2001.09.20-09.24
テロ事件とアメリカのジャーナリズム

 9月11日(火)の午前7時頃,筆者はホテルの送迎バスに乗っていた。ニューヨークに発つ甥を見送るために,ソルトレーク空港に向かうためであった。ペンタゴンに飛行機がクラッシュしたというラジオ放送を車中で聞いたが,まさかと思い,てっきり聞き間違えたと思った。筆者の語学力では,残念ながら走っているマイクロバスの車中というような状況では,十分に聞き取れないのである。
 空港について搭乗カウンターに行くがいつもと変わらない。十分に時間的な余裕を取って来たつもりであるが,搭乗手続きは遅々として進まない。うっかりすると乗り遅れてしまうと思い,係りの人に聞くが要領を得ない。ともかく待てという。その内に,搭乗手続きがまったく進まなくなった。これでは完全に遅れてしまうと思い事情を聴きに行くと,いきなり家に帰れという。自分たちも帰るという。何故だと聞くと,ニューヨークで飛行機がクラッシュしたので,全米の空港が閉鎖されたのだという。
 半信半疑でいると,周りの人がどんどんいなくなる。仕方がないので,我々もホテルに逆戻りすることにする。帰りのタクシーのドライバーに聞くと,ワールド・トレード・センターがやられたという。大変な事故ですねというと,事故ではないテロだという。
 ホテルに戻っていろいろ聞いてみると,どうも大変な事件が起こったようで,全米のすべての空港が閉鎖されてしまい,飛行中の飛行機はカナダとメキシコに向けられたという。とてもニューヨークに行ける状況ではないし,数日は身動きのできない状況なので,空港から出戻ってきた甥の部屋を頼むと,他の客の予約があって駄目だという。取り敢えず筆者の部屋に居候させることにする。
 部屋に戻って,テレビを見ていると,事件の全貌が段々と分かってくる。ハイジャックされた飛行機は3紀ないし4機で,2機がワールド・トレード・センターに突っ込み,1機がペンタゴンに突っ込んだが,これ以外にピッツバーグ周辺でクラッシュした飛行機が1機あるという。ただし,最後の1機は単純に事故なのか,ハイジャックされたのか不明とのことである。
 ソフィストケートされたコーデネイテッド・スーサイド・アタックだという。なるほど英語ではこういう表現をするのかと,変な感心をして見ている。2機の飛行機が時間を置いて,相次いでワールド・トレード・センターに突っ込む場面が何回も何回も放映される。
 しばらくすると,フロリダに行っていたブッシュ大統領の特別声明が流される。今回のテロは,文明に挑戦する野蛮卑劣なものであり断じて許しがたいと述べる。アメリカは必ず首謀者を捕らえると決意を表明するともに,国民の団結を訴える。その内に,4機目もハイジャックされたものであり,これは大統領を狙ったものであったらしいことが報道される。
 これからが本筋の話になるが,アメリカのジャーナリズムの報道の仕方を見ていると,日本とは大分違う。冷静さを失うことなく事実を淡々と報道している。過度の悲嘆や的外れの非難攻撃はまったくない。30分ほどの間隔を置いて,二つのタワービルが相次いで攻撃を受け,しばらくして潰れてしまう有様が何回も何回も画面に出て来る。2機目の攻撃を目の当たりにした市民が逃げ惑う様など,被害の凄まじさが余さず伝えられる。
 我々外国人には分からないが,アメリカ人の心痛はいかばかりかと思う。ニューヨーク市長のジュリアーニ氏が,ニューヨーク市の消防夫と警察官に多数の犠牲が出てしまったことを直接説明している。ともかく未曾有の大事件である。日本だったら,さだめし政府の対応の拙さに対する非難の報道が噴出していることと思うが,その手のものは一切ない。政府の対応を信じて,政府を全面的に支持して,団結を固めようという姿勢が時とともに醸成されてくる。
 日本もアメリカも民主主義の国である。しかし,両国の民主主義には大きな違いがあるようである。成熟度がまったく違う気がする。その一つがジャーナリズムの違いではないだろうか?残念ながら日本のジャーナリズムとアメリカのジャーナリズムとの間には,成熟度において天地雲泥の差があると言わざるを得ない。日本のジャーナリズムの現状はセンセーショナリズムで,事実の報道よりも,騒ぎの報道が優先されているため,受け手に大変な誤解を植え付けているような気がする。
 今年の1月に米国を訪問する機会があった。たまたまブッシュ大統領の就任式の直前であったので,ワシントンまで足を延ばして就任式を見物した。就任式の見物といっても,招待されている訳ではないので,議会の近くに設けられた就任式場とホワイトハウスの間を大統領が往復する際に通過する,ペンシルベニア・アベニューの歩道に設けられた見物席で立ち見するだけのことである。あいにくの悪天候のため,小雨の中を震えながら5時間近く立っていた。今回の選挙は大接戦で開票にも問題があったので,民主党員の中には結果を認められないとするものが多数あったため,民主党員のグループと共和党員のグループとの間に激しい野次の応酬があったが,筆者の見る限り,あくまでも言葉の上の応酬で暴力的な衝突は見掛けなかった。ともかく主張すべきは主張する。そのことと,いかなる手段を使っても,あくまでも自説を通そうとすることは別だという認識が十分に感じられる。長い民主主義の歴史の中でルールが形成されているのであろう。
