天国と地獄
                    一色 浩(1999.11.23)

1
 とある昼下がりであった。午前中の実験を終えて学生食堂で昼食を取ったばかりの大学院生4人が、菓子パンをかじりながら歩いていた。
「実験のときは、腹がすくなぁ!」
「今度の実験は、N先生も大いに期待しているらしいぜ」
「なんでも年来の主張を実証して見せるんだと、張り切っておられるからね」
「実験が終わったら、またN先生が飲ましてくれると思うけど、今から楽しみだなぁ!」
「君の関心は食いもん一筋だね!」
「われ食に生き食に死す。食なくして何の人生ぞ!」
「君のそういうところが研究に向けられたら、大学者間違いなしなんだけどね。なんで工学部なんか来たんだね」
「自分でもそう思うよ」
そこへ見る影もなく痩せさらばえた一匹の野良犬が、ふらふらと道を横切ったところから、この悲喜劇が始まった。

 日頃、ひょうきんなことで知られているY君が、何を思ったのか、かじっていたパンの一かけを野良犬に投げてやったのである。ここ数日まともなものは何一つ食べていなかった野良犬にとっては、まさしく思いも掛けぬ僥倖であった。空腹のあまり、よろよろとよろけながらもパンをくわえようとしたそのとき、非情にもY君はパンを蹴っ飛ばしたのである。
 あと一歩というところで、とんでもない目にあわされた野良犬の怒りは頂点に達してしまった。こん畜生とばかり、Y君の脚に思いっきり噛み付いたのである。
「いてて...このやろうなにすんだ!」
Y君は怒り心頭に発した。
 思わぬ事態の展開に驚いたY君達4人の大学院生は、よせばよいのに野良犬の分際で生意気な奴だとばかりに、寄ってたかって取り押さえ、丁度具合よく落ちていた縄を首に掛けると、嫌がって暴れる野良犬を引きずって実験室まで帰って来た。
 後から思えば、ここら辺で釈放してやればよかったのだが、若さのためであろう、弱いものに対するいたわりの心に薄かった彼らは、手ごろな段ボ−ルの箱を捜してきて、野良犬を押し込めてしまった。その上、ガムテ−プでぐるぐる巻きにしたボ−ル箱を上下ひっくり返して置いたのであった。
 わずか一欠けらのパンに目が眩んだばかりに、とんでもない災難に巻き込まれた野良犬は、ひとしきり大暴れをしていたがいつしか、おとなしくなっていた。ゴソッとも音を立てない。

 しばらくすると、大学院生達も哀れな野良犬のことは忘れてしまい、実験を再開した。実験に夢中になっているうちに、いつしか夕方になっていた。
 実験を終えて、ふと野良犬を閉じ込めてある段ボ−ル箱のことを思い出した。見に行ったところ、あれほど騒がしく動いていた段ボ−ルの箱がまったく音を立てないことに彼らは気がついた。
 なにかおかしいぞ!ということになり、みんなで段ボ−ル箱を開けることに、衆議一決した。おっかなびっくり箱を開けてみると、哀れにもかの野良犬は泡を吹いて死んでいたのである。
「ちょっと可哀想なことをしたかなぁ!」
「おれも気がとがめるね、なむあみだぶつ」
最初は野良犬の哀れな末路に思わず良心の呵責を感じていた大学院生諸君であったが、そのうち何か妙だぞ、という気になった。

