20154月教会報「翼」巻頭言

「キリストの受難(十字架)預言」

           小 林 重 昭

 

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。      (イザヤ五三章五節)

                       

イースターおめでとうございます。

教会の庭は、様々な花が咲き誇り春爛漫です。皆様お変わり御座いませんか!

 東日本大震災、福島原発事故の一日も早い復興と収束の為にお祈りいたします。

 今回は、イザヤ五三章を開きました。イザヤ五三章は、キリスト教会で二〇〇〇年来、旧約聖書の中で、最もイエス・キリストの受難、すなわち十字架の御苦しみを預言したものとして、読まれてきました。実に、預言者イザヤは、イエス・キリストの誕生する七〇〇年前、「キリストの受難」を預言したのです。預言者イザヤは、誕生するメシヤは「しもべ」としての生涯を歩むと語ります(二、三節)。しかもイザヤは目の前に十字架上のキリストを見ているかの如くに語ったのです

 

T、身代わりの「しもべ」

イザヤ五三章四〜七節に「われわれのために」と言う言葉が、九回用いられます。それは「われわれの代わりに」の意味です。まさに、「われわれの罪の身代わり」となって、メシヤなるキリストが十字架に向かわれ苦しまれたのです。

(1) 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられた(刺し通された)(五節)。私たちの罪のために傷つき、血を流されたことです。まさにメシヤの受難、キリストの十字架を指しています。

()彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ(五節後半)。「われわれに平安を与え」とは、文字通り心の平安と共に、神が与えられる霊的祝福の一切を含みます。また「その打たれた傷によって、われわれは癒された」とあります。私たちの癒しとは、勿論心の傷の癒しと体の癒しがあります。しかし、本来の癒しとは、神との正常な関係の回復のことなのです。そこに、真の本質的癒しがもたらされるのです。

(3)「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた(六節後半)。まさに、神が全世界の人々のすべての不義と、罪を彼(キリスト)の上に置かれたと言うのです。何と驚くべき事でしょう。預言者イザヤは、七〇〇年も前にキリストのその霊的事実を幻の内に見ていたのです。

(4)「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった(七節)

 このみ言葉は、あの大祭司の前とピラトの裁判の前で黙っておられたキリストの姿を見ます。まさに私たちの罪の為に十字架に黙々と向かわれた「神の小羊」キリストを象徴します。バプテスマのヨハネは、このイエス・キリストを、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と、紹介しました。

 

U、人を義とする「しもべ」

 預言者イザヤが語られたもう一つのメッセージは、「人を義とする『しもべ』」の姿です(十、十一節)。「義とされる」とは、「無罪放免」と言うことです。もう少し、分かりやすく申しますと、「神の御前に、罪を犯したことのない者、正しい者と認めることです」。まさに、主イエス・キリストが、罪の身代わりとなって死んで下さった事によって、私たちの罪が赦され、義とされたのです(ローマ三章二一〜二六節。Tペテロ二章二四節)