<教会報「翼」2020年 8月号 巻頭言>

 

『復活の主と出会う場所』 金耀翰 牧師
 ルカ福音書 第24章13〜35節
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、そ の姿は見えなくなった」。

 主イエスが復活された日の昼間、二人の弟子たちが、エルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。そこに、復活なさった主イエスが近付いてき て一緒に歩いていかれました。しかし「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。彼らの目が遮られていたのは、主イエスの復活を信じ ていなかったからです。彼らは、主イエスを失った失望と落胆の中で、エルサレムを離れようとしているのです。主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍 く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と語り、聖書の解き明かしをしてくださいました。そして、その晩、主イエスが「パンを取り、賛美の 祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」時、二人の目が開け、それが主イエスであることが分かりました。
 主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスと共に食事の席に着き、主イエスが分け与えて下さるパンをいただき、食する、その体験の中で与えられます。私た ちの信仰は頭や心の中だけの事柄ではなくて、むしろこの体をもって味わい、体験していくものなのです。主イエスの復活という奇跡も、頭の中で考えているだ けではいつまでたっても本当に分かり、信じることはできません。生きておられる主イエスとの出会いと交わりの中で、それを信じることができるのです。主イ エスが招き、分け与えて下さる食事、それは教会の礼拝において行われる聖餐を意味しています。「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになっ た」という主イエスのお姿は、十字架につけられる前の晩のいわゆる最後の晩餐においてパンを裂いて弟子たちに分け与え、「これは、あなたがたのために与え られるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃった主イエスのお姿を思い起こさせます。これが、礼拝の中で行われる聖餐の 起源となりました。聖餐において私たちは、主イエスが招き、分け与えて下さる食事に与るのです。そしてそこで、復活して今も生きておられる主イエスとの出 会いと交わりを体験するのです。
 聖餐は、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを実現して下さったことを覚え、その恵みに与る食事です。イースターの日にこ の二人の弟子たちが体験した出来事を通して、それは復活して今も生きておられる主イエスとの出会いの場ともなりました。しかし、この食事が復活した主イエ スとの出会いの場となるためには、備えが必要でした。主イエスご自身が聖書を説き明かして下さったこと、つまり説教を聞いたことがその備えとなったので す。そのことを振り返って彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いまし た。聖書の説き明かしによって心が燃える体験をすること、言い換えれば、聖書の言葉が自分に対する神さまからの語りかけとして響いてくること、それが、主 の招いて下さる食卓における主イエスとの出会いへの備えとなったのです。説教と聖餐が結び合わされる礼拝は、生きておられる主との出会いの場です。この場 所において、復活して生きておられる主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯が与えられるのです。