どうして、絹子さんがよりによって姉ちゃんを選んだのかはわからない。だけど、亡くなった彼女がうちの姉ちゃんを自分のいわば「依代」みたいなものとして、とり憑いてしまったのは、信じがたいけれど事実だった。
俺が、そのことに気がついたのは先週、夏休みがおわって学校が久しぶりに始まった日だったけれど、どうやら当の姉ちゃんは気がついていないらしい。
今日も、絹子さんが「やってきて」いた。
絹子さんはまるで俺に会いに来るかのように、突然姉ちゃんにとり憑いて現れる。
「姉ちゃん?」
学校から帰ってきて、俺が控えめに呼びかけると、部屋にいた姉ちゃんはくるりとふりかえり、俺に向かって、見せたことがないような笑みで応えたから、(ああ、また絹子さんか)と思ったのだ。
「七恵くんね、おかえりなさい」
「あのなぁ、絹子さん、なんで姉ちゃんにとり憑いてるわけ?なんか、姉ちゃんなのに、姉ちゃんじゃない人と話してるのってすげぇ不自然でさぁ」
「だから言ったでしょう、わたし、とうさんに会いに来たの。そしたら、七恵くん、すごくとうさんに似てるじゃない?だから間違っちゃって」
彼女が「とうさん」と呼ぶのはいわゆる「父親」の意味ではなく、どうも彼女の恋人の呼び名(敏夫とか、東吉とか、そういう名前なのだろう)らしい。
「一日の日にね、久しぶりに会おうって約束したのに、よくわからないんだけども、会えなかったの。わたし、途中から記憶がなくって」
「記憶がないって、どういうことだよ」
「そんなこといわれても、よく覚えていないんだから、しょうがないじゃない。それにここ、とうさんと待ち合わせた場所のはずなのよ。そしたら、とうさんに良く似た七恵くんがいるじゃない?てっきりとうさん本人だと思って、会いに来ただけなんだから」
どういう事情が絹子さんにあったかは知らないけれど、とにかく俺のほうも休み明けの学校やら、じいさんの他界やなんやかんやで忙しかったから、相手にしてられないのだ。しかも、せっかちな姉におっとり口調の絹子さんはどうも調子が狂うのだ。
「でも、とうさん、どうしちゃったのかしら。冬になったら、実家の雪を見せてくれるって、約束してたのに、もう冬が来ちゃうじゃない」
そう言いながら、絹子さんは欠伸をしながら、俺にもたれかかってきた。
俺も抵抗せずに、そのまま姉の身体の絹子さんを受け止める。すると、絹子さんは同じようなことをむにゃむにゃ呟きながら、やがて眠ってしまうのだ。すぅっと寝息が一声聞こえたら、これで絹子さんは帰っていったということになる。
次の瞬間、むっくり起きあがって、
「七恵、なにしてんのよっ」
と、姉ちゃんが再び戻ってくるのだ。
今日も、姉ちゃんに変な誤解をされる前に、抱き留めていた身体から素早く離れた。
「あれぇ、わたし・・・・・・?」
背後、とぼけた姉ちゃんの声がする。
事情が判明し始めたのは、十二月も近づいた頃だった。
「確か、こう、地面が揺れるっていうか、地響きみたいなのを感じたのよね。それで、『ああ、久しぶりにとうさんに会えるからって昨日眠れなくって、寝不足だったのね』って思った途端、今度は目眩がして・・・・・・そこから記憶がないのよ」
じいさんの四十九日が終わった頃、絹子さんが思いだしたように言い始めた。
「だんだん思い出してきたんだ」
「そうそう、あの日わたし、寝坊して遅刻しちゃったのよ。眠れないって思ってたら、明け方に眠ってしまってね、それで寝坊。慌てて駅から走ってたのは覚えてるんだけど」
「で、待ち合わせ場所っていうのは?この近くにあるかもしれない」
ここに出続けられるのも困るから、俺がいうと、絹子さんは本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ミルクホールよ。わたしたち、いつもミルクホールで待ち合わせていたの」
みるくほーる?突然飛び出した時代錯誤な単語に俺の思考は、急ブレーキをかけられた。
「おいおい、絹子さん。いったいあんた、いつの時代に待ち合わせたんだよ」
「いつって、九月一日よ。弟があの日新学期だったから。年?確か、わたし二十歳だったから、大正十二年かしら」
「絹子さん、もしかして、あんた生まれたのって」
「わたしは明治三十六年八月十日生まれよ」
他界したじいさんが、確か明治三十四年生まれだったから、年がかわらないじゃないか。話が、俺の予想よりも遙かに遡るらしい。
そして、絹子さんが行ってしまって、自分の部屋に戻ってから、ふと考えた。
いや待てよ、と。
立ち上がって、歴史の教科書を広げる。
