気動車が、徐々に進むにしたがって、両側に山の尾根が見えてきた。
小さな、無人駅を幾つか過ぎ、地元の中学生とおぼしき子たちが、ぽつぽつと乗り込んできた。
バスを二台連結したような列車内を、車掌さんはかけ巡り、無人駅から乗った乗客に切符を売っている。
そんな、当り前のような、妙にノスタルジックな光景を僕は、いつまでも飽きることなく眺めていた。
数年来すっかり忘れていた、故郷の盆地を走る列車をふっと、思いだした。
僕は長椅子に足を組んで腰掛け、ガラス窓に少し額を当てながら、まどろむ。ここのところ、殆ど下宿に戻っていないし、まともに寝た気がしない。
少々荒っぽい列車の揺れが、忘れかけていた眠りを教えてくれているような、そんな奇妙な幻覚を見た。
幻覚は光を帯びて形を次第にはっきりさせ、やがて、白いワンピースのシルエットになった。
身を乗り出して、窓の外の変わりゆく、しかし単調な風景に見入っている。
僕が病院から連れだしてしまった。
薬の匂いがしない、外の世界に。
もう、検温の必要もなくて、回診の医者もこない。
彼女が、今までの人生で、殆ど接することが出来なかった世界。
そして、僕らが普段、笑って、泣いて、暮らしている世界。
後ろめたさはあった。
越権行為だ。明らかに。
僕は、彼女に関して言えば、ただ雇われているだけの身で、彼女の身体を勝手にすることはできない。
だけど、後悔はしていなかった。
残された、切ないくらいの時間で、僕がしてあげられる、こと。
山がみたいのなら、山へ。
河がみたいのなら、河へ。
海がみたいのなら、海へ。
病院を、誰にも知られないように抜け出すのは、わけなかった。
彼女が山の樹を見たいといったから、山へ向かっている。
海も見たいというから、その後海へ行こう。
ただそれだけの話なのだ。
彼女に、してあげられることとは、つまり、そういうことだと判断したから。
僕に不安はなかった。
薬も僅かしか持ってきていないし、彼女はいつなん時、また倒れてしまうかわからない。
負担をかけるようなことは、極力避けなければ。
彼女が、『面会謝絶』なのは、どうしようもない事実なのだ。
だけど、僕に不安がなかったのは、もう確信していたから、彼女がここで発作を起こしてしまっても、彼女と僕の行動は決して間違っていなかったと。
一人よがりに、ちがいない。
でも、それでも、彼女が今日一日でも笑って過ごせるのなら構わないと思った。 彼女は不意には行ったトンネルに驚喜しながら、飽くことなく、外を眺めている。
きっと、もうすぐ渓谷につく。
タクシーを呼ぶのは、少し反則だったかも知れない。
だけど、夏の山道を彼女に歩かせるほど、無謀はいくら僕でも出来なかった。
キャンプ場のバンガロー前に留めてもらって、彼女を下ろすと、蝉が容赦なく鳴いていた。
梢を抜ける日差しを眩しげに、彼女は沢へと降りていく。
とった手は、驚くほど冷たく、頼りないものだった。
彼女は沢音に僕をすり抜け、かけ降りて行く。
そして、浅い淵に向かって手を伸ばして、浸していた。
小さな河魚が遊ぶ姿に気づけば、僕を振り向き、はしゃぎ回った。
やがて、彼女は瀬の音に魅かれるように、白いサンダルを脱ぎ、ワンピースの裾をたくし上げ、少し深い、陰った淵に足をそっと通した。
思ったより、水は冷たかったのだろう。
彼女は震えるような仕草を、わざわざ僕にみせた。
そして、僕にも水に入るように勧める。
けれど、僕はジーンズにスニーカー履きだったから、残念だけど遠慮して、手を水辺から透かしてみた。
透き通った水はすぐ上に垂れる木々の若緑に染まって、神秘的にきらめく。
彼女は同じように沢で遊ぶ子供と、何か話しては笑い、岩から岩へと河を遊んでいた。
水の匂いが、何とも言えず涼しくて、僕はハンカチを濡らして顔に乗せた。
首筋を伝う雫が、シャツの中まで流れていっても、それが良かった。
透かして、木漏れ日がさして、水分を奪おうともしない。
彼女の声が不意に僕の近くでして、僕が驚くと、彼女は微笑みながら、僕の袖を引いた。
水が気の遠くなるほど長いときをかけて、岩を削り、滑らかな水路を作っていた。
そんな岩を、彼女は身軽に越えて見せようとする。
僕はたまらなくなって、泣き笑いのような変な顔になってしまった。
岩肌に滑ってバランスを失った彼女をとっさに抱き留めようと手を伸ばすと、彼女は迷うことなく、僕の腕にすがりつき、僕を見上げて微笑む。
全ての信頼が、僕にあることを、この時悟った。
彼女は僕に全てを任せきっている。
僕はそれを拒否する気は全くなかった。
彼女の全てを受け止める勇気。
あのひとがいなければ、そういう勇気も起きなかっただろうし、彼女を病院から連れだそうなんて、考えもしなかっただろう。
小心者で、ちっぽけな僕に全てを与えてくれたのはあのひと。
まだ、この時僕は彼女に本当のことをみんな話してしまうべきか、迷っていたけれど、ふっとあのひとの影を感じた刹那、正直に、何もかも話せそうな気がした。
僕は確実に、あのひとに支えられているのだと、それはまた悪いことではない気がした。
彼女が僕のすぐ横で水と戯れながら、微笑み、僕も何か大きなものに支えられて、こうして彼女を見守っているのは、決して悪いことじゃない。
僕が捕まえた小さな川海老を、そっと逃がしてから、僕らは沢を後にして、またあの列車に揺られていた。
次は海だよ。
彼女は僕に寄りかかって、やすんでいる。
僕も、さすがに目を閉じ、機動を感じ、鼓動を感じていた。
列車は下ってゆく。容赦なく、ノスタルジアも乗せて、走る。
遠く、海の方向の向こうに稲妻が見えた。
いく筋も。
それは、また僕のまどろみの幻覚かも知れない。
だけど、稲光る雲は、あの時沢でみた雲に違いない。
僕はそう確信して、疑わなかった。
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