<教会報「翼」2021年 1月号 巻頭言>

 

恐れるな』 金耀翰 牧師
 イザヤ書第41章8〜10節

 神の民であるイスラエルは、大国新バビロニアによって滅ぼされ、生き 残った人々の大半はその首都バビロンに強制移住させられ捕囚となりました。「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」(40 章27節)と嘆いているように、民族存亡の危機の中で、神から見捨てられたことに対する恐れが彼らを包みました。この希望の見えない絶望の中に、主な る神さまのみ言葉が響きます、
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」
恐れることのない根拠は、神が共にいてくださることです。天地万物を造られ、世界を支配しておらえる神さまが、わたしがあなたたちと共にい て、助け、支えると約束してくださっています。主なる神は、イスラエルを「わたしの僕」と呼ばれました。僕は主人に仕える義務がありますが、主人は自 分の僕を保護し、守る義務がありました。イスラエルよ、あなたたちはわたしの僕だ、わたしが選んだ者たちだ、わたしがあなたたちを見捨てることはな い、わたしが必ず守る、神さまはそう語っておられるのです。ここで注目したいことは、神さまがイスラエルを「救い(勝利)の右の手」で支えると言われ ていることです。

  マルコによる福音書第1章には、主イエスが熱病で床についていたシモンのしゅうとめを癒されたとう出来事が記されています。この時、主イエスは、苦し みの中で起き上がることのできないシモンのしゅうとめに自ら近づかれ、その手を取って起こされたのです。この「起こす」とは、主イエスが死から復活さ れた「復活する」と同じ言葉です。主イエスの復活は、死に対する、つまり、私たちに罪を犯させ、私たちを神さまから引き離す力に対する勝利です。この 勝利は私たちの救いです。なぜなら、罪故に永遠の滅びに定められた私たちが、主イエスを信じ、その復活の命を与えられることによって、その滅びを免れ ることができるからです。イスラエルを支える主なる神さまの「救い(勝利)の右の手」は、主イエス・キリストによって私たちにも与られています。主な る神さまは主イエスを通して、罪に苦しみ、死を恐れる私たちに、恐れることはない、私が共にいる、と私たちの手をとり、その救い(勝利)の右の手で触 れてくださるのです。
 起こされたシモンのしゅうとめが主イエスとその弟子たちをもてなしました。この「もてなす」とは、「仕える」と同じ言葉です。主なる神さまの救いの (勝利)の手に触れらえた者は、神さまに仕える者へと変えられていくのです。その者こそ、神の僕です。主なる神さまの庇護のもとに生き、まことの主人 に仕える生き方、神さまとの交わりが「復活」するのです。あなたはわたしの僕だ、神さは私たちに近づいて来られ、そう語ってくださっています。私たち を永遠の滅びから救い出してくださったお方が、その僕である私たちを決して見放さず、助け、支えてくださいます。この地上にどのような困難があろう と、神の僕とされた私たちは、恐れることはないのです、主なる神さまが私たちの保護者なのですから。