 学生を我が子のように可愛いがることで有名なN教授が、実験の点検のためにやってきたのは、まさしくこのような時であった。学生から一部始終の説明を受けたN教授は、段ボ−ル箱の中で泡を吹いて死んでいる野良犬を見て突然不安え、旧制高校の後輩で、現在は同じ大学の微生物研究所、通称は微研の教授をしているB教授の意見を聞いてみることにした。
 電話を取り上げて、
「やぁ、B君、ここんとこ、ご無沙汰してる。実はうちの学生が野良犬に噛まれたんだが、妙なことにその犬が泡を吹いて死んだんだ。どうしたもんだろうか?」
と聞いたのである。
「う−む!N先輩、これはちょっと問題かも知れんなぁ!可能性としては、狂犬ということも考えられるんだが…あいにく今日は土曜日だから、若いもんはみんな帰ってしまっておらんのよ。しかし、ことがことだから…よし、俺が行こう。学生にはあまり心配させんほうがよいだろう」
「すまんが、頼むよ」

事態はまさしく急展開を始めたのである。しばらくして、B教授が到着した。やぁ、N先輩お元気のようでなによりですと、B教授は努めて何もない振りを装って現れたが、誰の目にも不自然であった。学生達を室外に出して、しばらく密談していた教授は深刻な顔をして部屋から出てきた。いつものにこやかな表情はどこにもない。

2
「B君の話では、まぁ心配ないというんだが万一ということがあるから、この際あとで悔やまぬようにやるべきことはやっておきたい。いいね、Y君、あくまでも万一のためだからね」
きつねにつままれたような顔をしていたY君の心に一抹の不安がよぎったのは、このときである。
「N先生、僕どうしたらいいんでしょうか?」
「うむ、たいしたことはないんだ。あくまでも万一のためだから。実は、B君もそこまでする必要はないというんだが、まぁ、万一ということがあるから。なに、簡単なことなんだ」
「その、まぁ、犬の首をだね、まぁ切り離してだ、まぁちょん切ってだね、それでもってそいつを冷凍して、東京にあるB君の古巣の伝染病研究所まで持って行って欲しいんだ」
「はぁ、犬の首を持って行くんですか?宅急便かなんかに頼んで送るというんでは、駄目なんでしょうか?」
「まぁ、そういうことも考えられるんだが、まぁ、どうってことないんだ。君が行ってくれれば、事情も説明できるし、いろいろ好都合だと思うんだ。うん、そうしよう。いいね、Y君」
Y君としては、もうひとつ納得できないが、日ごろ敬愛するN先生の言われることなので、まぁいいかということになった。

「それで、犬の首をちょん切る件だが、ここでは道具もないしなんだから、微研まで運んで、明日B君の助手に頼むことにしよう。君たちすまんが、犬の死体を微研まで運んでくれないか?Y君は早く下宿に帰って、明日の準備をしたまえ。旅費その他は僕のほうで準備しとくから。これは、まぁ、あくまでも万一のためだからね。まぁ、今日のところはゆっくり休んで、身の回りの整理でもしておきたまえ」
「身の回りの整理???」
Y君は分かったような分からぬような妙な気分であるが、N先生の言われるままにすることになった。
日ごろ、よく気が付くことで定評のあるA君が突然N先生に質問した。
「ところで、先生、犬の死体なんかを新幹線の車内に持ち込んで大丈夫でしょうか?確か、規則で禁じられていたと思うのですが...」
「う−ん、それもそうだなぁ、まぁ、食肉とでも言えばいいだろう。うん、そうしよう。」
N先生は、学会でも有名な理論家である。議論では絶対に負けたことがないという屁理屈の大家で、東のK先生、西のN先生と言われるくらいである。学会の委員会などで、両先生が丁丁発止とやりあう姿は、正に見ものである。さすがにこの程度の疑問には、びくともしない。

 Y君は、なんとなく不安な気持ちを抱いて下宿に帰ってきた。この下宿には、Y君よりもひとつ年上の、しっかり者のK子という娘がいる。色が白くて、目がパッチリしたなかなかの美人である。多少気が強すぎるという難があるが、Y君はそれさえも魅力に感じている。Y君はこのK子さんに密かに想いを寄せているのだが、最近になってようやく相手の心をつかみ始めたところである。