「やっぱり、大正一二年・・・・・・一九二三年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災だ。そうだったんだ、絹子さん、地震で亡くなってたんだよ」
彼女の感じた揺れは寝不足のせいなどではなく、地震だったんだ。そして、そこで何かに巻き込まれて亡くなってしまったから、記憶がそこでないんだろう。ところが、あの調子でとうさんに会いたいと思っているだから、こうやってかつてのミルクホールの近くのこの家に現れたのだ。
だけど、なんでこんな七十年以上経ってから、来たんだろう。
その疑問は晴れないまま、そして彼女に地震のことを話すのも忘れたまま、一ヶ月ほどが過ぎた。
じいさんの納骨は、本当は九月の四十九日にやりたかったけれど、じいさんの実家が実は東京ではなく、新潟にあるから遠いために冬休みを利用してすることにしていた。
久しぶりに来たじいさんの田舎はおりしも、西高東低の気圧配置のせいで、その雲からは白い雪がちらつき始めていた。
「そういえば、絹子さん、とうさんに雪、見せて貰うんだって約束してたんだっけな」
お経を聞きながら、俺はふと思い出した。姉ちゃんに憑いて、ここまで来られるんなら良かったのに、それは無理なのか、彼女は姿を現さない。
俺がそんなことを考えながらぼんやりしていると、母親にじいさんの位牌を持たされた。生来元気で、決して風邪も引かないのが自慢だったのに、じいさんは夏の暑さに紛れて、あっという間に逝ってしまった。いつもの面白くもない冗談すら、言う暇もなかった。若い頃は、何か大きいことをしてやるって力んで東京まで出たんだって、言ってたっけ。そんなじいさんが今は俺の手の中で小さくなっている。おもてに書かれた戒名を見てから、ふと裏を返した。
「杜山冬次郎・・・・・・『ふゆじろう』か。じいさんって冬生まれだったのかな」
じいさんの本名を俺が呼ぶことなんてそうなかったから、初めてそう思ったのだ。そこで、それを母さんに聞こうと思ったとき、
「そうそう、『とうじろう』さんはあんまり帰って来なさらなかったし」
親戚がじいさんのことについて話しているのが聞こえて、はっとした。
とうさんが、雪を見せてあげるって。久しぶりに郷里に帰るときに、お前も
連れて行ってやるって、言ってくれてたの。
嬉しそうに語る絹子さんの台詞が耳元でよみがえった。
「『とうさん』・・・・・・って『冬次郎』つまり、俺のじいさんのことだったのか」
考えてみると、絹子さんが最初俺がそのとうさんに似ていると言ったのだって合点が行く。そうだ、年齢だって、ちょうどぴったりじゃないか。
仕事を探しに東京に出た若き日のじいさん。絹子さんに出会って、恋に落ちて、そして雪を見せる約束をして。だけど、あの日、地震で絹子さんは死んでしまった。しばらく帰ることのなかった郷里の唯一(じいさんにとって)自慢できるものがこの雪だったのかもしれない。
俺はじいさんの位牌を見た。
絹子さんは、地震で死んでしまった。
でも、待っていたじいさんは生き残って、ばあさんと結婚して、母さんができた。
「おとうさんね、危篤になってからも、何度も何度も持ち直してね、そのたび『やり残したことがある』って云って笑うのよ。看病する方も大変だったわ」
夏の終わりの葬式のとき、母さんが冗談めかしてこう云っていたっけ。
じいさん、絹子さんに雪とか、このちいさな田舎のまちを見せたかったんだ。絹子さんが俺たちのところに来るのを知ってたのかわからない。けど、もしかして、待ってたのかな、ずっと。何十年も。だから、迂闊に逝ってしまえなくって、何度も三途の川を行ったり来たりしてたのかもしれない。
そんなことを考えて、俺は空を見上げた。大きな結晶のかたまりが、鉛色の空から生まれては重力に従って降り注ぐ。
じいさん、何も結局言わないまま逝っちまったけど、こんなことを胸に何十年も生きてたんだな。
なんだか、切なくなって、位牌をしっかり両手で抱いた。
「絹子さんも、来られたら良かったのにな」
「七恵くん、お帰りなさい」
絹子さんが来ている。
始まりは、若き日のじいさんと絹子さんが出会い、交わした約束。
じいさんの孫が、たまたま東京でじいさんがデートしていたミルクホールの近くに住んでいたのが、きっかけ。
「今日は冷え込むから、東京でも雪が降るらしいぞ」
そう言って、俺は絹子さんの肩を抱いた。すると絹子さんは、
「えっ、雪?」
「そうさ、俺が前に見せてやるって言っただろう?」
「そうね、約束だったものね、とうさん」
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