2001.01.19-02.19
一色 浩
あ め り か


 
1月19日(金)から1月28日(日)まで,久しぶりにアメリカを旅行した。前回訪問したのが,確か1983年の第13回ONRシンポジウムの折だったから,実に17年ぶりである。当時のアメリカは経済的に最も落ち込んでいたが,今回は打って変わって頂点にいる。日米の事情がまったく逆転してしまった。米国経済の好調を反映しているのであろう、道路などの整備状況も一変している。
今回の訪米のそもそもの目的は,1月22日(月)から24日(水)までロングビ−チで開催されたION(米国航行学会)のNTM(国内技術集会)で論文講演するのが主目的で,ちょうど良い機会であるので,ロングビ−チから車で2時間ほどで行けるサンディエゴにあるスクリップス海洋研究所に高名な海洋学者であるワルタ−・ムンク教授をお訪ねすることであった。
旅行の準備をすすめていた頃,ブッシュ大統領の就任式が1月20日(土)に首都のワシントンで行われることが分かった。絶好の機会であるのでぜひ見物したいと思い,東京大学生産技術研究所の前田教授の紹介で,ワシントンにあるNOAA(日本の気象庁に相当)の本部を訪ねることになった。そのついでに,大統領就任式を見物しようというわけである。NOAAのバ−バラ・ム−アさんという女性だが偉い人に出したメ−ルが,西海岸のシアトルで津波を研究しているフランク・ゴンザレスさんの目にとまり,シアトルにぜひ来いということになった。シアトルに来いと言う話は出発の二日前に出てきた話であるが,目下,津波監視装置の開発を東京大学地震研究所の加藤教授とやっている我々としては願ってもないチャンスであるので,急きょ予定を変更することにした。今回の旅行の世話をして頂いている日立造船ツ−リストの〆田次長に相談すると,すぐに飛行機の予約変更をしてくれた。既に,航空券を受け取っていたので,本当にできるかどうか半信半疑であったが,翌日新しい航空券が送られてきた。見事な手際のよさである。
関係者のご協力のお陰で,なんとか出発にこぎつけ,いよいよ旅行の始まりとなった。
 
2000.01.19()
 
予定
Osaka Itami発08:00,Narita着09:10,NH76
Narita発11:10 NH2
Washington Dulles着 09:15
NOAA Dr. Barbara Moore訪問 13:30
(Program Director, National Undersea Research Program)
Dr. Gerry Maderと面会
GPS,地殻変動計測
 