「K子さん、実は今日大学でこんなことがあったんだ。それで、明日急に東京へ行くことになったんだが、なんか引っかかるんだが、どう思う?」
「あなたたち、ひどいことをするからよ!私はあなたより野良犬に同情するわ。どうしてそんな残酷なことをしたの?本当に可哀そうじゃない!」
「まぁ、それは僕も反省している。でも、N先生は大したことないって言うんだけど、なんか引っかかるんだ」
「う−ん、そういえば変ねぇ。犬が泡を吹いて死んでしまったというところが、引っかかるわねぇ。なんとなく、これって、狂犬病っぽいわねぇ。」
とんでもない不用意な発言である。Y君は、脳天に一撃食らった思いで、気を失い倒れそうになったが、必死の思いでこらえた。楽天的なK子もさすがにしまったと思ったが、いったん口から出たものを引っ込めることはできない。
「Y君、ごめんね。あくまでも可能性ってことよ。あなたは悪運が強いほうだから、大丈夫よ!この前だって、実験中に水槽に落ちたけど大丈夫だったじゃない。おお、天の神様、私の愛するY君をお守りください」
K子さんもY君のことをにくからず思っていたこともあり、この際、謝罪とお見舞いのつもりで、サ−ビスした。思いがけずK子さんの口から、愛の告白を引き出したY君の気持ちは一変してしまった。地獄の底から、一気に天国に連れてこられたようなものである。勇気百倍、こうなれば、矢でも鉄砲でも持って来いって言う心境なのである。

 かくして、狂犬に噛まれたかも知れないという不安で押し潰されそうになっている左脳と、K子さんの愛を確かめられたという喜びで興奮している右脳の壮絶な戦いが始まってしまった。夕食をすませて早めに床に着いたY君の頭は冴えるばかりであった。東の空が白み始めた頃、なんとか眠りにつくことができた。

 翌日、昼近くに起きたY君が階下の食堂に降りてゆくと、目ざとくY君を見つけたK子さんが無理に明るく装った声を掛けた。
「おはようY君!よく眠れた?さっきN先生から電話があったわよ。電話してくださいって」
「分かった。すぐ電話するよ」

3
「N先生ですか?Yですが、お電話を頂いたそうで」
「うん、まぁ、急なことなんだが、今晩友達を二、三人連れて僕んとこへ食事にこないか?家内がご馳走するって言うんだ」
「ありがとうございます。でも何かこう突然のお話で」
「いや、特に意味はないんだ。家内がフランス料理の教室に通っているのは知っているね。まぁ、最近、新境地を開いたと称しているんだが、さだめし君らに腕前を披露したいということだろう」
「君も犬に噛まれて、くさくさしているだろうから、気晴らしに来たまえ。正直言うと、僕は家内のフランス料理にはときどき往生しているんだが、万一にもけなしてはいかんよ。あとで僕が大変苦労するから」
「分かりました。十分に気をつけます。皆を誘っていきますので、よろしくお願いします」

 実は、理論家で鋭く先を読むことで定評のあるN先生としては、万一の場合を考えて、密かにY君の送別会を開くことにしたのである。子供のないN先生夫妻にとって学生達は自分の子供のようなもので、学生とワイワイやるのは大好きであるが、今回はそうとばかり言ってられない。Y君に悟られぬように、うまくやらなければならない。

 微研で犬の首が切断される一部始終を見ていたY君以外の大学院生諸君は、実験室の冷蔵庫に犬の首が入った段ボ−ル箱をしまうと、Y君の下宿に行き、Y君を連れてN教授の自宅へ赴いた。

 チャイムをならすと、インタ−ホンから明るい声が、
「まぁまぁ、皆さんようこそ!今日は十分に食べていってね。最近、料理のほうの進境が著しいのよ。一度ぜひ学生さんにも食べさせてやってくれって、主人がいうから、皆さんをお招きしたの。この前はちょっと失敗したけど、今日の料理はきっとおいしいわよ。材料もいいし、腕のほうも確かですからね」

