「優先席」(00年5月)
随分前の話だが、JRがいわゆるシルバーシートから優先席と名称を変更したという新聞を読んだ。ご老人以外にも席を譲られるべき人はいるのだから、というのが理由らしかったが、それを読んだとき、ひねくれ者のわたしが、「なるほど」と納得したのを覚えている。
ところで、「人」が「人」に対して「席を譲る」ということは、とても難しい。それは、実行が難しいという意味ではない。判断が難しい。
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ところが、それからまもなく、再び新聞で、この名称変更が逆効果だったという記事が載っていた。誰でも身に覚えがあると思うが、電車で席が空いていたとしても、それがシルバーシートだとなんとなく座りにくい。よく考えれば変な話ではあるけれども、そこには、「シルバーシートでは,老人が乗ってきたら必ず譲らなくてはいけない」という束縛があるからだ。本来なら灰色のシートだろうが、グリーンのシートだろうが、譲るべきという点は変わらないはずなのに。JRの名称変更は、こういった利用者の心理と行動に疑問を呈するところから、実行されたのかもしれない。しかし、「優先席」としたことは、狡い利用者にモラトリアムを与えてしまったらしく、席を譲らない人が増えてしまったのだという。
かくいう狡い利用者の一人たるわたしも、この現象について、気がついていないこともなかった。優先席に座ることは、シルバーシートに比べ、実に気が楽なのだ。
よく聞く話に、ご高齢者(と思われる人物)に席を譲ったところ、「まだ席を譲られるほど、歳はとってない」と拒否される話がある。自分自身、実際に、そこまではっきりいわれたわけではないが、譲った席を拒否されたことはある。
席を譲る行為の判断基準は、譲る人間の主観である。
譲られる側が、「譲って欲しい」と要求することはなかなかないし、それを表示することもあまりない(皆無ではないが)。
そこで、「この人は譲るべき」「この人は必要なし」の判断を自らの基準(あえて、良心とはいわない)に基づき、行わなくてはならないのである。
個人的な話をすると、先の一件以来、わたしはご高齢者の判断を、「杖を持っているか」や、「歩行が困難そうであるか」に置くことにしている。自身の祖父母が杖を持っているのだが、杖を持つ「決断」至るためには、相当の「勇気」が必要で、日常的に使用するようになるころには、かなり「歩行が困難」な状態になっていたからだ。祖父母は特殊なのかもしれないのだが。
しかし、これがシルバーシートではなく、優先席の場合、さらに判断が難しい。
「身体が不自由」とはいっても、立っている様子からは察することができないような「不自由」を抱えている可能性はある。
「妊婦」も、臨月が近ければ判断もしやすいが、初期のいたわらなければならない時期などは、判断しかねるに違いない。
自慢ではないが、わたしは結構大きな病気をした。原因がわからず、発熱とめまいに絶えながら、就職活動を続けていた。結局、原因不明のまま緊急入院のうえ緊急手術を行うことになったのだが、あのとき、席を譲られるべき立場だったのかもしれない。ところが、見た目は普通の(疲労している)若者である。当然、誰も譲らない。そんなことはハナから期待していなかったのだが、よくよく考えてみれば変な話なのかもしれない。
こんなこともあった。酷い風邪をひいて、熱もかなり高かったが、どうしても行かなくてはならない用事があって出たことがある。電車内で、ぐったりと立っていると、遠足らしい小学生の団体が乗り込んできた。引率の教師がそばにいたが、小学生らは大騒ぎの限りを尽す。それだけでもうんざりだった。ところが、わたしの前の席が空き、「さて、うるさくても寝てしまえば」などと思っていたところ、その引率教師が「こどもを座らせてくれ」と言う(というか、もうそのときには座らせていたが)。元気でうるさい児童と高熱の若者。どちらが座るべきか。このときは、席を譲る譲らないの話より、非常識な教師に腹がたったのだけれど。
席を譲るか否か。
ラッシュが続く限り、戦いも続く。
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