2003.05.25
避けて通れぬこと

 筆者もまだ学会で発表することがある。先日、そのような機会があり,現役の大学の先生にあった。筆者よりも10数年若いまだまだ盛んな年代である。「最近どんなことに関心がありますか」と聞かれたので,「自分が死ぬということが、現実の現実の問題になってきました」と応えた。ちょっと驚いた顔をされたが,すべての人が避けて通れないことである。
 会社を退職するまでは,ときたま考えることはあっても,まだまだ先のことと考えていた。しかし,朝起きても行くところもなく,人に会うこともほとんどないような自分だけの生活に閉じこもる状態が続くと,否応なしに考えることになる。「自分が死ぬ」ということの現実感が急速に増大する。自分の人生が起承転結の「結」,シンフォニ−ならば第4楽章に入ったことに,正面から向き合わねばならない。苦しく気の滅入ることであるが,すべての人が避けて通ることができない。
 世の中には,筆者の悩みなどとは比べ物にならない深い悩み,苦しみを持っている人が数多くあろう。我が子を失った親の苦しみは例えようがない深いものである。このような悩み,苦しみに比べたら,筆者の悩みなど取るに足らないものかもしれないが,本人にとっては深刻なものである。
 犬や猫のような動物には,「死の自覚」とか「死の恐怖」はないであろう。神様から知恵の木の実を貰った人間は,その代償としてこのような重荷を荷わされたのであろう。人間は知恵によって万物の霊長になった。しかし,そのために払わねばならない代償も非常に高いものであるといえよう。ボケ老人になることも一つの解決法であろうが,まわりはたまったものではないし,正しく死と付き合う方法ではない。
 常に死を意識するということは,どういうことであろうか?一種の軽いノイロ−ゼであろう。常に心が満たされない。常に不安がある。なにか寂しい。というのが目下の筆者の心境である。不安を鎮めて,平和な心境を保ちたいと思うのだが,思うようにならない。柄にもなく仏教の本でも読んでみようかという心境になって,図書館に行って瀬戸内寂聴師による般若心経の解説書を借りてくる。こういうときが,仏様との縁ができたときということらしい。仏教者はうまいことを言うものである。
 30年以上前に,山田無文師による般若心経の解説書を読んだことがある。そのときにも面白いと思ったが,それは頭で理屈を理解しようとする行為であった。年取ってから改めて読んでみると,まったく別の感銘がある。自然に分かるのである。もちろん正確な意味はなかなか分からないが,すっと心に染み込んで来るものがあるある。般若心経ではないが,親鸞の言葉に「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」と言う言葉があるが,この言葉の真意はどんな子供にも分からないが,ある程度人生の苦労を積んだ者なら,どんな人でもなんとなく分かるであろう。あまり理解力とは関係がない。人生の苦を味わって初めて,共鳴できるのである。
 筆者なりの解釈では,般若心経から得られるメッセ-ジは,「ものごとに対するあなたの考え方の中で,基本的なところで誤りがあります。あなたが今まで疑うことなく信じてきたことに問題があります。絶対不変なものはひとつもありません。すべてものが限りない変転をします。誤った認識は欲望と執着を生みます。欲望と執着を捨てなさい。それを行えば,平安な心境を得ることができますよ」ということであるらしい。筆者の理解は正確でないかも知れないが,まったく見当違いでもないであろう。
 確かに我々はいつまでも生きていたいと思う。しかし,生まれて死なないということはあり得ない。不老不死は我々の夢ではあり得ても,それは不可能事である。お釈迦様の教えは,「このような誤った願望は欲望と執着を生む。欲望に執着することは正しくない。ものごとをありのままにみて,正しい願望を持つことが肝要で,それを実践することによって心の平安が得られる」ということらしい。
 筆者はまだ60代に入ったばかりである。この先何年生きるか分からない。平均余命からいえば,まだ20年くらい生きられそうであるが,明日死ぬかも知れない。残りの人生で最大の課題は,自分の死といかに向き合うかということである。逃げることなくしっかり付き合わねばならない。



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