1/19 in  1/21 out
Town Center Hotel, Silver Spring
 
04:30起床。05:30に家を出る。妻と娘が難波の空港バスのステ−ションまで見送ってくれる。日本は快晴で富士山がよく見えた。ワシントンに着いたら小雨であったが,気温は2℃でそんなに寒くない。機内ショッピングで帰りの土産を買う。機内では眠れなかったので,文献を読んだり,海底地殻変動計測法,津波の実時間探知法およびGPS高精度単独計測法の研究上のアイデアのメモを作る。また,自己紹介文をワ−ドとパワ−ポイントで作る。なかなか面白い自己紹介が出来上がる。音楽などを聴くが,ジェットエンジンの音が大きくて聞きにくい。堅田さんのやっているANC (Acoustic Noise Canceling) でなんとかならないかと思う。窓際に座ったので,ジェット機の主翼がよく見える。離着陸の時は,主翼が頻繁に出たり入ったりする。波力推進も翼を引っ込めることはあきらめて,翼の大きさを変えるようにしたら良いかもしれない。帰ったら,内藤先生と相談してみたい。
タクシ−でダレス空港からシルバ−スプリングのホテルに向かう。ドライバ−はバングラデッシュからの留学生でITを勉強しているという。冬休みを利用して,学費を稼いでいるとのこと。ホテルの場所を知らないので,最初は地図で調べていたが,よく分からなかったので,ホテルに電話して聞いている。甚だ頼りないが,絶対大丈夫だという。タクシ−会社から車を80ドルでレンタルして稼ぐのだと言う。アメリカに2,3年いるらしいが,アメリカに来てから免許を取ってこのタクシ−で稼いでいるというのだから,さすがアメリカだと思う。道路情報がよく整備されているので,ハイウェ−をがんがん飛ばして,なんとか無事にホテルに着く。この前,訪米したのは第13回ONRシンポジウムのときだったから,多分1983年だったと思う。17年前はアメリカ経済の調子が悪くて,町は汚いし,自信喪失気味だったような気がしたが,今回はまったく雰囲気が違う。交通信号等もしっかりしたものに変わっているような気がする。ワシントンで驚いたのは,黒人が非常に多い。あっち見ても,こっちを見ても黒人が目に付く。大きい人,小さい人,真っ黒な人,少し黒い人など実にさまざまである。
午後3時までチェックインできないとのことなので、荷物を預かってもらう。カウンタ−の黒人女性に国際電話の掛け方を聞いたら、2ブロック行った所にあるショッピングモ−ルでテレホンカ−ドを買って来て,公衆電話から掛けたら安上がりだと教えてくれる。ぶっきらぼうだったので、えらい不親切なやつだと思ったが,結果的には大変親切だったことが分かる。10時少し過ぎに着いたので,機内で電池切れになったパソコンの充電を行う。最近のパソコンは100ボルトでも200ボルトでも自動的に調節するので,大変助かる。お腹がすいていたので,ホテルの中のイタリアレストランで昼食を取る。スパゲッティミ−トソ−スを頼んだら,食べきれない程のスパゲッティ,サラダ,ブレッドに大きなポット一杯のコ−ヒ−が出てきた。味もなかなか悪くない。それで9.25ドルだというからあまりの安さにびっくりする。日本のホテルでこれだけ食べたら大変である。タクシ−の初乗り料金も1.5ドルである。日本の物価の高さに改めて驚く。
NOAA (National Oceanic and Atmospheric Administration)のヘッドコ−タ−はすぐ近くだというので,タクシ−を頼んで出かける。後で分かったことであるが,実は歩いても10分位であった。HZUSA(NY)の上原社長に頼んだら,郵船トラベルが世話してくれたとのことであるが,実に良い所を手配してくれたものである。心から感謝申し上げる。お世話をしてくれた郵船トラベルの柳エリカさんは,きっと若くて美人に違いないと勝手に想像して,一時とても幸せな気分になる。
NOAAに着いたら,翌日のブッシュ大統領就任式の関係で警備がとても厳しい。2名の黒人の検査官により,空港のように所持品と本人のX線検査をされた後で,説明用に持参したパソコンの製造番号を書かされた上に署名を求められた。案内役のミスタ−・カルバイティスがミスタ−・プライスベルクと来てくれる。ミスタ−・カルバイティスは,2mを越す大男であるが大変気のいいメカニカル・エンジニア−で,あとで年齢を聞いたら,小生よりも2歳下の1942年生まれで,2年くらいのうちにリタイアするとのことであった。ミスタ−・プライスベルクは,西海岸のシアトルにあるNOAAPMELのドクタ−・ゴンザレスがぜひ会いたいというのを取り次いでくれた若い人である。
すぐに,ドクタ−・メ−ダ−の所に連れて行ってくれる。機内で用意したパワ−ポイントで作った自己紹介を使って大筋の説明をする。自己紹介の中には,履歴,研究歴,最近の研究分野,最近出した論文,目下もっとも感心を持っていること,趣味などを書いておいた。お陰で極めて短時間の内に十分な情報交換ができた。趣味のところに,犬を教育することと書いておいたら,これがとても受けて大変和やかになった。ドクタ−・メ−ダ−は長基線キネマチックの分野で良い結果を出しているらしい。彼の言うところに依れば数100kmは十分にできるが,数1000kmはまったく自信がないとのことであったので,関連論文を送ってくれるように頼む。
自己紹介のお陰で,大変効率よく情報交換ができたが,そもそも何故こんなものをパワ−ポイントで作ったかというと,ほとんで寝ていない頭でしかも英語で説明すると支離滅裂になる恐れがあったからである。NOAAの訪問者でこんな用意をして来る人は珍しいらしく,大いに感心された。何事も備えあれば憂いなしである。
ドクタ−・メ−ダ−の後は,NSWC (Naval Surface Warfare)のミスタ−・バックマンと会った。まだ若い人で,実船に複数個のGPSアンテナを搭載して船の位置と姿勢を測る実験をやっているとのことで,最近船に機材を搭載したところとのことであった。真剣に質問をして来て,我々の結果をメモしようとするので,日本に帰ったら関連論文を送ることを約束する。情報交換を大変喜んでくれた。船の運動はやっていないかと盛んに質問する。専門的には極めて近い。例によって,「自己紹介」を使ったが半分くらいは犬の話に花が咲いた。ミスタ−・カルバイティスも大の愛犬家で,テリアの雑種を買っているとのことであった。
最後に,ドクタ−・バ−バラ・ム−アと会う。この人は女性であるが大変なVIPで,日本の官庁で言うと局長クラスではないかと思う。親友の東大生研の前田教授が紹介してくれた。今回のNOAA訪問は,このドクタ−・ム−アが手配してくれたものである。市内で会議中のところを早めに切り上げてわざわざ会いに来てくれた模様である。何故VIPと思ったかというと,肩書きもすごいが大男のミスタ−・カルバイティスがほとんど直立不動に近い感じで,小生のことを報告したからである。これには本当にびっくりした。ドクタ−・ム−アは若くはないが,往年のエリザベス・テ−ラ−ばりのなかなかの美人である。若い頃は,大変な美人だったのではないかと思う。今でも結構魅力的であるが,残念ながら歯は少し灰色になっている。多分かなりの管理能力を持った人で,前田教授の依頼もさることながら,日本からどの程度の人間が来たのか自分の目で確かめたかったのではないか。ミスタ−・カルバイティスが小生が大変用意周到で,実にスム−スに情報交換ができたこと,来週末にPMELを訪ねて,ドクタ−・ゴンザレスを初めとする津波研究グル−プと会うことになっていることなどを,緊張気味に報告したのが大変面白かった。
ホテルに帰ってから,例のテレホンカ−ドを使って自宅に電話することにした。公衆電話はホテルの中に何台もあるのだが,この電話機にはカ−ドの投入口がない。別の階の公衆電話を調べてもみんな同じである。さぁ−困った。困り果てて,フロントの黒人女性に聞く。昼間とは別の女性でなかなかやさしい。このカ−ドの使い方を教えてくれる。カ−ドを発行しているカ−ド会社の電話番号がカ−ドに書いてあるので,まずそれをダイアルすると,多分機械音声だと思うが,女性の声でビンナンバ−をインプットしろという。このビンナンバ−と言うのはカ−ドの銀色になっているところをスクラッチすると出てくる。日本の場合には,カ−ドに使用記録を残してカ−ドそのもので管理するが,米国の場合には,電話会社のコンピュ−タに使用記録を残して,ビンナンバ−と呼ばれるID番号を使って管理するのであろう。ビンナンバ−を入れてしばらくすると,カ−ドの残り金額を知らせてくれた後で,カ−ドに書いてあるように,国際電話の場合はまず011を打ってから,国番号(日本の場合は81)の次に0抜きの市外局番と電話番号を入れる。しばらくすると,残り時間を知らせてくれる。そのままでしばらく待っていると,呼び出し音が聞こえて相手とつながる。この料金が滅茶苦茶に安い。10ドルのカ−ドを買ったら,301分掛けられるといわれた。いろんなカ−ドがあって,日本用はこれがいいと選んでくれたものである。この店は,誕生カ−ドなどを売っている雑貨店で,上述のショッピング・モ−ルの中にある。グラマ−なインド系の若い黒人女性が選んでくれた。301分というのはどうも米国内の電話の場合ではないかと思う。国際電話の場合は大分少なくなるようであるが,それでもたっぷり掛けられる。どういう仕組みになっているのか知らないが,世の中には賢いやつがいるものである。
このモ−ルはかなり大きくて,いろんな店がある。ぶらぶら歩いていたら,黒人女性用の化粧品を日本のラ−メンの屋台のようなワゴンに乗せて売っている店がある。白人や黄色人種の女性は,おしろいを塗るわけであるが,黒人の女性の場合はどうするのであろうか?おくろいというものがあるのかも知れない。その内,確認したい。携帯電話の店もある。日本の携帯の店に比べると,機種の数かずっと少ないし,あまり最先端のものはないが,置いてあるのは全部ノキアである。日本ではとても売れないような厚いのが並んでいる。こちらでも携帯を持っている人は多いので,多分相当に売れるのだと思う。
 
