「主はわたしの牧者(羊飼い)」
小 林 重 昭
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。
(詩篇二十三篇一、二節)
二〇一二年、残暑の厳しい日が続きますが、皆さんお変わりござませんか!トンボの飛び交う九月を迎えました。まさに、実りの秋です。東日本大震災と福島原発事故で避難されている皆さんの心が守られますように!また、一日も早い復興と収束が与えられます様お祈りします。
今回は、詩篇二十三篇を開きました。
この二十三篇は、昔からダビデの作と言われています。イギリスの有名な説教者C・H・スポルジョンは、この詩篇二十三篇は、「詩篇の真珠である」と言いました。それは、ここに力強い神への信頼が歌われているからです。詩篇二十三篇は、今日までの長い歴史の中で、「主はわたしの牧者である」と信頼し、告白した者に大きな慰めと励ましを与えてきました。すなわち、羊飼いなる主は、人生の戦いの中にある一人一人に近づかれ、乏しいものを養い、渇いている者をいこいのみぎわに伴われたのです。
一、 主はわたしの牧者(羊飼い)
「主はわたしの牧者」と言う思想は、旧約聖書の中で伝統的に受け継がれてきました。詩篇八十篇一節は、神に対して「イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ」と、呼びかけます。預言者イザヤは、イスラエルの日常生活に見られる光景を通して、神とイスラエルの関係を語りました。「主は牧者のようにその群れを養いそのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ四0・一一)。
預言者エゼキエルは、羊飼いとしての神ご自身が、散らされている羊を集めると語ります。「主なる神はこう言われる。見よ、わたしは、わたしみずからわたしの羊を尋ねて、これを捜し出す。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すようにわたしは、わが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。…わたしみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。わたしはうせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う」(エゼキエル三四・一一、一二、一五、一六)。
実は詩篇二三篇、イザヤ四〇章、エゼキエル三四章のみ言葉は、メシヤ預言でもありました。ダビデから一千年、イザヤから七百年、そしてエゼキエルから五八〇年後、預言の如く羊飼いとしてのイエス・キリストが誕生したのです。
ヘブル書は、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス・キリスト…」(ヘブル一三・二〇)と、記します。ペテロは、「あなたがたは羊のようにさ迷っていたが、たましいの牧者であり監督であるかたのものとに、たち帰ったのである」(一ペテロ二二〜二五)と語ります。さらに、主イエス・キリストご自身、「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ一〇・一一)と、語ります。
二、牧者(羊飼い)なる主に信頼する
詩篇二十三篇一〜三節に、三回、「主」が主語として語られます。主が羊飼いとして、「私」にこうして下さった。だから満足ですという具合に、牧者への「信頼」が、高らかに歌われています。羊飼いなる主を受け入れ、信頼して歩むことです。