 子供がないためか、子供のような夫を持ったためか、ともかくN教授の奥方は大変若々しい。学生達が応接間に落ち着くと、N教授が書斎から出てきた。勉強していたわけではない。プラモデル作りに熱中していたのである。N先生は有名なヨットマンで、寸暇を惜しんでヨット乗りに出かけるのであるが、時々度が過ぎて、奥方にお灸をすえられると、今度は書斎に閉じこもって、プラモデル作りに励むのである。頭の中では、プラモデルのヨットに乗って、大海原を航海しているらしい。

「あなた、今日は大いに腕を振るおうと思うの。この前、試しに創ったあれなんかどうかしら?」
「うん、最近は進境著しいからね。この前のやつは、その前のやつより美味かったね」
N先生としては精一杯の智恵を働かせて、メッセ−ジを伝えている訳であるが、奥方はまったく意に介さない。
「先生、今日は奥様の手料理をいただけるというので、一同、大変楽しみにしております」
N先生に十分に注意されているから、学生達も心得たものである。
「まぁ、昨日ああいう事もあったことだし、今日は大いに騒いで愉快にやろう!まず、ビ−ルでもどうだろうか?それから、ワインといこう!なんといってもフランス料理にはワインだからね。人間、ワインさえあれば、大抵のことは耐えられるもんだよ」
「ところで、Y君、足は痛むかね?」
「触るとチクチクしますが、特に痛みはありません」
「じゃ、乾杯するか!哀れな野良犬に乾杯!」
その食事会はワイワイ、ガヤガヤ一同大いに盛り上がったところで、お開きとなった。
「奥様、手料理ありがとうございました。我々、頭のほうは大したことありませんが、胃腸は至って丈夫ですので、新作料理ができましたら、いつでも参上いたします」
「この前、あまりものを近所の野良犬に食べさせたんだが、あいつ姿を見せんな」
「まぁ、ご挨拶ね!」
すっかり遠慮がなくなった一同である。

4
 Y君がすっかり酔っ払って下宿に帰って来ると、K子さんが寝ないで待っていてくれた。
「K子さん、ただいま!」
「東京まで付いていってあげられるといいんだけど、それもできないから、新幹線の駅までお見送りに行くわ。腕を振るって、おいしいお弁当を作ってあげるね。東京に着いたら電話忘れないでね!」
「K子さんのお弁当食べられるなんて、感激だなぁ!」
昨日来、急速に二人の仲は進展した。K子さんにお休みのキスをしてもらって、すっかり満足したY君は、ほろ酔い気分でおとなしく眠りについた。

 翌朝早めに、K子さんに送られて下宿を出たY君が実験室に顔を出すと、N教授が待っていてくれた。いつもにこやかなN教授にしては珍しく、まじめな表情である。テ−ブルの上には、釣り人の使うク−ラ−ボックスが置いてある。さだめし、その中に可哀想な野良犬の頭が入っているのであろう。後輩のB教授に書いてもらった紹介状を取り出したN教授は、Y君に渡しておもむろに言った。
「まぁ、B君も言うんだが、大したことはないからね。でも、まぁ、万一ということはあるからね。まぁ、その時はその時だが・・・僕なんかも、ヨットで何度も危ない目にあっているが、何とかくぐり抜けてきたから。君、全然心配することはないよ。万一なんて万一で、一万分の一の確率ということだから、ありゃしないよ。」
N教授の話を聞いているうちに、厳しい現実に引き戻されて、Y君の心は不安で一杯になってしまったが、それでも虚勢を張って持ちこたえた。そして、N教授に丁重に礼を述べて、実験室を出た。