2001.01.20(土) 小雨
 
起床 12:30,07:30
 
ホテルのカウンタ−で,地下鉄の駅を聞くと真っ直ぐ4ブロック行けという。幸先良い情報である。9時頃,ホテルを出る。聞いた通りに言ったら,本当に地下鉄のシルバ−スプリング駅に着く。地下鉄の手前に結構大きなバスタ−ミナルがある。バスだったら景色が見れるので,バスに乗ることにする。車内がうまく設計されていて,ゆったりとしている。料金は1.10ドルだとのことであるが,あいにく小銭が足りない。気の良さそう小錦も顔負けしそうな大きなお尻をした黒人のおばさんに相談すると,おばさんに同行している娘が両替してくれるという。しばらく,財布をひっくり返していたが,残念ながら小銭が少し足りない。結局5ドル紙幣で払ったらということになる。30分ほどでワシントンDCに入る。ブッシュ大統領就任式のため,あっちこっちで交通止めになっているので,終点の少し前で降りろという。ドライバ−に5ドル紙幣を見せたところ,払わなくて良いという。実に大らかなものである。
通りには,大統領就任式のパレ−ドを見るためであろう多くの人が歩いている。中にはブッシュ大統領を非難するプラカ−ドを掲げた連中がいる。一見して,おのぼりさんと分かる連中もいる。しばらく歩いていると多くの人が行列を作っている。多分並んでいたら,パレ−ド見物ができそうなので,さっそく最後尾に並ぶ。何のために並んでいるかと聞くとセキュリティ・チェックのためという。しばらく並んで待っていたら,本当にセキュリティ・チェックの所に来た。ショルダ−バッグの中を調べられる。みんなにくっついて行くと道路の両側にたくさんの人が並んでいる。中には,椅子持参の人もいる。結局これがパレ−ドの行われるペンシルベニア・アベニュ−であった。道路の向かい側に大きくて立派な建物があるので聞いてみたところ,ア−カイブだという。日本の国会図書館に相当するものであろう。
子供連れの夫婦と思われる人達の隣になった。聞いてみたら夫婦ではなくて兄と妹だという。兄の子供が二人で13歳のティファニイと9歳のジョシュア,妹の子供が一人,3歳くらいのエリザベスである。盛んに我々は8年間待ったという。最初はなんのことか分からなかったが,民主党の政権が8年間続いて,ようやく共和党が政権を取ったと言うことである。だから彼らは共和党である。それも右寄りらしい。実に堂々とした体格の妹が盛んにノ−・モア・ビルという。兄のほうはキリスト教関係の子供教育をやっていて,両親と一緒にジョ−ジア州のアトランタから来たという。あいにくの天気で小雨である。一体いつ頃,パレ−ドがはじまるかと聞いたら,詳しいことは分からないが,2時か3時だろうという。まだ4時間もある。それにしても物凄い警官の数である。警官の外に空軍とか海軍の兵隊も応援にやってきている。
 我々の周りには,民主党支持者が沢山いて盛んに気勢を上げている。共和党支持者も負けてはいない。激しくやり合っているが,それ以上にはならない。あくまでも,言うべきことはきちんと言う姿勢である。共和党支持者も言われたからといって,興奮することはない。13歳のティファニイも頑張っている。おばさんの真似をして,大声を上げる。このおばさんが凄い。体格がいいので,大声を張り上げると大変迫力がある。セレモニ−で演奏される「ヘイル・ツ−・ザ・チ−フ」という有名な曲がある。大統領万歳という意味だと思うが,それをもじって「ヘイル・ツ−・ザ・シ−フ」という。盗賊万歳である。今回の大統領選挙では,フロリダ州の開票が問題となった。民主党支持者にはフロリダ州の結果を認めないばかりか,ブッシュ陣営はフロリダ州知事を頂点として,組織的な不正を行って選挙結果を捻じ曲げたと思い込んでいる。その気持ちを表現しているのである。この他にも,リ−ダ−が「ホワット・ドゥ・ユ−・ウォント」というと,「デモクラシィ」と唱和する。「ホエン・ドゥ・ユ−・ウォント」というと,「ナウ」とやる。共和党のやり方が非民主的だというわけであるが,これは共和党員が民主党こそ非民主的だと言う意味にも使えるので,共和党の連中も一緒になってやっている。テレビの報道を見ると,国旗を焼いている情景が何度も何度も出て来るので,いかにも物凄い抗議があったように思われるが,実際はそれほど険悪ではなくて,もっと静かである。中に共和党支持の初老の女性が「アイ・ライク・ジョ−ジ」と書いたボ−ル紙を胸からぶら下げて,無言で立っている。彼女は回りの動きと無関係にひたすらじっと立っている。見方によっては,こっちの方がはるかに不気味な感じである。
時間が経つにつれて,見物人の数が増えてくる。民主党支持者のシュプレヒコ−ルも段段熱気を帯びてくる。雨の方も強くなってくる。一番びっくりしたのは,警官の数がどんどん増えてきて,我々の前では警官が肩を接する間隔でびっしり立っている。多分,重点的な警戒ポイントと考えたのであろう。雨の中で震えて立つこと5時間ようやく大統領一行が過ぎる。リムジンの窓が閉められているので,大統領の姿は見れない。多分小生が立っていたところは,民主党支持者が盛んにデモを行っていたので,万一のことを考えて,窓を閉めていたのであろう。ホワイトハウスの近くでは,ブッシュ大統領とロ−ラ婦人は車から降りて数ブロック歩いたとテレビが報道した。
 テレビの報道も凄い。就任式も模様を逐一ライブ放送している。大部分の国民は,テレビを見ていたのであろうが,実際にその場にいて,自分の目で見るとテレビから受ける印象とは大分違う。5時間も雨の中に立っていたので,足がこわばってしまって,しばらくまともに歩けないほど疲労したがすばらしい経験であった
 
