<教会報「翼」2021年 4月号 巻頭言>

 

『心地よい風』  金耀翰 牧師

 来月(5月23日)、多くのキリストの教会は、「ペンテコステ(聖霊 降誕日)」を記念する主日を迎えます。ペンテコステは、「五十番目」を意味するギリシア語に由来する名称です。今月、教会はイースター 復活日 を祝いますが、ペンテコステは、主イエスが復活された日から、数えて五十日目に起こった出来事を記念しています。聖書は、この日、主イエスの弟子たちに聖霊が降ったと語り ます。聖霊に満たされた弟子たちの言葉を聞き、多くの人々が主イエスを信じて、弟子たちの群れに加わります。こうして、神さまを礼拝する共同体 教会 が誕生しました〔使徒言行録第2章〕。教会とは、物理的な建物ではなく、神さまを礼拝する者たちの集まりを指すのです。
 復活された主イエスの昇天後、主イエスに従った者たちは共に集い、祈りを中心とする生活を送りました。ある時は、百二十名もの人々が集うこともあり ました。しかし、その集いは、まだ教会ではなかったのです。旧約聖書には、神さまが人間を造られた時、まず土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き込 まれた、と記されています。こうして人間は命を得、生きる者となりました。主イエスの元に集う者たちも同じです。神さまが聖霊を吹き込んでくださるの で、その集まりは命を得、生きる者とされるのです。聖霊が、神さまとの交わりを可能とし、礼拝をささげる教会を起こします。私たちは、主イエスを信じ る者たちが集まって一つの群れとなれば、それが教会だと考えます。共に集まって祈り、賛美をささげれば、それが礼拝だと考えます。しかし、聖書が告げ ていることは、そうではないということです。それだけでは、まことの礼拝とはならないし、まことの礼拝のない集まりは、教会とはならないのです。言い 換えるならば、人間が集まって作った集団を教会とは呼ばないし、人間が神に呼び掛けるだけでは礼拝とはならない、ということです。教会が誕生し、まこ との礼拝がささげられるためには、神さまが送ってくださる聖霊の働きが不可欠なのです。礼拝を起こすのは人間ではなく、聖霊であるとういことです。
 ペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちの語る言葉を聞き、聖霊の働きによって、多くの人々が主イエスを救い主として告白し、教会に加わりまし た。聖霊が起こすのは礼拝であり、神を礼拝する者たちの集まりが教会です。そして、その者たちを起こすは、聖霊に満たされた神のみ言葉なのです。まこ とのキリストの教会には、かつて弟子たちが、聖霊に満たされて語った命のみ言葉が、今も礼拝の中で語られ続けています。五月の季節の言葉に、「心地よ い風が吹き抜ける立夏の候」とうい表現がありますが、教会の中に、み言葉と共に働く聖霊が、心地よい風となって吹き抜けています。この風に触れる時、 あなたは本当に生きる者とされ、人生の心地よさを知るのです。主イエスは約束してくださいました、
「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」 ルカ福音書 第11章13節
 なによりも、聖霊を求める集まりでありたいと願わされます。心地よい聖霊の風が吹き抜けるキリストのからだとなりますよう…。