■ 中国茶の歴史 ■

■ History of Chinese Tea ■
陸羽
■ とある神話

 所は中国、時ははるか昔の事である。体は人間で牛の頭を持つ神農という神がいた。神農のお腹は水晶でできており、食べた物の様子がよく分かるので毒でも草でも食べて人間に食べられるかどうかを教えていたという。ある日、彼は偶然お茶の葉を見つけた。毒を食べた後にお茶の葉を食べると、腹の中が浄化されることを発見した神農は、以後毒を食べるたびにお茶の葉を食べて腹を清めていたという。

 時は昔の事である。一人の皇帝が狩に森に出かけたという。狩に疲れた彼は、お湯を飲もうと、従者に釜を使い水を沸かせていた。しかし、場所は森のことである。ある葉っぱがひらひらと釜の中に入ってしまった。皇帝が怒るのを恐れた従者は、もう一度水を沸かそうとした。しかし、のどが渇いていた皇帝は気にせずその湯を飲んでしまった。意外にも、お湯よりもおいしい。以後、皇帝はその葉っぱをお湯に入れて飲むようになったという。


■ お茶の始まり

前1050頃 西周王朝成立 西周の武王が商の紂王を滅ぼし、東方の反乱を平定、周王朝を確立。成周城を建設し、諸候を封建
前771 西周王朝滅亡 申侯が犬戎と共に都を攻め、西周幽王は殺され西周王朝滅ぶ
前770 東周王朝滅亡 平王が即位し、都を成周に遷した。秦襄公に宗周の地を与えた
前552 孔子誕生
前479 孔子没
前256 東周滅亡 秦が魯・東周を滅ぼした
前221 秦の始皇帝の天下統一 前221秦王政が天下一統。始皇帝と称し、全国を郡県とする。度量衡、貨幣、文字を統一。万里の長城建設。焚書・坑儒事件(前213-212)
前207 陳勝・呉広の乱 7月陳勝・呉広が挙兵。9月項羽・劉邦ら反乱。秦帝国、事実上崩壊
前201 前漢王朝の成立 長安で劉邦(高祖)が帝位につく
前154 呉楚七国の乱 太尉周亜夫らがこれを鎮圧する
9 新王朝の成立(〜23) 大司馬、王莽、皇帝となり国号を新と称す。前漢王朝の滅亡
25 後漢王朝の成立 光武帝劉秀即位、後漢王朝成立
57 倭の奴国、東漢に入貢 光武帝より印綬を与えられる
208 赤壁の戦い 孫権が曹操を破り、天下三分の形勢定まる(蜀、魏、呉)
265 西晋王朝成立 武帝司馬炎受禅。曹魏朝滅び、西晋朝興る。以後、五胡十六国の戦乱時代へ(〜581)

 お茶に関わる神話は現在までたくさん残されています。しかし、実際のところ、お茶の始まりはまったく分かっていません。一体誰がお茶を発見し、どのような目的でお茶を飲みはじめたのか・・・、今となっては想像するほか無いのです。昔には野生の大型の樹からとられていたものが、徐々に栽培用に小型化して現在のように茶畑で栽培されるようになりました。

 お茶の原産地はインド北部から中国南部にかけての熱帯・亜熱帯地方であると考えられています。唐の時代(西暦800年頃)、かの有名な陸羽が書いた『茶経』は「茶者、南方之嘉木也」(「茶は南方の嘉木なり」)で始まっており、初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。特に雲南一体辺りではないかと考えている人が多いようです。雲南には変わったお茶の飲み方が多くあり、それらは昔の飲み方がそのまま残っているのではないかと考えられています。例えば、茶樹からつんできたばかりの茶葉を囲炉裏でいぶり、釜でお湯と一緒に煮るだけの飲み方などはごく初期の飲み方を彷彿とさせます。

 漢の時代(紀元前1世紀)に書かれた医学書『神農本草記』には「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」などという記述が残されており、すでにこの頃にはお茶の薬としての効能が知られていたという事になります。また三国志で有名な後漢の名医華佗もお茶の効能について『食経』という本でふれています。この頃のお茶は、上流階級の薬用として主に用いられていました。

