<教会報「翼」8月号 巻頭言>

「主のご意志」  金 耀翰 牧師

「神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。」

出エジプト記 第三章一四節

 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」、主なる神さまは言われました。この神さまの召しに対してモーセは答えます、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。この言葉にモーセの不安が伺えます。彼はかつて、奴隷であるへブル人を打ち叩いていたエジプト人を殴り、殺害しました。ファラオ(エジプト王)の娘に拾われ、王族として大切に育てられたモーセですが、彼は自分がイスラエル人であることを知り、苦しめられている同胞を助けたかったのでしょう。しかし、同胞であるはずのイスラエルの人々は彼を受け入れませんでした。モーセは挫折し、エジプトから逃れ、ミデヤンの地に辿り着いたのです。ですから、彼は自分の無力さを知っていますし、いまさら同胞のもとへ出向いて、神さまから遣わされたと言ったところで、彼らに信じてもらえるはずがない、そう思っているのです。

このモーセの不安に対して、主なる神さまはご自分の名を示されます、「わたしは、有って有る者」。名前を知ることは、相手のことを分かるために欠かすことのできない要素です。主なる神さまはご自分の名を示されることによって、イスラエルの祖先たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の神であるご自身が、いまなお、イスラエルと人格的な関係を結び、交わってくださることを示されるのです。

「わたしは、有って有る者」、ここに「有る(存在する)」という言葉が二度繰り返されます。これは、神さまの存在を強調しているのではありません。この「有る」という言葉は、動的な、意志的な意味を持っています。神さまはここで、「私は存在するのだ」と言っておられるのではなく、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」、つまり、「私は意志をもって行動し、その意志を実現する」と言っておられるのです。主なる神さまのご意志、それはイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、約束の地カナンへと導き出すことです。主なる神さまの名は、この救いのみ業の開始を告げるのです。

私共がキリスト者となることにおいても、これと同じことが起ります。私共がまことにキリスト者とされるのは、神さまがご自身の名を示し、共におられ、私共の人生と具体的に関わってくださるからです。私共一人一人をご自分のものとして背負い、苦しみ()から救ってくださる、これが主なる神さまのご意志です。主なる神さまは、すでに、私共にご自身の名を示してくださっています。その名は、「主イエス・キリスト」。神さまの独り子、主イエス・キリストの十字架の死と復活が私共の罪を贖い、神の民としての新しい歩みを与えるのです。