 新幹線の駅に着くと、K子さんが待っていてくれた。
「やぁ、K子さん、わざわざありがとう」
「はい、お弁当。心をこめて作ってあげたわよ」
「ありがとうK子さん。僕忘れないからね!万一のことがあっても忘れないからね!」
「何いってんのよ。頑張りなさいよ。この意気地なし。今日のあなたの手、それにしても体温高いわね。熱でもあるのかしら?」
「いや、そんなことはない。K子さんに手を握られて、僕感激してるんです。この状態が永遠に続かないかなぁ!」
「手を握ってあげるくらい、お安い御用よ。きっと電話してね。これでも愛する人のために、心から心配してるんだから」
何よりのはなむけである。Y君の心は一気に幸せと勇気に満たされた。
「ありがとう・・・ありがとう・・・僕、一生忘れないからね」

5
 希望と不安で一杯になったY君が東京の伝染病研究所につくと、微研のB教授から十分な連絡があったとみえて、手際よく一連の手続きが済んで、B教授の後輩のC助教授の診察室に連れてこられた。

「あぁ、君か、犬を噛んだというのは?」
「先生違います。犬が僕を噛んだのです」
「言わんでも分かっとる。冗談、冗談」
C助教授は大変な善人であるが、変人としても名高い人である。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ!これに入っているのが野良犬の頭だね?こいつの検査の結果が出るまで、二、三日掛かるから、思い残さんように、東京見物でもしていたまえ」
Y君はク−ラ−ボックスを机の上に置いた。
「先生、狂犬とか何とか、そういう疑いはないんでしょうか?」
「ないと言いたいところだが、絶対にないとは言えん。確率がゼロでないということは、ありうるということだ」
「先生、もし狂犬病だったら、僕どうなるんでしょうか?」
「最悪の場合、死ぬ。人間の場合は狂犬病とは言わんよ。恐水病というんだ。覚えておきたまえ」
「最悪の場合っていうことは?」
「ワクチンが効けば助かるってこと。まぁ、ワクチンも効かん時があるからなぁ!気にせんでよろしい」
「先生、僕まだ・・・」
「死にたくないって訳か?でも、死ぬときは死ぬからなぁ。でも、君の面構えを見ると、簡単には死なんように見えるが。人間すべて最後は運だよ。頑張りたまえ!」

 どうもC助教授と話をしていると、気が滅入ってしまう。すっかり落ち込んでしまった。C助教授としては、Y君に甘い考えを捨てさせるために、はっきり言っただけである。

「さっそく明日、ワクチンを打とう。午前中に来なさい。そうだ、注射のサンプルを見せておこう。こんなやつだ。どうだ、手ごろなやつだろう」
「先生、随分と太いじゃないですか?僕、注射には弱いんですけど」
「我々も打ちたくて打っているわけではないから、打たんでもいいが、分かっとるね、命の保証はできんよ。まぁ、そんなに言うんなら、止めとくか?」
「先生、待ってください。我慢しますから、ぜひ打ってください」
「よろしい。打ってあげよう。ただし、痛いよ!この前なんか、大の男が涙を流しとったなぁ!」
「先生、僕、覚悟を決めました。痛くても何でもいいから、この際お願いします」
「それでこそ男だ。感心!感心!でも、一本じゃないよ。六本あるんだ。こういうやつがね。」
「この際、何でもいいです。清水の舞台から飛び降ります」
「バンジ−ジャンプは紐がついとるが、これは紐なしかも知れんぞ。ワッハッハッ!」

 すっかり落ち込んで診察室を出たY君は、K子さんに電話することにした。上京して以来の一部始終を細大漏らさず話すと、受話器の向こうで、K子さんの笑いが止まらなくなった。
「ごめんね・・・でも、どうしても・・・笑ってしまうの・・・ごめんね・・・」
「ひどいなぁ。こっちは死ぬような辛い思いをしてるってのに」
「私・・・あなたのこと・・・とても心配してるのよ・・・私の気持ち分かる・・・あなたが死んだら、私も死ぬわ!・・・」
K子さんとしては、この際、とても実行不可能な空手形の発行に踏み切った訳であるが、愛の力は偉大である。あんなに落ち込んでいたY君は、またまた勇気百倍した。
「K子さん、僕、愛してるからね!」
「私も・・・Y君!・・・」
二人は、ごく自然に愛のエ−ルを交換した。

