第2回能登半島地震被災者支援ボランティア報告

  連盟ボランティア担当 青山郁夫
活動日 2024年4月3日(水)〜4日(木)
活動場所 石川県七尾市(総社市取り組み)
参加者 Lやましな:青山郁夫 久子、右京:西村澄子、元右京:石田久夫
4月2日 山科駅11:15〜16:50七尾市野球場駐車場17:05〜17:25野球場ボランティアテント村でテント泊
4月3日曇り後雨 夜も本降り テント村8:02〜8:25七尾市ボラセン
郁夫 七尾市ボラセン10:23〜1軒目の被災者宅へ〜迷子になり被災者宅に行けず〜11:08,2軒目の被災者宅で被災品被災物積み込み11:32〜11:45仮仮置き場で積み降ろし12:01〜12:20七尾市ボラセン
久子西村石田 七尾市ボラセン9:30−−9:48仮仮置き場―被災品被災物の積み降ろし分別積み込み―仮仮置き場14:20〜14:38七尾市ボラセン
みんな揃って七尾市ボラセン14:57〜15:18野球場テント村
4月4日 晴れ 全員、仮仮置き場活動
野球場テント村7:41〜8:10七尾市ボラセン9:25〜9:44仮仮置き場―被災品被災物の積み降ろし分別積み込みー仮仮置き場14:20〜14:38七尾市ボラセン
七尾市ボラセン15:32〜16:11野球場駐車場16:54〜〜尼御前夕食〜22:15京都東IC〜22:42石田宅近く〜22:52西村宅近く〜23:32青山自宅(707km)
 今回は総社市が取り組んでいる七尾市野球場に設置されたボランティア村を利用しての活動でした。前回の様に金沢でホテルを利用しなくても野口健さん寄贈の100張りのテント村で泊まりました。テントはパレット、板、断熱材の上に設置され大きく高く広くとても良かったです。強い雨が降っていましたが何ら支障はありませんでした。野口さん、ありがとう。(何とこの日に健さんが奥さま娘さんと一緒に仮仮置き場に来られました。お話も少しだけできて良かったです。テントのお礼を伝えました)

今回の活動内容は 
@ 前回と同様の被災者宅から被災品被災物運び出し、仮仮置き場へ運搬、積み下ろし 
A 仮仮置き場で被災品被災物の積み降ろし、分別、積み込み
4月3日は青山:被災者宅活動 久子西村石田:仮仮置き場活動、4月4日は全員仮仮置き場活動を行いました。(両日共、全体で約100名の参加がありました)
 住宅街の被災者宅ではおじいちゃんが一人で待っておられました。家は大きな破損はありませんでしたが家の前に置かれていたスレートブロック、家具、家電製品を軽トラに積み込みました。きっと一人で1つ1つ、惜別の思いで家の中から運びだされたのでしょう。別れる時の「助かった、ありがとうね」の言葉が忘れられません。
 2日目はみんなと一緒に仮仮置き場で活動しました。仮仮置き場とは仮置き場が整理しやすいようにあらかじめ被災品被災物を仮仮置き場に集め12分類して仮置き場に持って行けるようにする場所です。仮置き場搬入不能品も区分します。

仮仮置き場では私は主に家具類の整理を行いました。古い家具、新しい家具、大きな家具とさまざまでした。家具はパッカー車に入れられるように分解して蝶番や金具は取り外して金属類に分別します。どれもが被災者が長年使って愛していた家具。大型ハンマーを振りかざす度に「ごめんね。ごねんなさいね」と口に出して力一杯家具の板を割りました。どの家具も泣いていました。とても可哀そうでした。
今回、仮仮置き場の活動が出来て良かったです。この様な仕事があることは今回初めて知りました。被災者と直接対面することは無いのですが復興支援でとても大切な裏方の仕事だと実感しました。これからも継続的に復興支援に行きたいと思います。