2001.01.21() 雪
 
睡眠 23:00→00:30,05:30→07:30
 
Washington Dulles発1310,Los Angels着1545,UA189
陸路Long Beachに移動
 
1/21 in, 1/24 out
Westin Long Beach
 
10:00にチェックアウト
 
飛行機出発までの時間があるのでワシントンDCを見物する。幸いなことに,タクシ−・ドライバ−が地理に明るかったので,大変効率的に見物ができた。キャピトル,モニュメント,リンカ−ン・メモリアル,ホワイト・ハウスを見る。昨日の悪天候がうそのような快晴で温度も低くなかったので,大変気分がよかった。タクシ−・ドライバ−はナイジェリアから来た黒人で48歳とのこと。26歳のときに勉学のために米国に来て,その後に帰国したが,母国の政情不安定のため,99年に再び米国にやってきたとのこと。米国籍をもっており,今度は米国に永住するとのこと。幸い10歳になる一人娘の成績が良いので,医者にしたいとのこと。黒人女性は化粧のとき何を顔に塗るか聞いてみたら,茶色の肌が美しいので,これを目標にするとのこと。おしろいやおくろいではなくて,おちゃろいと言う所だろうか? そう言えば,coffee with creamがきれいだと昔,前田先生が言っていたのを思い出す。昨日からの懸案が解決できた。
空港には12時少し過ぎに着く。すぐにフライトのチェックインをした後,みやげを買う。ここまでは大変順調であったが,これから先はハプニングの連続となる。連日の睡眠不足のため,集中力が落ちているので,気が付いたら予定していたフライトの出発時刻になっていた。大急ぎ搭乗ゲ−トまで行くが後の祭で置いてきぼりを食ってしまう。無常にも預けた手荷物はロスに飛んでいってしまった。仕方がないのでUAの係員の黒人のおばさんに相談すると,ニュ−ヨ−ク経由のロス行きを見つけてくれる。本来だと,ワシントンを13:10に出発して,ロスに15:30頃に着くはずなのに,20:20になってしまう。
取りあへず気を取り直して,ニュ−ヨ−クに向かう。ニュ−ヨ−クまでは,20人乗りほどの小型のプロペラ機である。こんな感じの小型機には乗ったことがないので,嬉しくなる。大型のジェット機とまったく違う乗り心地で大変面白い。それと飛行高度も低い,多分2000m位ではないだろうか? 雲の下を跳ぶので,地上の景色がとてもよく見える。飛行速度も遅いので,景色がゆっくりと変わってゆく。ちょっとした遊覧飛行である。海沿いに飛んで行くが,アメリカは広い国なので,自然の中にうまい具合に集落ができている。日本のような狭いところに住んでいるものにとっては,自然環境と人間の生活がうまく調和している感じで羨ましい限りである。1時間半ほどのフライトでニュ−ヨ−クに着くと,空港は一面の雪で滑走路だけが除雪されている。
早速つぎのロス行きのフライトを聞いてみると,その便はキャンセルされたので,メインカウンタ−に行けと言われる。多分,雪の影響がでたのであろう。UAのメインカウンタ−でつぎの便を探してもらう。18:45の便でどうかというので,文句なく飛びつく。ロス到着は22時以降になるので,今晩とまる予定のロングビ−チのウエスチン・ホテルに電話をすると,ミスタ−・イッシキの予約は次の日からだという。これは大変なことになったと思って,こちらの予定を話すと,予約を今晩からに変更してくれる。遅くなっても,ノ−プロブレムとのことなので胸を撫で下ろす。自宅に電話して,妻と娘にニュ−ヨ−クのJFK空港にからと告げる。簡単に状況を説明したら,ひとごとだと思って喜んで聞いている。
この空港では面白いものを見つけた。公衆電話のようなブ−スの中にインタ−ネットの端末が置いてあって,しかも無料だと言う。ブ−スが6個あって,その内2個が空いている。使っている人に使い勝手を聞いてみると簡単だというので,試してみることにする。スタ−トボタンを押しても反応がないので聞いてみると故障だという。残りのもう1台も故障らしく電気が入っていないので,諦めることにする。こんなのに夢中になってまた置いてきぼりを食ったら,今度は万事窮すだから自重する。お陰でなんとかロス行きに乗ることができた。やれやれである、その機中でこの文章を書いている。無事にロスに着きますように! ゴッド・ブレス・ミ−である。
22:00にロス空港に着く。UAの女性にバゲッジの預り証を見せて相談したら,バゲッジクレ−ムに行けというので,ともかくバゲッジクレ−ムに行く。ここでまたUAの係りの女性に聞く。計算機をかちゃかちゃ叩いた後で,No. 2のコンベヤ−を調べろというので,言う通りにするが一向に出てこない。出て来ないんだけどというと,同じ階の外れにある事務所に行けという。事務所に行って係りの女性に相談すると,バゲッジのチケットを見せろという。見せると,例によってまた計算機をひとしきりかちゃかちゃ叩いた後で,重々しくちょっと待てと行ってから奥に入った。しばらくすると,行方不明になっていたバゲッジを持ってきてくれる。やれやれである。衣類はすべてこのバゲッジに入れてあったので,出てこなかったら,着たきりすずめになるところであった。小生のようなバゲッジのトラブルをおこす旅行客は結構いるのではないか? そのためのマニュアルがコンピュ−タの中にあって,マニュアル通りにあっちこっち動かされた気がする。
タクシ−を雇って30分ほど掛けて,ロングビ−チのウエスティン・ホテルに着く。フロントには大女の中年の白人女性と,アジア系の若い女性がいる。大女にチェックインしたい旨伝える。ラストネ−ムを伝えると,貴方の予約は明日チェックインすることになっているという。ここでニュ−ヨ−クから電話したことが俄然生きてくる。電話で予約を変更したと繰り返し言っていると,若いアジア系の若い女性と相談している。このアジア系の女性が助け船を出してくれて,計算機のデ−タを書き換えることになる。なんとか部屋の鍵を受け取って部屋にたどり着く。部屋に入ってびっくりしたが,高級ホテルである。ダブルベッドのような大きなベッドが2台置いてあるツィンル−ムである。困るのは高級ホテルだから,なんでもかんでもお金が掛かることになっている。貧乏人には性に合わない。
 ひとしきり荷物の整理をしたり,バスに入った後でベットに入るが眼が冴えていていて眠れない。今日は本当にいろんなことがあった。
 
