「良きおとずれを告げる足」 小 林 重 昭

    -小林重昭・恒子師夫妻退職記念礼拝

 

「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか、『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」。

ローマ一〇章14、15節

                    

 桜の花が満開となりました。自然界は一面春です。お変わりございませんか。被災地の皆様の為、続いてお祈り致します。

私たちは、47年(重昭)、45年(恒子)の伝道生涯を終え、3月31日退職しました。長い間、背後にあって、祈り、お支え下さったことを心から感謝申し上げます。

川崎ホーリネス教会は、3月31日()「退職記念礼拝」を、持ちました。

現役最後の御用として、私はローマ一〇章15節を開きました。これは、私の献身のみ言葉です。「『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」。今から53年前の3月頃、神様が献身の招きの言葉として語られました。

二年後、1968<昭和43>年4月、東京聖書学院に入学しました。四年の学びを終え、47年前の1972(昭和47)年3月、卒業しました。4月に最初の赴任地、母教会の旗の台教会(品川区)に遣わされました。一年後、東京府中市の府中教会(14年間牧会)、続いて32年前川崎ホーリネス教会に遣わされ、今日を迎えました。

今回のみ言葉は、パウロがイザヤ52章七節を引用したものです。預言者イザヤは、キリストが誕生する750年前、「『平和と救いの良い知らせを伝える者の足は、山の上にあって、なんと美しく見えることでしょう』」(イザヤ五二7<リビングバイブル>)と、預言しました。パウロは、イザヤの預言を、キリストの十字架による「赦しの福音」を携えて遣わされるクリスチャンの姿と受け止めました。そして、「『ああ、麗しいかな良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」と、語ったのです。

 

一、教会から派遣されるクリスチャン

預言者イザヤは、捕囚解放のメッセージ、戦いの勝利のメッセージにも増して、「神の救いの御業」を告げる使者の足の美しさは格別と語ります。「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ」(新改訳)。パウロは前述の如く、イザヤの語る「良い知らせを伝える者の美しい足」は、「教会から派遣されるクリスチャン」の姿として捕えました。そしてパウロは、「キリストの十字架の贖いによる、罪赦された喜び」を持って教会から派遣されるクリスチャンの「足」こそ美しいと語ったのです。「『ああ、麗しいかな良きおとずれを告げる者の足は』」。

 

二、良きおとずれを待つ人の喜び

パウロは「キリストの十字架の赦しの福音(良きおとずれ)」を待っている人がいると語ります。「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことができようか」(ローマ一〇14)

そして、キリストの福音の使者の到来を待っている人が、キリストの十字架のメッセージを聞く時、救われ(聖霊によって)、喜びに満たされると語ります。実は、私がその福音の喜びに与りました。私は人生の意味、目的が分からず空しい日々を送り、眠れない夜を過ごしていました。大学四年の秋、クリスチャンの剣道の先輩から、更衣室で「キリスト教特別礼拝」のチラシを手渡されました。

そして、1965(昭和40)年9月初旬の土、日、月の夜、初めてキリスト教の集会に出席し、キリストと出会いました。すなわち、キリストを救い主として受け入れ、喜びに与りました。「その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ八1415)。「罪の赦し」に与った私は、「『ああ、麗しいかな良きおとずれを告げる者の足は』」のみ言葉により、献身の生涯へと導かれたのです。※次回の巻頭言は、金 耀翰先生です。