やましな:青山久子
七尾市だけでなく被災地のボランティアセンター(略してVC)には全国の社協の方が当番でスタッフとして私たちのようなボランティアがスムーズに支援に向かえるように事前の割り振りや当日の段取りなどに当たってくださっています。
活動初日はちょうど七尾市VCのスタッフも交代の時で近畿ブロックから応援に来られている社協の方々でした。お互い『初めまして』なのですが、オリエンテーションで説明をして下さった方のお話がとても心に残りました。曰く
・私たちが扱うのは被災の直前まで被災者と生活を共にしていたものであり、被災者の方が断腸の想いで依頼されたものであることに寄り添っていただきたい。
・仮仮置き場は被災者の方からお預かりした被災品を被災者の想いに寄り添いながら仮置き場で作業しているスタッフの負担を軽減するための重要な場所である。
・ご自分のボランティア経験を話される中で、過去にボランティアをされた方で3人亡くなられた方がおられる。ボランティアの事故は自身だけでなく依頼された被災者の心にも負担になるので、けが無く安全に活動して欲しい。そのためのボランティア保険であるので、けがをした際には報告をきちんとして欲しい。
私は、このメッセージに感銘して今回仮仮置き場での作業に携わりました。

右京:西村澄子
初めて参加しました。大変さがよく分かりました。

元右京:石田久夫
2日目に仮仮置き場の班長をさせてもらいました。班の人たちは一生懸命やってくれました。
地元の男性で73歳とおっしゃった方から「私より年上の人は今まで見ていない、どこから来てくれたの」と聞かれたので「京都から車で」と言いますと、深々と頭をさげておられました。最後の廃材が届きブルーシートをかぶせ、作業を終えて帰りがけに、軽トラから声が聞こえてきて「京都の先輩」とおっしゃって窓から握手を求めてきました。彼の眼には光るものがありました。私も手を握りしめて「頑張ってや」と言いながら熱いものが込み上げて来ました。「こんな事しかできないの、堪忍してや」と言いながら、帰りのバスに乗り込みました。
追伸、ご褒美がありました。登山家の野口健さんと一緒に作業ができた事、お願いして、ツーショット写真を撮っていただいた事です。

年に1回か2回でもボランティアに行ってみたい、ボランティアには行ったことがないが今回は行ってみたい、ボランティアには行きたいが一人で行くのは不安だ、是非とも現地に行って困っている人のお役に立ちたい等々とお思いの方はぜひ連盟のボランティアに応募して下さい。みんなで一緒に復興支援に行きましょう。

 野口健さん寄贈の100張のテント村
雨の中、帰ってきました。
お疲れ様。
仮仮置き場風景。ケルメットを被っていないのは健さん一家だけです。
「メットを被ってください」と言えなかった、あかんな
健さん、退所の挨拶




第1回能登半島地震被災者支援ボランティア報告

連盟ボランティア担当 青山郁夫
活動日 2024年2月14日(水)
活動場所 石川県志賀町笹波
参加者 Lやましな:青山郁夫 久子、西山:松野周治、元右京:石田久夫
元旦に発生した能登半島地震は石川県を初め各地に甚大な被害をもたらしました。 日々、報道される被災状況に募金だけでなく実際に現地に行って被災者のお役に立ちたいと常任理事会にボランティア募集を提案して現地に赴くことを考えました。
ボランティアは、ボランティアに参加する、参加したいと言う気持ちとそれに応じた時間的経費的な価値観がないと行けないと思います。やはり、その人の思いが一番大事だと思います。連盟ボランティア募集には私を含め6労山と元会員を合わせて9名の応募がありました。。半数がボランティアは初めての方です。
2月14日15日、石川県のボランティア募集に応募して4人で震度7があった志賀町に行って来ました。残念ながら15日は被災物品仮置き場の都合で中止となり1日だけの活動となりました。活動の詳細は松野さん、久子さんの報告を見て下さい。
かねてから地震で使えなくなった物を「ゴミ」と表現するのは被災者の心情からかけ離れているのではないかと抵抗感がありました。どう表現したら良いのか分かりませんでしたが実際に被災地を訪ねてこれらの品物を使っておられた方に接して「絶対に、これらはゴミなんかじゃやない」、思い出深い衣類や家具、電化製品は「被災品」であり、崩れてしまった壁などは「被災物」なんだと強く思いました。
年に1回か2回でもボランティアに行ってみたい、ボランティアには行ったことがないが今回は行ってみたい、ボランティアには行きたいが一人で行くのは不安だ、是非とも現地に行って困っている人のお役に立ちたい等々とお思いの方はぜひ連盟のボランティアに応募して下さい。みんなで一緒に現地に行きましょう。