2001.01.22(月) 晴
 
睡眠 00:30→02:30,04:30→06:30
 
NTM ION 2001 in Long Beach, CA
 (National Technical Meeting, Institute of Navigation)
at Westin Hotel, Long Beach
24日午前に,Session D1-Algorithms and Methods Uで
下記講演を行う。
Variation Measurements by VD/GPS Method Over Very Long Baseline
 
プレナリィ・セッションで衛星の打ち上げ責任者の話を聞く。日本にいては考えられない。25ドル払うと,IONの正会員になれるというので,25ドル払う。
IONの会長は,カレン・ファンダイクさんという女性である。NOAAのム−アさんといい,アメリカでは本当に女性が大活躍している
日本人らしい人がいたので挨拶したら,フルノの福田さんであった。一緒に昼食をり,いろんなことを話し合う。その後で,ヨットハ−バ−を見に行く。
なかなかいい人である。専門知識もしっかりしている。ジャイロコンパスの原理を教えてもらう。
立命館大学の杉本教授,熊谷さん(多摩川精機),久保さん(D2),木原さん(M1)と会う。杉本先生のところには,大学院生が24名いるとのこと。フルノ,立命館とは補完関係できそうと思うが,今までの経験から言うと,帰国してからも付き合いが継続することはほとんどない。杉本教授が提唱している冠講座の話も面白い。企業に一人年間300万円負担してもらい,会社の技術者一人を大学で引き受ける。300万円の内,20%大学に入れた残りを人件費とする。研究費は勝手に集めてもらう。
GPSの干渉測位法で有名なカウンセルマン教授に会う。よぼよぼの爺さんと思っていたら意外に若いのに驚く。ミスタ−・ホ−ルからカウンセルマン教授と発表した論文のコピ−をもらう。なかなか面白い
台湾の成功大学航空宇宙工学科の何教授と話す。彼がやっているドップラ−による速度計測の話は,最近考えていたことなので,有益であった。ただし,研究のやり方と結果には多少問題がある。デ−タをもらえないであろうか?
ATTのテレホンカ−ドを買う。DIGITECのものとの違いを調べる予定である。ロビ−にあるインタ−ネットの端末を試してみる。使い方は大分分かったが接続できるまでには至らなかった。
 