 帰国した後で聞いてみると,日本の報道ではかなりの騒ぎがあったことになっている。確かにホワイトハウスの近くで騒ぎはあったようであるから,誤報道とはいえないが,騒ぎの部分が肥大化されて報道されており,誤ったイメージを与えていることになる。その後の米国世論の動向を見ても,民主党員の不満は沈静化されており,米国民はブッシュ氏を正統な大統領として受け入れているのである。
 今回のテロ報道でも,アメリカ人は大変なショックを受けて,悲嘆落胆の淵に沈んでいるかの報道が日本でされているが,どうも違う。現地で周りのアメリカ人を見ている限りにおいては,彼らはとてもたくましい。やられたらやり返す,一切遠慮はしない,という感じである。時間が経つにつれて,国論が統一されて行く。各地の教会はミサを開いて犠牲者の冥福を祈るとともに,アメリカの団結を訴え,テロリストは悪魔であり地上から抹殺されねばならないとの判断を示す。ミサの様子がテレビで放映される。ジュリアーニ市長が何回もテレビに登場して,現状の説明を繰り返すとともに,ボランティアの募集と輸血への協力を訴える。
 クリントン前大統領を始め,さまざまな人が大統領の下に団結すべきことを説く。外国政府からも続々と支援声明が出される。上院は全員一致で大統領支持決議を可決し,大統領に全権を与える。それに応えるかのように,これはテロリズムとの戦争であること,アメリカはテロの直接の関与者ばかりでなく,支援者も一切許さないこと,国際テロを根絶やしにすることを大統領が宣言し,全軍が臨戦態勢に置かれたことを伝える。
 ホワイトハウスにはチェイニー副大統領がおり,大統領はフロリダからジョージア州の某軍基地に向かったことが報道される。テロの波状攻撃を警戒して,周到な対策が取られる。このような場合に,大統領と副大統領が同じところにいることを避けるのは,核攻撃などの非常事態に備えて,マニュアル化されているのであろう。
 テロリストはワールド・トレード・センターの柱を潰すことはできても,アメリカという国家の柱を潰すことはできない,と大統領は国民に告げる。国家は安泰であることを強調し,国民がいつもと変わらぬノーマルな生活をするようにと訴える。短時間のうちに,国全体が一つの方向に向かって意思統一されて,大統領の下に結束して行く様は実に見事である。日本ならば,さだめし,したり顔の専門家が出て来て,ああでもない,こうでもないと愚にもつかぬ見解を表明して国民を混乱に陥れることと思う。
 最近の靖国問題を見ても,日本のジャーナリズムの報道は理性的でない。中国や韓国の政府や民間人の意見を求めれば,反対せざるを得ない。彼らが賛成することは立場上あり得ないことである。彼らの反対を世界世論の大勢のように報道することは誤りである。確かに誤報道ではないが,さりとて正しい報道とは言い難い。
 日本とアメリカのジャーナリズムの違いは,長い歴史の違いによるのであろうが,日本のジャーナリズムは理念を喪失してしまったのではなかろうか?受け手に正確に事実を伝えるよりも,受け手の歓心を買うコマーシャリズムに毒されているような気がしてならない。
 アメリカは明確にテロに対する報復を宣言して,直接行動を取ることを宣言している訳であるが,これによって多くの新たな犠牲者が出る訳であるから,アメリカの自重を望む声が当然あり得るが,そのことの是非はこのテロ事件をどう捉えるかによる。テロの首謀者を捕らえない限り,この事件は再発必至であるから,絶対に首謀者を捕らえる必要がある。
 キリスト教の教えに右の頬を打たれたら,左の頬を出せというのがある。アメリカの力による報復は,キリストの教えから見たらおかしいという考え方もあろう。しかし,右の頬云々の忍耐を説くのは,相手が迷える子羊の場合であって,犯罪者に対するものではないということであろう。ましてや今回は悪魔と決め付けられているのである。宗教的になんら矛盾しないということであろう。
 今回の犠牲者の追悼ミサで,高名な聖職者が愛は憎しみよりも強いと説いていた。このことは正確に言うと,テロリストが世界に向ける憎しみの感情よりも,キリスト教徒の愛の方がはるかに強くて,テロリストという悪魔を,最後には地上から抹殺できるという激しいもののようである。テロリストが悪魔であり,地上から抹殺されるべきものだということには,いささかの迷いも感じられない。我々のように,仏教的世界に育ったものにはその厳しさに眩暈する思いがある。このような事態になってから言っても始まらないが,いつか今回のテロ事件が一応の終結を見るときに,何故テロが発生するかという問題が突きつけられることと思う。今回の問題が解決したからといって,テロの根絶には程遠いのである。そのようなときに,仏教徒的優しさやあいまいさが,この問題の本質的解決のときに必要となるのではあるまいか?
 民主主義が正しく機能するかどうかは,ジャーナリズムのありように大きく依存している。現在の日本のジャーナリズムのありように疑問を抱くのは,筆者ばかりではないと思うがいかがであろうか?
終わり


ホ-ムペ-ジに戻る。