能登大震災被災者支援活動(志賀町)に参加して
◎ 2024.2.16. 西山ハイキングクラブ 松野周治 
 2月13日夜9時半・京都出発、14日午前0時半・徳光PA着、車中泊。14日午前4時50分起床、前日に黒丸PAで購入したサラダ巻きとヨーグルトで朝食、開いていたデイリー・ヤマザキでフレッシュコーヒーと焼きたてのゴマパン。
5時50分、集合地点の石川県地場産業センターに向けて出発、6時20分到着。辺りはまだ暗く、我々が乗る志賀町行きのボランティアバスは到着していなかった。7時にセンター出発、金沢駅で多くのボランティアを載せ、大型バス1台、マイクロバス1台(団体参加の我々4名、連合石川5名、HAMAYA<金沢支店もある大手リサイクル企業>4名)で約70名が7時35分、活動地の志賀町に向け出発した。「のと里山海道」を北に向かって走り、9時15分頃、活動拠点・志賀町災害ボランティアセンターが置かれ、避難所ともなっている志賀町文化ホールに到着。登録、活動説明(全体、個別)、活動用の資材を受け取った後、センターの軽トラック(豊橋ナンバー)2台で10時頃、グーグルマップで読みこんだ笹波地区の一民家に向かった。ナビに従って北に約1時間走り民家に到着、依頼者の老夫婦の要望を聞きながら、内壁がはがれた台所などから、倒れた食器棚、冷蔵庫、タンス、TV、大小の家電などを搬出し、トラックの荷台に積みこんだ。しかし、作業前から庭にあった多数の袋詰めモルタルや、搬出した家具、壊れた食器などは、荷台のスペースから運ぶことができないまま、13時半に民家を出発、14時頃に災害廃棄物仮置き場の富来野球場到着、指定場所で荷下ろし後、14時半出発、決められた帰着時間の2分前、14時58分に志賀町ボランティアセンターに戻った。活動報告提出後、全員が揃うのを待って16時前にセンターを出発、17時前、金沢出発地に戻り、約10時間の活動を終了した。
阪神淡路大震災(電車の終点だった芦屋での支援物資配布作業)、東日本大震災(一関などから車で移動、陸前高田経済復興支援など)に続いての震災ボランティア活動であった。今回は「災害ごみの片づけ、運搬等」であり、車中泊後の1日目の力作業にどれだけ貢献できるか若干の不安があったものの、リーダーの青山さんの的確な指示、奥さんと交代並びに分担しながらの運転、石田さんの見事なロープワークなどに助けられ、水道も未復旧、すでに1ヶ月半の避難所生活が続いている依頼者の希望にこたえることができた。できることなら2日目も同じ家で作業を継続し完了させたかったものの、次つぎと廃棄物仮置き場に入ってくるトラックの中でも最も多い運搬量の部類に入っていたように思う。活動の機会を与えてくれた連盟、ボランティア登録から現地との連絡など活動の中心を担っていただいた青山さん、奥さん、仲間の石田さん、現地のセンターを運営し、活動を組織する多くの皆さん(堺市社会福祉協議会の上着を着た京都に住む青年も)に心から感謝する。
作業地の笹波地区は海岸沿いの高台、輪島市との境にあり、震源地に最も近く位置していた。金沢市から内灘町、かほく市、羽咋市を過ぎて志賀町に入ると徐々に屋根のブルーシートが目につくようになった。しかしそれは序の口であり、センターを出発してさらに北上、作業地に近づくにつれて道路、建物の被害は増し、依頼者のお宅に入って震度7の威力を目のあたりにした。「家の再建は無理、更地にするしかない」と、依頼者は石田さんに言っていたとのことである。隣家も大きく傾き、住める状況ではなかった。
阪神淡路、東日本と同じ最大震度7であっても、過疎、高齢化が進む地域での直下型地震がもたらした被害は異なり、人々の暮らしと地域の再建は容易ではない。海と山、それを人々が生かし、暮らしを豊かにし、文化を育んできた日本は地震による被害をまぬがれることはできない。景勝地能登金剛の上に立つ笹波地区をはじめ、能登半島は地域外の人々を引き付けてきた。50年あまり前、大学院受験不合格発表当日、1人で能登を旅した。どこをどのように周ったかはっきりしないが、輪島の旅館で目にした御陣乗太鼓の迫力は今も覚えている。もう1年勉強し、再受験することを決めた。能登の復興を心から願っている。