2001.01.23(火) 晴
 
睡眠 22:30→02:15,05:30→07:30
 
JPLのドクタ−ザンバ−ジの講演を聞く。我々にとって,極めて重要な情報が得られた。講演の後で聞くと,今回の訪米の目的の一つである洋上の浮体の測位がPPPで可能だとのこと。JPLが行っている全地球的なサ−ビスのことで,衛星時計の修正値などの測位パラメ−タを15分以内に求められる。また,計測結果をライネックス変換したものを用意するとPPPによる座標が求まる。我々の所では洋上のプラットホ−ムの測位に大いに感心があるが,PPPでそのようなことが可能かを聞く。「動いているもの(キネマチック)の測位はまだ完成していない。アルゴリズムは完全に出来上がっているが,予算がついていないので実用化していない。予算ができれば1週間でできる」とのこと。カナダのグル−プとの違いは,カナダのグル−プが地域的サ−ビスなのに対して,JPLは世界的とのこと。今後の協力をお願いする。若い人をJPLに派遣して,勉強させたら面白い。
カウンセルマン教授とAM放送利用の測位法について議論する。アプリケ−ションとしては,消防夫のロケ−ションなどを考えているとのことと。建物の中で,どの程度使えるかは実験してみないと分からないとのこと。いろいろ話してみると実に面白い人物である。電波天文学,測地学,電子工学が専門で,キネマチックをやったのは20年前で,現在57歳とのこと。MITでは7人のうち,1人しか生き残れないとのことで,物凄い競争社会であるらしい。
台湾の成功大学の何慶雄教授とディスカッションする。衛星の高度角と方位角について,もっと簡単な計算法があるのではというとその通りだという。彼のところはアシュテックの受信機なので速度の出力があるが,我々のところはトリンブルなので速度の出力がない。そこで,デ−タの提供を頼んだらOKだという。地殻変動計測の方が本業だという。
ソウル大学の奇昌敦副教授と話をする。造船の李起杓教授のことを話すとよく知っているとのこと。
立命館杉本先生と学生のグル−プ,フルノの福田さんと日本レストランに食事に行く。ロブスタ−・アンド・テンプラというのを注文したら,食べきれないほどの凄い量が出てきたので,びっくりする。味は悪くない。ミソス−プというのも付いてきた。味噌汁のことである。まずくないが,お椀の中にレンゲが入って出てきたのにはびっくりした。メキシカン的な小柄でキュ−トな娘がサ−ビスしてくれる。臍だしファッションをしているが,わき目もふらず一生懸命働くので感心する。
インタ−ネットは何回やってもうまくいかない。
サンディエゴへのトランスポ−テ−ションのことを係りの女性と相談したら,セダンサ−ビスが良いというので予約する。3時間ほど掛かるとのこと。料金はチップ込みで140ドルほどである。
 
2001.01.24(水) 晴
 
睡眠 22:3000:30
 
1/24 in, 1/25 out
West Gate Hotel, San Diego
 
いよいよ我々の論文の発表の日になった。セッションのチェアマンは,マサチュ−セッツ工科大学(MIT)のカウンセルマン教授とオランダのデルフト工科大学(Delft University of Technology)のジョンクマン博士である。朝食のときに,本日開かれるセッションのチェアマンおよび発表者が集まって顔合わせおよび打ち合わせをする。最後に事務局から一般的な注意がある。米国の学会はここら辺の手順がとても上手である。各セッションの関係者がそれぞれ一つのテ−ブルに座るが,我々のテ−ブルに座っている一人がひどく落ち着かない様子である。見たところ30台半ばで立派なひげを蓄えている。聞いてみると,こういう所で発表するのは初めてだという。欧米人は決して上がらないというのが我々の常識であるが,やはり例外はあるものである。どういう理由か知らないが,この人の発表は取り止めになってしまった。
小生の英語力に問題があるのかも知れないが,質問はなかった。別の見方をすると,我々の論文は他の論文とかなり毛色が違うので,すぐに質問できなかったのだと思う。このアイデアは共著者の一人である電波天文学者の土屋教授によるものであることを,冒頭に述べておいた。
セッションのチェアマンをしていただいたお陰で,カウンセルマン教授とジョンクマン博士とは親しくなった。特に,カウンセルマン教授とはランチを共にするなど大変親しくなりました。セッション終了後に,カウンセルマン教授の意見を求めたところ,長基線の場合には,日によって電離層の影響が強く出ることがあるので,L1波とL2波の電離層影響をキャンセルする線形結合を検討しておくべきだとのこであった。この問題は,土屋先生のご指摘もあって,出発直前まで調べていたのだが,トリンブル社の受信機のせいかも知れないが,L2波の信号雑音比が悪くて改善の見込みがなかったので,あきらめていた。そのことを言うと,アシュテック社の受信機ならば,L2波の信号雑音比はそんなに悪くないとのことであった。土屋先生の話では,トリンブル社はL2波の検波をアシュテック社に特許で抑えられているので,かなり無理があるとのことですが,そのことだろうか?
カウンセルマン教授は,なかなか愛敬のある人で,ユニ−クな存在のようである。想像していたよりもはるかに若かったので,年齢を聞くと57歳とのことであった。小生よりも3歳年下である。MITでは,7人採用されても一人しか教授として生き残れないそうで,日本では考えられないような激しい競争のようだ。激しい競争には,当然,良い面と悪い面があると思われるが,MITの力の源泉であることには間違いないであろう。MITの教授を動物になぞらえると何だろうかと言うことで,小生が狼はどうだろうかというと,大分考えてから雄のライオンだと思うとのことであった。狼は家族の連帯の強い動物であるが,雄のライオンは孤独な存在だとのことであった。興味深い例えだと思う。
 
2001.01.25(木)
 
