東日本大震災関連

京都労山第一次救援隊の報告(石巻の救援宅へ向かう途中の市内の様子)

東日本大震災救援ボランティアに参加して(西山HC 林 謙佐郎)

 京都労山の石巻労山被災会員への救援ボランティア参加呼びかけに応募して、京都を4月20日夜に車で出発、26日朝帰京で中村会長を含む3名で、実働4日間の救援活動に参加しました。
 被災会員宅4ヶ所で、瓦礫の片付け、ヘドロの除去などを宮城労山石巻労山会員と共に行ないました。このヘドロの除去は想像していた以上の重労働で、海岸の製油所から流出したアスファルトや重油分を含んだヘドロで重く、粘りがあり、独特の臭気があり、長靴を取られそうになりながらスコップでの除去、一輪車で運搬、土嚢詰め、冠水家具や生活用具の片付けなど、泥まみれでしかも3日間は降雨の中での作業となり後半はバテ気味でした。
 満開の桜と大災害の爪跡のあまりにもミスマッチに心が痛みました。現地では地震による直接被害は殆ど見かけず、圧倒的な津波による災害で、建物が根こそぎない無人の荒野、全壊、半壊の家屋、道路脇に瓦礫が積み上げられた街並、被害が全くない地域、その対比が際立つた様子でした。
 震災後40日余りが過ぎ、インフラや生活物資が行渡り始めても、ごみ、ヘドロの除去にはまだまだ人手が必要です。ボランティア基地には全国からの救援ボランティアの車輌が並び、テント村が出来、少しでも被災者に手助けとの思いが溢れていました。復興にはまだまだ時間が必要で、息の長い支援が必要でしょう。
 復興を信じて、ガンバレ、東北、石巻
   

第一次隊として、いってきました!石巻へ
町が丸ごとない!  救援物資の山々山!(明峯労山 花折敬司)

 3月11日、テレビでほぼリアルタイムで報道されていた津波の状況。これはとんでもない大変なことが起こったと誰もが思った。今、何もしていない私に何が出来るのか。当初は義援金を出すことぐらいしかなかった。しかし、現地が受け入れ可能になったらボランティアに行こうと決めていた。それを連れ合いが連盟に伝え、すぐに連盟として対応してくれ、今回の派遣となった。
 4月20日夜、集められた支援物資を車に積み込んだ。車体がぐっと下がる重さだ。緊急だったにもかかわらず、私の車に積みこみきれないほど集まり、残りは送ることに。そして、「東日本大震災 京都連盟第一次支援隊」として出発した。隊長を西山の中村氏とし、隊員は同じく西山の林氏、それに私、明峯の花折の3人である。
21日昼前に宮城県へ入り、仙台を通過。高速道路から仙台の海側を見てまずびっくり。ここは町だったのか、それとも田んぼ畑?一面流されてきたものでうめ尽くされている。午後現地着。津波被害をうけていない地域はかなり回復している。イオンも営業開始している。ボランティアセンターとなっている専修大学で宮城県連盟の植山さん、扇さんと合流して、物資を届けるべく石巻労山の岡さん宅へ行く。ここは山に近く、地震の影響が多少あるものの、被害は軽微。早速、京都から持って来た物資を倉庫へ運び込む。たくさんあり、感謝される。
続いて石巻市街へ戻り、植山さん達の案内で津波の状況を見るべく日和山へ上がった。途中、街中を通ると、道の周りは水につかって使用不能になった生活物資が町中に積み上げられている。これが津波かとまず感じた。日和山から眺める街は悲惨な状況であった。テレビでも何回も流されていたあの「石巻市民病院」が目の前にあるが、周りは壊滅状態。旧北上川側へ回ると、そこも「石ノ森万画館」が残るのみで、何もない。この悲惨な状況に言葉も出ない。目の下に見えるこの場所で何千人もの方が一瞬の内に亡くなったのかと思って、思わず手を合わせる。
京都から積んできた物資を降ろしてます 救援宅の作業の様子(1)