 その後、間もなく、お茶は薬用よりも嗜好品として主に上流階級の人々に愛飲されるようになりました。三国時代のある文献には「以茶代酒」(お茶を酒にみたてて飲む)という記述が残されているようです。


■ 唐時代(618〜907年)

581 隋王朝成立 楊堅、北周を廃し隋を興す。589年、天下統一。604年、煬帝として皇帝即位。
618 唐王朝成立 617年、李淵、太原で挙兵。618年、煬帝、江都で殺害される。李淵(高祖)、長安で即位。唐成立。首都:長安
626 李世民即位 王李世民、兄李建成、弟李元吉を殺害(玄武門の変)。高祖退位し、李世民即位(太宗)
668 高句麗滅亡 645年、太宗、高句麗に遠征。高句麗、唐に滅ぼされる
690 武周革命 則天武后、唐を廃し周を興す。中国史上唯一の女性皇帝に
712 開元の治(〜741) 玄宗即位。前半は贅沢を戒めたが、後半は楊貴妃に夢中になり政治への情熱を失う
755 安史の乱(〜763) 安禄山、幽州で反し、洛陽に攻め入る。玄宗、四川に逃れる途中で、楊貴妃・楊国忠殺害される。759年、史思明、大燕皇帝を僭称
875 黄巣の乱(〜884) 塩の密売商人黄巣、王仙芝に呼応して唐に背く。
907 唐王朝滅亡 朱全忠、唐を滅ぼして帝位につく(太祖)。後梁成立。五代十国の戦乱時代へ
■政治・文化の特徴■

律令体制の成立
 唐の政治体制は律・令・格(補充規定)・式(実施細則)の法律体系により運営されていた。門閥貴族の子弟と科挙で選抜された有能な人材が官僚としてこの国家システムを動かした。

祖庸調(そようちょう)製の成立と軍役制度
 唐では農地が国有とされ、田令に基づき成人男子1人あたり、60歳に達したら国家に返還しなければいけない口分田80畝、世襲を許されるかわりに桑などの定められた樹を一定以上植えなければいけない永業田20畝が与えられた。その代償として農民には、祖(モミガラ付きの穀物120リットル)、庸(年間20日の労働、地方の役所での年間40〜50日の雑徭)、調(絹布約6メートルもしくは綿110グラム)の義務が課された。唐末にはこの制度が崩壊し、高額の税金と塩などの専売制度が行なわれた。

柵封(さくほう)体制と羈縻(きび)政策
 中華帝国と周辺の農耕民族の間には徳治主義を基盤とする柵封体制がとられた。周辺諸国・民族の首長が皇帝の徳を慕って貢物を納め、それに皇帝が施しをするという考え方である。永続的で安定した関係を求めるものには唐帝国の爵位・官位を与え(これを柵封という)皇帝の臣下として名目的主従関係を結んだ。また西突厥が支配する西域オアシス諸国には羈縻(牛馬を綱で繋ぎ止めるの意で、異民族をゆるく制御する事)州が設けられた。これは名目上は唐の領土、実質的には異民族の居住地に設定された土地区分である。

栄えるシルクロード
 このころシルクロードで活躍したのパミール高原以西のソグド商人達であった。彼らは中国商人が舌を巻くほど商才に長けていただけでなく、羈縻政策により名目上唐帝国の住民と認められたのを利用して、シルクロードの要地クチャに置かれた安西都護府が発行する通行書を獲得し、唐帝国内で自由に交易を行った。そのため、唐代は中国史上最もシルクロード交易が盛んに行なわれる時代となった。

仏教の中国化
 仏教は漢王朝初頭には中国に伝わっていた。645年、三蔵法師と呼ばれた玄奘が17年におよぶ大旅行を経てさまざまな仏典を持ち帰り、それまでの翻訳仏典の諸説が正され仏教の中国化が進んだ。また、義浄も695年に24年にもおよぶ旅から帰り、多くの仏典を漢訳化した。

長安の繁栄
 開元の治の時代、首都長安は人口100万人を越し、政治・文化・商業の中心として栄えた。

杜甫と李白
 玄宗皇帝の時代、唐を代表する詩聖杜甫が活躍。また、詩仙李白も同時代に活躍している。「国敗れて山河在り、城春にして草木深し」で始まる「春望」は杜甫の代表作であり、日本でも非常に愛されている。