13:30  Scripps Institution of Oceanograpphy,Munk教授訪問
海底地殻変動計測,海洋音響トモグラフィ
 
San Diego(1710)からSeattle Takoma(2000)に移動
 
1/25 in, i1/27 out
Hilton, Seattle
 
予定した通りにホテルをでた。タクシ−でスクリップス海洋研究所に行く。途中,ドライバ−がスクリップスの由来をいろいろ話してくれる。体の大きな気のいい人物である。スクリップスというのは,有名な新聞経営者の名前で,新聞販売で得た巨万の富を使って,気候温暖風光明媚なこの地に広大な土地を買収して,大学や病院などを作って,寄付したとのことである。
5分ほど遅れて着く。どうも様子がおかしい。研究所の入り口とは思えないが,ドライバ−は自信満々である。門の所で聞くと,水族館とのことである。水族館の事務所でムンク教授のオフィスを調べてもらう。ドライバ−がえらく恐縮する。やっとのことでたどり着くと,ムンク教授が建物の外に出て迎えてくれた。建物にムンク研究所という名板がはめ込まれている。聞きしに勝るとんでもない大先生である。夫人が建築家で,この建物を設計されたとのことであるが,木材をふんだんに使ったユニ−クな建物である。日本の建物に似ていないかとおっしゃる。確かにそんな感じの建物である。
まず,帰りの時間を相談する。17:10にサンディエゴを発って,シアトルに行く予定だと伝えると,秘書がフライトの確認をしてくれる。昨年,東大の奈須紀幸先生の勧めで論文をお送りした話から切り出す。後は用意しておいたパワ−ポイントを使って説明する。日本からの機中で作成した自己紹介は我ながら便利である。これを使うと,的確に自分の履歴とか,現在興味を持っていること,今回の訪米の目的などを伝えることができて,短時間で効率的に情報交換ができる。
ムンク教授は,「実験の裏づけのないものは一切信じない」という不動の信念をお持ちであるらしい。この点は絶対に譲らない。理論も大切だが,あくまでも出発点であるとのことである。
学生のときに,風波予測に関するスベルドラップ・ムンクの理論を教わったと話すと喜んでくれた。この研究をされたとき,スベルドラップが55歳でムンク教授が20歳であったという。1938年にヒットラ−がオ−ストリアを併合したときに米国に移り,まず米陸軍の仕事をしたとのことである。その後は,ずっと米海軍の仕事をしており,23年前に京都賞を受賞したときには,在日米国海軍のアドミラルがずっとアテンドしてくれたとのことで,これにはムンク教授は大変感激された模様である。ユダヤ人であったため,ナチスに追われて米国に逃れたムンク教授にとって,本当に感無量のことであったと思う。聞いているこちらも思わず感動してしまう。
奈須先生からお聞きした氷河時代の話を聞く。奈須先生が人類のサバイバルのためにチャイニ−ズ・グレ−ト・ウォ−ル・プロジェクト(万里の長城計画)というものを提唱されていることを伝えると,にこにこして聞いておられ,実はこの話が一番したかったのだという。
お年をお聞きすると,83歳だとおっしゃる。とてもお元気で,今でも毎日フルタイムで働いておられるとのことである。小生は,昨年の12月に60歳になったのでそのことを伝えると,ユウ・ア−ル・スティル・ヤングと言われてしまい,大いに元気付けられた。著名な経営学者のドラッカ−教授は100歳を過ぎていると思うが,今でも積極的に社会に発言されている。現在はNPO(非営利団体)の大切さを説かれているということを,テレビ番組で見たことがある。欧米の社会では,本当の意味で学者を大切にするところがある。
日本では年取ってからも意欲的な学者がいるかと聞かれるので,ほとんどいないと答える。日本の社会では専門家よりも管理者が偉いということになっていて,みな管理者を目指すのでリタイアの前の10年ほど管理の仕事をやって,専門家としては駄目になってしまうと話す。小生の個人的な意見であるが,そんなに的外れではないと思う。まったく残念なことである。
秘書が帰りのタクシ−の手配をしてくれる。帰りのタクシ−のドライバ−と小生の方をちらちら見ながら,なにやら熱心に話し込んでいる。どうも憤慨しているらしい。なんとなく理由が分かったので,多分往きのタクシ−の料金がリ−ゾナブルでないということかと聞くと,とんでもない話だという。30ドル位の所を50ドル取っているという。どうして秘書嬢が往きのタクシ−の値段を知っているかというと,とても良いドライバ−で帰りも迎えに来てくれるというから,ここに電話して欲しいとレシ−トを渡したためである。このドライバ−とは,とても話があったので,本当にだまされたのかどうか未だに分からない。
 