◎ やましな山の会 青山 久子
 今回能登半島地震復興支援に参加をさせていただいたのは、担うべき仕事もなく、日々つつがなく過ごしている今の私にできる唯一の社会貢献です。時間的制約も心配することなく、体力的にもまだお役に立てることができると思い立ちました。
参加して感じたことは、まず『毎日テレビで報道されている状況を見ていただけ』と『実際に行って見た』とでは大違いということです。
金沢市内の地場産業復興センターを観光バスとマイクロバスで出発し、のと里山海道を北上して志賀町ボランティアセンター、そこから軽トラで山を越えて海沿いの支援先の笹波地区に入るにつれて、被害の大きさを目の当たりにしました。
 震源地に近づくにつれ、道路の歪み具合や亀裂の深さや幅の大きさもひどくなっていきますし、道路沿いの塀や電柱の倒れ方もきつくなっていきます。屋根を覆うブルーシートの数も増えていきますし、家屋の傾き方も笹波地区に入ると元の姿をとどめない箇所が増えてきました。連続して飛び込んでくる景色に地震が引き起こした1シーンではなく、これから続く長い道のりを現在進行形で感じました。
 次にボランティア活動は自己責任であるということを肝に銘じました。
志賀町ボランティアセンターに集まったのは個人、団体含めて70名程でした。その中で、センターの方の『この中でミッションの軽トラを運転できる方6名、お願いします。』の声掛けにすかさず応じる人。皆さん手弁当で軽トラやマイクロバスに分乗して支援先に向かいます。
私たち4名も1団体として笹波地区で依頼のあった支援先に出向きました。
2名1組でミッションの軽トラに乗りハンドルを握った瞬間、道中の事故は絶対に起こしていけないと緊張が走りました。携帯電話のグーグルマップのナビを頼りに初めての道、しかも途中至る所に修復の痕が見られるガタガタ道を進んでいきます。
支援先のお宅は今回が初回の訪問で、手付かずの状態でした。家の中は大きな家具が複雑に折り重なって倒れており、壁も剥がれ落ち、床は至る所にガラスの破片が落ちていて足の踏み場もない状況でした。よくこの中で依頼主の老夫婦おふたりともけがなくご無事でいてくださったことと思います。
庭には20以上のビニール袋に壁のスレート材が集められていました。きっと老夫婦が避難所から毎日家に来て少しずつ家の中の瓦礫を拾い集められたのでしょう。
私たちは依頼主の希望に添って食堂の食器棚や居間の和ダンスなどを外に運び出しましたが、棚から出てくる食器の数々、洋服の1枚1枚にそれぞれ想い出や生活があったことを思うと、手荒には始末できないと感じました。
 軽トラ1台に家具、1台に冷凍冷蔵庫やテレビなどの家電を目いっぱい積んだところでちょうどメンバーの一人が荷造りのロープワークを知っておられたので、積んだ家具類をしっかりと固定することができました。トラックがバウンドする度に荷崩れしないかヒヤヒヤしましたが、被災物品仮置き場まで運ぶことができました。作業中も移動中もボランティア活動は自己責任であるという意識で頭はいっぱいでした。
 3つ目は『継続は力なり』です。今回は受け入れ先の被災物品仮置き場の調整のため一日しか活動できませんでしたが、能登半島地震復興支援は始まったばかりです。これからも微力ではありますが、能登半島地震で被災された方々の心に寄り添って息の長い支援をしていきたいと思います。
今回の体験を決して忘れないこと。思い続けること。思いを行動に移すこと。これを約束します。
 最後に今回ご一緒した西山の松野さん、走行中のナビ、ありがとうございました。的確な判断で安心して運転、活動することができました。
元右京の石田さん、人情の厚いお人柄と楽しいお話、心に残りました。石田さんのロープワークは救世主です。
郁夫さん、実行までの段取りを実に細かく考え、いろいろと整えてくれてありがとうございます。これを次につなげていきましょう。

ボランティアは物見遊山ではありません。被災地では写真撮影は禁止されています。
被災者のお宅から遠く離れた所で写しました。左の軽トラには冷蔵庫を初め家電製品が一杯。右の軽トラには石田さんが輸送結びをした家具類が一杯積まれています。
きっと、どれも被災者の方が愛して使っていた品物、思い出深い品物で家から運び出される時は淋しかったと思います。この後、被災物品の仮置き場に向かいました。



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