 唐の時代にはお茶の飲む習慣はすでに全国に広まっていました。この頃のお茶は、茶葉を粉々にし固形にし乾燥させた緊圧茶が主流でした。茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていたようですが、交通が不便なこの時代に栽培地から消費地(上流階級の家)まで運ぶには、緊圧茶が合理的だったのだろうと想像します。なおこの頃にはこのような固形の緊圧茶を「餅茶」と呼んでいました。

 租庸調制度が崩壊した時、政府は不足する税収をまかなうために塩・酒・茶が専売とされ原価の30倍以上の税がかけられましたが、このころすでにお茶を飲む風習が広がっていたことがしのばれます。

 この頃には茶具が発達し、唐代の茶器は台湾、台北市の故宮博物館に現存しています。

 そして何よりも唐代の功績はお茶のバイブルとも言える陸羽の『茶経』が書かれたことです。お茶の効能や製法だけに止まらず、飲み方や茶器にまでふれ、後の中国茶の発展に大きな貢献をしました。もちろん、後の日本茶道にも大きな影響を与えています。


■ 宋時代

960 北宋王朝成立 趙匡胤(太祖)、即位して北宋を興す
1069 王安石の新法 王安石、参知政事となる。制置三司条例司を置き、新法を立案。均輸法、青苗法施行
1084 『資治通鑑』 司馬光『資治通鑑』を著す
1115 金王朝成立 女真族の阿骨打、即位し国号を金とする
1127 靖康の変 北宋の徽宗・欽宗らとらわれ北宋滅亡する。高宗、即位して宋を復興(南宋)
1234 金王朝滅亡 モンゴル・南宋軍に攻められ滅亡
1279 南宋王朝滅亡 克R陥落し、南宋完全滅亡

 宋の時代には、それまでの貴族文化にとって代わり、貨幣経済を背景とした市民文化が栄えました。お茶が貴族から富裕市民のものへと変遷していく中でお茶の飲み方も変わっていきました。

 お茶もそれまでの緊圧茶を使用し、茶葉をすってこなごなにした粉末を、茶碗に入れてお茶とかき混ぜるという日本でいう抹茶のような飲み方がされるようになってきました。この頃には茶筅(ちゃせん)が使われていたということです。なお、「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれていたようです。


■ 元時代

1206 チンギス汗即位 テムジン、モンゴリアを征し、チンギス汗を称す。西夏等を次々と滅ぼす
1229 オゴタイ汗即位 オゴディ汗即位(元太宗)。漢地に税制を定める
1234 金王朝滅亡 モンゴル・南宋軍に攻められ滅亡
1271 元王朝成立 モンゴル帝国、国号を元と定める。首都:大都
1274 文永の役 元・高麗軍、日本に来航
1279 南宋王朝滅亡 克R陥落し、南宋完全滅亡
1281 弘安の役 元・高麗軍、再度日本に来寇。暴風雨のため大敗する
1351 紅巾の乱 郭子興、張士誠、劉福通、韓林児、陳友諒等が次々と挙兵
1368 元王朝滅亡 朱元璋即位(明太祖)、大明帝国成立。大都を攻略して元滅亡

 元は北方の騎馬民族であるモンゴル族が開いた王朝であり、かさばる茶葉の形よりも緊圧茶が発展した時代です。

 この時代はシルクロードを通して西方の技術が取り入れられた時代でもあり、西アジアからコバルトを輸入して景徳鎮で焼くなどの手法が可能となり、青磁器技術が大いに発展した時代でもあります。


■ 明時代

1368 明王朝成立 朱元璋即位(明太祖)、大明帝国成立。大都を攻略して元滅亡
1399 靖難の変 燕王、反乱を起こす。南京攻略。1402年、燕王即位(世祖永楽帝)
1405 鄭和の大航海(〜1431) 7度の大航海を行なう。
1616 後金国成立 ヌルハチ、後金国を起こす
1636 清王朝成立 後金国、国号を「大清」とする
1642 李自成の乱 李自成反乱を起こす
1644 明王朝滅亡 李自成、北京占領。明王朝滅亡。すぐに清軍北京に入城

