ハイキング委員会山行

山城 海住山寺〜三上山 473m

日 時 2012年11月18日(晴れ)
参加者 乙訓1名、右京1名、洛中2名、左京1名、やましな2名、伏見2名、らくなん1名
田辺25名               合計35名
コースタイム JR加茂駅9:10集合(準備体操)9:25出発 → 恭仁宮跡10:45 → 海住山寺11:20着11:30出発 → 三上山12:10着(昼食)12:40出発 → 湧出宮14:30 JR棚倉駅(解散)
報 告 田辺山友会 平尾 繁和
三上山頂上展望台にて 前日朝から降り続いた雨もあがり、予報通りの晴天で迎えた田辺山友会担当の労山ハイキング委員会第3回山行。労山各会から10人(乙訓山の会1、右京労山1、洛中労山2、左京労山1、やましな山の会2、伏見山の会2、らくなん山の会1)と山友会から25人、総勢35人の大勢の参加をえて無事終了できました。
 9時10分JR加茂駅に集合し、体操をしたあと班分けはせず一団で出発。恭仁大橋たもとの歌碑をみてから、田んぼの中をいきました。田の脇の水路には亀がいたり、柿がほどよく色づいていたり、晩秋から初冬の小春日和の気持ちのよいハイキング。右手にコスモスが見えてくると恭仁宮・山城国分寺跡につき、礎石をみてトイレ休憩。ソバ畑の横をとおり、海住山寺へ向かう。下見と違うコースを通り寺正面へでる急な車道を上った。
 海住山寺は、紅葉がまさに見頃で、本堂や五重塔と陽光を浴び照り輝く紅葉が楽しめた。一山を越え山城森林公園の道路に入る。途中靴底がはがれた人がでて、テープで応急処置をしたあと、冒険の道から山頂をめざした。頂上には12時頃到着、展望台の階段に座ってもらい記念撮影、12時40分まで30分の昼食タイム。少し雲がでて風が強くなってきて、寒さをこらえ昼食、予定時間になってすぐに下山にかかる。下山時、車道にでてから下見した尾根筋への入口がはっきりせず、結局「かいがけの道」の案内表示の道をくだった。(かいがけの道は、「峡崖の道」と書くのでしょうか?交野古道に同名の道があります) 結果的には、予定していた尾根をくだっていて正解。
 山道には、コシアブラ(葉は5枚1セット掌状複葉)やタカノツメ(3枚1セット)の黄葉した落葉が目に付いた。下見の時あちこちに落ちていた鮮やかなグリーンのヤママユの蛹の殻も色あせて落ちていた。予定より1時間ほど早く、14時30分頃棚倉駅前の湧出宮に到着。
 山友会会長・ハイキング委員長のあいさつのあと、各労山からの参加者の自己紹介をし、解散。その後山友会の女性からお茶がふるまわれ、みなさんほっこりされていました。歴史の道なのでみなさんに説明をしようといっていたのですが、できなかったので木津川市のパンフ等をもとに書き添えますので参考にしてください。

1 恭仁大橋たもとの歌碑
 ・右岸 万葉歌人 大伴家持の歌
   「今造る 久邇の都は山川の さやけき見れば うべしらすらし」    
・左岸 百人一首にある中納言兼輔の歌(新古今集)
   「みかのはら わきて流るる泉川 いつみきとてか 恋しかるらん」      

2 恭仁宮跡
 天平12年(740)聖武天皇が、瓶原の地を新しい都と定め平城京から遷都。天平17年(745)の難波宮遷都となるまで足かけ5年ほど、都が置かれた。ここから「国分寺・国分尼寺建立」「墾田永代私財法」「大仏建立」の三つの詔が出された。大極殿跡の基壇が残り国史跡に指定されている。11/21の朝日新聞には、役所建物跡(朝堂院)が初めて見つかったという記事がでていた。

3 山背国分寺跡
 恭仁宮が廃都後、山背国分寺として生まれ変わり大極殿が金堂として使用された。七重塔跡の巨大な礎石(15個)が土壇の上に残る。

4 海住山寺(かいじゅうせんじ)
 天平7年(735)に聖武天皇が東大寺大仏造立工事の無事を祈るため勅願、東大寺の僧良弁が創建したと伝わる寺院(法相宗から現在は真言宗)。本尊の十一面観音、文殊堂ほか重要文化財。鎌倉時代の傑作とされる五重塔(国宝)は国宝・重要文化財の塔のうち室生寺に次いで小さい。初層内部に心柱がないのと、最下層の屋根下に法隆寺五重塔と同じ裳階と呼ぶ庇状構造物があるのが特徴。
※当日通りませんでしたが、恭仁宮跡から海住山寺に行く途中にある2つの構造物

5 大井手用水
 貞応元年(1222)海住山寺の上人が、水不足で苦労している瓶原の住民をみて、東方の和束川から水を引く用水路の建設を計画。20余年の歳月を費やし延長6,759mの用水路を完成させた。このおかげで米の収穫量が大幅に増えたという。

6 デ・レーケ堰堤
 明治初期の三上山は奈良時代からの平城京造営や大寺院の建築など大量の材木の切り出しで、はげ山になり大きな災害の要因となっていた。政府の招聘で明治6年来日したオランダ人技師デ・レーケが治山事業をすすめるとともに、この地に日本で最初の近代石積堰堤を築いた。その後日本各地で近代砂防の工事を普及した。


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