちもようやく遅い家路につくのだ。
 義姉の、僕を引く手の力がほんの一瞬だけ、強くなった気がした。
 自然、僕は義姉を見上げる。
 義姉は、駅の口で「こっち、」とだけ、言って僕の手を引いた。
 家とは逆の方向だ。
 僕にだってわかった。
 しかし、義姉はそのまま、進む。
 駅の北側は、家のある南側と違って、未開発地域だったから、小さな出来たばかりの公園がぽつんとあるだけで、あとは草原のままだった。
 ところどころ張ってある有刺鉄線も、すっかり錆びて、全く役割を果たしていない。
 大きな高圧鉄塔が、赤い光を点灯させながら、いくつか唐突に立っていた。
 向こうの方に、基地のサーチライトがリズムを刻みながら、見えたり消えたりしていた。
 僕は振り返って、南側の噴水を見た。深夜だというのに、青や黄色の光が水を照らしている。もう、噴水広場には、誰の姿もない。
「義姉さん?」
 僕はたまらなくなって、義姉に呼びかけてみた。
 家が恋しいというよりも、日常の、普通の、見慣れた風景から背を向けて闇へ向かうことが嫌だった。心細かった。
 そして、義姉が不意に僕の手を放してどこかへ、つっと、行ってしまうような気さえしていた。
 薄明るい闇の底を、軌道を揺らす音が、草深(そうふけ)の野から遠ざかって行った。

 全身をなめるような深夜の風が僕をますます不快に、不安にしていた。
 僕は義姉を再び見上げた。
 義姉の頭上を、高圧電線が幾重にも横切り、交叉しあっていた。
 たまに、風にはためくのか、平行方向に振れあう。
 まるで、児童館のプラネタリウムを見ているような、そういう無限の広がりを感じた。
「ほら、あっち」
 義姉は、草深野のまん中で立ち止まり、向こう彼方を指した。
「お兄さんが」
僕は素直に義姉の指す方向を見た。
 草原。
 闇。
雲。
 鉄塔。
「兄さん?」
「そう、お兄さんが」
 義姉は繰り返す。
 僕が問い、義姉が繰り返す。
 僕はその闇に、その都度目を凝らした。
 そして、幾度目か。
 ちょうど、クリスマスツリーに電球を点灯するように。
 光が押し寄せて来るような錯覚の後、僕は空中に座標を描く淡い色のラインを見ていた。
まず、緑。
 れもん色。
 橙々。
見えにくかったけど、青。
そして、紫。
すべて、高圧電線の上に乗って、輝いている。
 華火に近い暖かさと、レーザーに近い鋭さで、草深のずっと向こう、八木ヶ谷や宗吾の方まで、続いているようだ。
 ぼんやりと、ナイターをしている球場のように浮かび上がったところが、清掃所隣の古和釜変電所だと、思い出すのに、時間はかからなかった。
「ほらね、お兄さんが」
 義姉はまた、言った。
 その声に同調したように、すすっと高架線路上の電線が、高圧電線と同様に光を帯び始めた。
 綺麗な、水色の線が、まっすぐ近づいて伸びて行く。
 遥か向こうに微かに見える操車場の列車のパンタグラフが、フラッシュのように光を跳ね返したのが見えた。
「お義姉さん、兄さんがどうしたの?」
 すがるように尋ねた。
 僕はこの光を失いたくなかった。
 この懐かしさが心地よかった。いつまでも、このままでいたかった。
 でも、どうしても。訊きたかった。
 それは、きっと僕も感じていたからなのだと思う。
 義姉が、兄のところに行ってしまう。
 僕をおいて、義姉が行ってしまう。
 この手を突然放して、兄のところへ行ってしまう。
 訊くことで、言葉にすることで、兄が遠ざかるのはわかっていた。
 兄は感知する世界の人。
 義姉は会話する世界の人。
 今は、まだ。

 半ズボンの膝に、義姉の着物の袂を感じていた。
 義姉が徐々に、兄に近づく。
 僕だって。
 光悦の中に義姉を置き去りにしたくない。
 僕はいつでも、兄が羨ましかった。
 幾つも歳の離れた兄は、血のつながった兄弟である以前に、両親以上に身近な肉親であり、僕の相手をしてくれる人、そして尊敬の対象だった。
 僕はいつでも、兄の背を見ていた。
 何より尊敬し、愛していた。
 でも、あれは僕の前に義姉が現れてから。
 幼かった僕は、自覚していなかったかも知れない。
 だけど、気持ちの変化は、薄々気がついていた。
 僕の兄に対する感情は、いつでも羨望以上のものではなかった。
 いつかは兄のようになりたい。兄のような優しさで、兄のような仕草をもって、兄のような声で語るのだ。
 僕の将来像は極めて簡単、且つ危険なものだった。
 危険な塔が、義姉の登場で音を立てて崩れだし、僕は目の前にあらわになった自らの羨望に、慌てていた。
 そう、そうだ。
 そんなとき。
 兄が僕の目の前から、永久に消え去った。

 不意に、風が。
 義姉の肩ごしに、鉄塔の赤いランプが上に二つ、下段にも二つあった。
 ランプはゆっくりと点灯を繰り返し、帯電し光を放ち続ける電線に一定のリズムを与えているようだった。
 義姉は、兄を見ていた。
 いま、この草深野で始まったことではない。以前から。僕の前に初めて現れたときから。
 僕が義姉をいくら見ても、義姉はいつも兄に微笑んでいた。
 甘えた声を出して、袖を引いても、彼女の心は兄を向いたままだった。
 だから兄の存在の消失で、僕は義姉がようやく僕の方を向いてくれると思った。
 今夜の義姉は、確実に僕のものだった。
 それだのに、兄がやってきた。
 この草深野で遊んでくれたのは兄だった。しろつめ草を編み、草笛を吹き、寝転がって雲を見ることを教えてくれたのは兄だった。
 その草深に、また今夜、兄は現れた。
 オーロラのようなマジックを見せつけて、僕にとうてい出来ないようなことを見せつけて、義姉を呼んだ。
 兄は狡いのだ。
 僕が持たないもの、知らないこと、そういうものをみんな持っている。
 でも、僕は怒るすべを知らなかった。誰に怒ればいいのかさえ、知らなかった。
 僕は兄を羨望するしかなかったのだ。
 兄は優しく懐かしい。
 そして、どこまでも、狡い。
 義姉が今また、兄に近づく。
 兄は僕がようやく手にしかけたものを、義姉を奪っていこうとする。
「お義姉さんっ」
 義姉はもはや、僕には返事をしない。
 返事は兄にしている。彼女を取り巻く光の渦に、彼女は微笑み、手を差し伸べていた。
「違うんだ、お義姉さん、僕は」
 そう。
 違う。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
 僕は兄が憎かったんじゃない。
「でも、でもっ」
 兄は狡い。
「行かないでっ」
 懐かしく、忌まわしい軌道の音。
 僕は振り返る。
 列車がパンタグラフで光を跳ね返しながら、真っ暗な駅を通過して行く。
 さっき乗ってきた列車は最終だった。
 なのに、真っ暗になった駅を、帯電した列車が通過していこうとする。
「違う、あれは僕のせいじゃない、信じて義姉さんっ」
 列車の光は増しながら僕に迫って来る。
「僕がやったんじゃない、兄さんは」
 僕がやったんじゃない。僕がやったんじゃないんだ。
 あれは、兄が狡いから。僕が憧れるしかすべを持たないから。
だから・・・そう、だから

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