 この時代に緊圧茶はお茶本来の美味しさを損ない、しかも手間もかかると言う事で、皇帝により緊圧茶禁止令が出され、また貢茶(皇帝に茶を献上する事)も廃止されました。そもそも固形に固めるという面倒くさい工程を必要とする緊圧茶がお茶の始まりではありえるはずもなく、昔は茶葉のままで飲まれていたと考えるのが普通であり、元々の姿に戻ったとも言える。

 安定した明の体制に支えられ、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、都市市民へと普及していきます。淅江省や江蘇省がお茶の産地として知られるようになり、龍井茶などが有名となりました。

 緊圧茶が禁止され、緑茶が普及すると、お茶の色が薄くなり、お茶の色を引き立たせるために青花等の茶碗が珍重されるようになり、それと同時に茶壷(急須)にも手の込んだ物が出現し、普及していきました。


■ 清時代

1616 後金国成立 ヌルハチ、後金国を起こす
1636 清王朝成立 後金国、国号を「大清」とする
1642 李自成の乱 李自成反乱を起こす
1644 明王朝滅亡 李自成、北京占領。明王朝滅亡。すぐに清軍北京に入城
1661 聖祖康熙帝即位 台湾平定、モンゴル支配、チベット支配を完成。『康煕字典』編纂を行なう
1722 世宗雍正帝即位 康熙帝没す。世宗雍正帝即位。キリスト教禁止等を行なう
1735 高宗乾隆帝即位(〜1799) 雍正帝没す。高宗乾隆帝即位。ジュンガル部平定、回教平定、『四庫全書』編纂を行なう。その死後まもなくして欧米の侵略が開始される
1840 アヘン戦争 欽差大臣として広東に入った林則徐が英国二万箱のアヘンを廃棄。イギリス軍との間に戦争が起こる
1842 南京錠約締結
1851 太平天国の乱 洪秀全、武力蜂起を開始。南京を攻略し、天京と改名し猛威を振るうも1864年、洪秀全病死で鎮圧
1856 アロー号事件
1861 西太后実権掌握
1871 日清修好条約調印
1884 清仏戦争 ベトナムで中国とフランスが衝突。翌年、清仏条約締結。ベトナムの宗主権を失う
1894 日清戦争 翌年、日清講和条約締結するも露独仏三国干渉
1899 義和団事件 山東で義和団蜂起
1911 辛亥革命 武昌新軍蜂起し、辛亥革命起こる
1922 清王朝滅亡 中華民国成立、孫文臨時大総統となる。宣統帝退位。清、滅亡。中華民国袁世凱、臨時大総統就任。中国混乱へ

 さらに安定した清時代には、お茶文化は最盛期を迎え、現在の中国茶葉や茶具がほぼ完成しました。福建省では青茶である烏龍茶が開発され、潮州などを中心として工夫茶が考案されました。

 工夫茶は青茶ならではのすばらしい香りを追及する過程で開発された手法であり、小型の茶器を使用して数回に分けて小さな茶杯でお茶を飲むという手間をかけるため工夫茶と呼ばれました。

 台湾に茶樹が移植されたのもこの時期であると言われている。


■ その後

 清が崩壊して以降、中国は列国の侵略を受けました。しかし、民国には茶壷製作や茶葉の栽培がより発展しました。1951年に中華人民共和国が建国されて以来、中国茶は順調に発展を続けてきました。

 しかし、毛沢東主導の文化大革命の時期にお茶は贅沢の象徴として弾圧され、お茶栽培は制限され、様々な茶樹が切り取られてしまいました。中国茶にとっては衰退の十年となり、台湾や香港で茶芸とお茶栽培がより発展し、現在では中国茶は台湾の方が世界的に有名となっています。

 中国でも改革開放の1990年代に入り中国茶が復興してきており、現在では一般庶民の中でも一大ブームとなっています。


参考文献
『中国茶の辞典』(成美堂出版編集部、成美堂出版、2000)
『早分かり東洋史』(日本実業出版社、宮崎正勝、1999)