 22日、ボランティア活動初日。一階が床上1m浸かったという三浦さん宅へ。100坪程の駐車場を営んでおられるが、ヘドロが10cm程溜まってまるで泥田状態。これを取り除く作業が今日の仕事だ。このようなもの1日で終わるのかと思ったが、人海戦術の力はすごい。我々と石巻労山、宮城県連の人達総勢10名でかかるとどんどん作業が進み、午前中にほぼ取り除くことが出来た。午後は、倒れたブロック塀を壊して取り除いたり、屋敷の周りのヘドロ取り。全てはとても1日では終わらない。3時に終了して、後片付け後「今から温泉に行きましょう。」「えっ温泉があるんですか?」何と道の駅にある温泉も再開していたのだ。中には食堂もある。この後、毎日ここに通うことになる。

 23日、10数人が2箇所に分かれ、我々は2階まで浸かったという田中さん宅へ。家財はほぼ全滅。かろうじて2階にあったものの一部が残るのみ。ここで住むのはあきらめて必要なもののみ持ち出すとのことで、我々に出来ることは限られていて、1時間ほどで終了。すぐにもう一つの菊池さん宅に移動。途中、一昨日に見た市民病院のあるエリアを通る。兎に角凄い。全てが飲み込まれ、ところどころにかろうじて家が残っている所もあるが、何もないという表現がぴったりだ。言葉が出ない。言葉は良くないがまるで原爆を落とされたような惨状だ。
菊池さん宅でもヘドロ取りが主な作業となる。やはり人海戦術で午後早くにすべて終了し、再び三浦さん宅へ行き、昨日の作業の続きをやって終了。
今晩は岡さんの地域の公民館で、急遽、石巻労山、宮城県連盟の人達との交流会を持ってくれることになり、30分ほどかけて移動。そこへ秋田さん達滋賀県連盟の方々も合流。大変な中でも有意義な交流会となった。石巻労山の会長は水道局の仕事で、震災後今まで休みなしとのこと。それでもここに駆けつけてくれた。水道施設を見に回る途中で何体もの遺体を見たと、生々しいお話を聞いた。

 24日、床上1m浸水の中里さん宅へ。ここでもやはり畑や庭のヘドロ取りと、家の周りの洗浄。水に浸かっていた庭木にはゴミや泥がへばりついている。1日かけて全て終了した。宮城県連盟の方々が多数駆け付けてきて、総勢25名ほどとなり、作業がはかどった。
救援宅の作業の様子(2) 一緒に作業した仲間と一緒に

 25日、予定されていた作業が早く終わったので、三度目の三浦さん宅へ。仙台の一つの会からバスで10名ほどが駆けつけてくれる。家の周りの洗浄と、小屋や庭のヘドロ取り。昼食後ににわかに雷が鳴り、雨が強く降ってきたのでここまでとする。

 4日間の作業を無事終えて、温泉で汗を流した後、夜を徹して京都まで帰って来た。26日3時前着。
<4日間のボランティアを終えて>まず、日本の中なのに情報不足である。石巻でも被災の被害の少なかった所では、かなりライフラインは回復している。我々は日常生活に必要なものは相当不足しているのだろうと想像して、全ての食料から飲料水まで持っていったが、ほとんど残ってしまった。日本の中でもこれだから、外国で風評が立つのはやむを得ない面もあるのだろう。ここは原発の影響は全くないこともあって、前を向いて活動を始めた人が多くいた。避難所を見てはいないが、家を失った方々は今後いつになったら今までの生活を取り戻せることが出来るのだろう。被災された方々と、被害の少なかった人たちが同じ地域でこれからどのように.関わっていくのか、難しい面も出てくるのではないだろうか。

 原発問題が無ければ、福島でももっと早く復旧がなされるであろうことを考えると、やはりこれは大変な問題である。エネルギー問題としての原発を今すぐ廃棄することは出来ないにしても、もっともっと自然エネルギーをどう活用するかを世界全体で考えていかなければならない。今日の快適な生活とエネルギー問題、今後の大きな問題である。
 石巻専修大学がボランティアにキャンパスを開放してくれているが、ありがたいことだ。また、広い運動公園があり、そこが自衛隊や消防関係のキャンプ地となっていた。自衛隊の存在感が大きく、自衛隊に対する考え方はいろいろあるが、もし今回、この様な組織がなかったらどうなっただろうと考えた時、我々の考え方の基準のようなものを再考することが必要だろうと感じた。福島の原発も含めて、仕事とはいえ隊員の献身的な行動そのものは評価しなければならない。
   


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