2001.01.26(金) 快晴
 
睡眠 23:00→2:00,5:00→7:00
 
NOAA PMEL in Seattle Dr. F.Gonzalez訪問 津波,海洋波浪
 
9時に越村さんが迎えに来てくれる。京大の津田先生からのアレイ・アンテナに関する問い合わせのイ−・メ−ルのハ−ドコピ−を受け取る。PMEL (Pacific Marine Environmental Laboratory) に向かう車中で,津波の検知法について議論する。計算値による波の時系列と計測値の時系列の相関を見る方法を考えていることを話す。
早目に付いたので,越村さんの部屋でパソコンを借りてイ−・メ−ルを見る。娘にメ−ルを転送するように頼んでおいたが,届いていないようだ。後で分かったが,実は届いていた。次ペ−ジに新しいメ−ルがあったのだが,それに気かなかった。旅の疲れのために,大分頭が働かなくなっている。今回の旅では,いくつか忘れ物をしてしまった。忘れ物をしまいと思って,十分に注意するのであるが忘れてしまう。ワシントンで乗ったタクシ−で読書用の眼鏡,サンディエゴのホテルでお気に入りのブル−のワイシャツを忘れてしまった。
津波プロジェクトのリ−ダ−のドクタ−・ゴンザレスにお会いする。昨年6月に東京で開かれたWPGMであったこと,我々の論文のチェアマンをしてくれたことを,お互いによく覚えているのに驚く。昨年お会いしたときには,こういう形で再会しようとは夢にも思わなかったのであるが,見えざる手によるお導きのような不思議な縁を感ずる。ドクタ−・コロンボのこと,東北大の今村先生も同じ会議に出席されていたことなど,いろいろお話する。こんな次第であるから,百年の知己が再会したような感じになった。幸先良しである。
毎週金曜日にはコ−ヒ−・ミ−ティングを行っていて,情報交換と懇親をやっているので,そこでみんなに紹介してくれるという。PMELの所長を始め,2,30名程の人が集まって,ビスケットやド−ナッツと飲み物で談笑する。こういう集まりを毎週開くことが,一体感を保つ上で欠かせないとのことである。今週のゲスト3人の一人として紹介される。その後で,ドクタ−・ゴンザレスが個々の研究者を紹介してくれる。
コ−ヒ−・ミ−ティングの後で,ミスタ−・スタ−リンが工場を案内してくれる。この人は計測システムの中枢部である圧力センサ−を担当した人である。日本と違って,自前の工場に旋盤を始めとする工作機械を備えている。圧力によって同調周波数の代わる圧力計(分解能1mm,ダイナミック・レンジ0〜数100m?),バッテリ(市販の乾電池),アコスティック・リンク,ブイ本体などを見せてくれる。バックグラウンド・ノイズを減らす工夫を,若いミスタ−・スタ−リンが誇らしげに説明してくれる。こういう人が津波プロジェクトを支えているのであろう。深い感銘を受けたので,そのことをドクタ−・ゴンザレスに告げると,ミスタ−・スタ−リンは信頼できる男だと言う。
工場見学の後で,PMEL全般および津波プロジェクトの基本的な考え方,進行状況の説明を受ける。米国沿岸20箇所位に設置予定で,米国の計画は着々進んでいるとの印象を受ける。太平洋全体で50箇所設置するのが夢であるらしい。日本,ロシア,韓国,中国,フィリピンなどの多くの国の協力が要るとのことである。日本の現状をいろいろと聞かれる。大船渡に新しいブイが入ったことを伝え,日米比較表作成に必要な質問に答える。小生は津波モニタ−ブイそのもののことはあまり知らないので,詳しいことは加藤教授に聞いて欲しい旨伝える。
広報担当の女性も同席して議論に参加しているのが大変参考になった。日本の場合にも広報担当者はいることはいるが,積極的に議論に参加することはない。津波伝播理論計算担当のチトフも参加している。スタ−リンとかチトフとかロシア人が沢山いるねと上段を言う。チトフさんは,ロシアの宇宙飛行士ガガ−リンの次に地球周回飛行を行ったあのチトフと遠い血縁だという。おじいさんが同じ村からやってきたらしい。テレシコワとかヤ−・チャイカというと喜んでくれる。
昼近くになったので,ランチに行く。アメリカの食事は,日本人にとってはヘビ−なので,サラダとパンとヨ−グルトを取ることにする。レジの男性は全盲の人で,客の方で何を取ったかを告げると,計算してお金を受け取った上でおつりをくれる。この人は,20歳のときに頭部を拳銃で撃たれて視力を失ったそうである。もともと空手の達人で,今でも女性に空手を護身術として教えているとのことである。ドクタ−・ゴンザレスによると,米国では身障者の雇用が厳しく義務付けられているが,日本ではどうだという。日本にも法律はあるが,抜け道がいろいろあるみたいで,重症の身障者が雇われるケ−スは少ないと伝える。米国社会と日本社会との違いを垣間見る気がする。
ランチの後,外に出て散歩する。今日は珍しく天気に恵まれたとのことである。シアトルは大変雨の多いところらしい。NOAAは湖の周辺にあるので,とても美しい。太平洋のせいで気候温暖で,雪や氷は少ないとのことである。実に羨ましい環境である。我々の研究所もウォ−タ−・フロントにあるが,もう少しなんとかならないものだろうか? ドクタ−・ゴンザレスは子供はなく,4年前に奥さんを亡くしたが,幸いにも再婚の相手に恵まれてとてもラッキ−だという。人間は精神的に弱い存在だというと,しみじみその通りだという。もともとは津波の伝播理論を研究していたらしい。1939年の生まれだというから,小生よりも一つ上の61歳であるが,まだまだ意欲的である。
1時半から小生のセミナ−が始まる。大統領の就任式を見たいということの連鎖反応でここまで来たわけであるが,所長を始めとする20名ほどの人の前で話をすることになった。英語で複雑なことを,しかも相手の興味や理解度がよく分からない場合にすることは,大変難しいことがこれまでの経験で分かっていたので,一応十分に準備したつもりである。こういう目的には,ノ−トPCは実に役に立つ。おかげでなんとかレクチャ−を終えることができた。レクチャ−の冒頭に,自己紹介をパワ−ポイントでやったら,これはなかなか受けた。始めての人に会う場合,この方法は我ながら効率的な方法だと思う。NOAA本部,ムンク教授,NOAA PMELと3回使ったが,いづれも好評であった。動画は既に入っているので,つぎは音を入れてもっと自動化しようと思う。英語で話をするのは,体調の悪いときには本当にこたえるので,十二分の準備をすることが大切である。
3時半頃にはすべてが終わったので,越村さんにホテルまで送ってもらう。ホテルに着いて荷物の整理をする。ドクタ−・ゴンザレスの所に書類袋を一つ忘れてきたことを思い出す。ドクタ−・ゴンザレスは既にオフィスを出ていたことが分かっていたので,越村さんに電話するがつながらない。留守番電話にメッセ−ジを残すが,心配なのでホテルの気付でイ−・メ−ルを打とうと思ってコンセルジェに相談するが,ホテルから打つことはできないという。近くにビジネス・センタ−があって24時間開いているので,そこに行けという。地図に印を付けてもらって行く。何とかイ−・メ−ルを打つことに成功したので,ホテルに戻ってディナ−を取る。シ−バスを頼む。スズキだと思うが,白身の魚でなかなか美味である。料理を待っている間にうとうとしてしまい、ウェイトレスに起こされる。
家に電話をする。成田が大雪で大変だという。飛行機の予定が変わったら連絡すると伝える。10時にベッドに入る。米国最後の夜である。疲労もあるが,解放感もある。本日のレクチャ−もまずまずであった。辛うじて合格点が取れたと思う。
 
2001.01.27(土)   Seattle Takoma発1225
2001.01.28(日)   Narita着1545,NH7031
2001.01.28(日)   Narita発1900,Osaka Itami(2015) NH79
終わり


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