6
 翌日、C助教授を訪ねたY君は、脅かされたとおりの図太いワクチンを二本打ってもらった。
「先生、それにしても痛いですね!」
「じゃ、止めとくか?嫌がるものに無理に打っても始まらんから」
「先生、お願いですから打ってください」
「よろしい。希望をかなえて上げよう」

 しかし、異変は、その次の日の朝に起きた。前の日、早く寝たので、付属病院のベッドで朝早く目覚めたY君は、妙なだるさと発熱に気づいた。寝ぼけ眼をこすってみると、手にぶつぶつができている。とうとう来たか?万事休す。折角、K子さんとのばら色の未来を夢見ていたのに、僕もこれで終わりか?Y君は気丈にも覚悟を決めた。

 少し早とちりの傾向のあるY君は、C助教授のところへ行く前に遺書を書くことにした。まず両親、次に敬愛するN先生、最後に最愛のK子さんに書こう。そう決めたY君は、旅行かばんの中から、紙とペンを取り出し、黙々と作業を始めた。K子さん宛ての遺書を書き始めたとき、不覚にも涙が止まらなくなってしまった。

 K子さん、僕はまもなくあの世に旅立ちます。僕の人生で最大の想い出は、あなたと出遭ったことです。あなたの愛を得て、思い残すことはありません。あなたの唇が頬に触れたとき、僕の心と体は打ち震えました。もう、何も思い残すことはありません。潔く往きます。年に一度くらいは僕のことを思い出してください。それで僕は満足です。あなたの白い肌、黒いひとみ、紅い唇。僕のヴィ−ナス、K子さん、さようなら!

 書き終わると、そっと目を閉じた。このぶつぶつが段段大きくなって、最後のときが来るんだろうなぁ!それまでどれだけの時間があるだろうかと、Y君は覚悟を決めて最後のときを迎えることにした。

 そして、清清しい気分になって、C助教授の診察室に出かけて行った。
「先生、いろいろありがとうございました。覚悟を決めました」
「なに訳の分からんを言っとるんだね。まだ終わっとらんよ」
「いや、僕、分かっています。僕、もう駄目です。終わりです。覚悟はできています」
「どうしたって言うんだ。妙なことを言ったりして」
「先生、これを見て下さい。こんなぶつぶつが出始めたんです。あとどれくらいで終わりですか?」
突然、C助教授の体が振るえた。
「ヒ−、君、これを見て、てっきり、ヒ−、恐水病に、ヒ−、やられたと思ったんだね。ヒ−」
C助教授は、懸命に笑いをこらえている。
「君、ヒ−、これ、ヒ−、典型的な風疹の症状なんだよ。ヒ−」
「えっ!恐水病じゃないんですか?」
「ヒ−、それで、君、ヒ−、もうお陀仏だと、ヒ−、思ったってわけ?ヒ−。こりゃ面白い!ヒ−、あぁ苦しい。ヒ−、もっとも風疹で死ぬやつも、ヒ−、無いとは言えんがね。ヒ−」
「先生、それじゃ、僕、先生、・・・」
Y君の声も言葉にならない。目から大粒の涙がポタポタ溢れてきて止まらない。一瞬の内に、取り澄ましていたY君の顔は喜色満面になった。

「それから、先刻、基礎のほうから連絡があってね、犬の方も何でも無かったそうだ。単なるショック死らしいよ。それにしても、君らも残酷なことをしたもんだなぁ。大いに反省したまえ」
「すみません。反省します。」
「よろしい。明日になったら、退院してよいからね。B先輩に会ったら、よろしく伝えといてくれたまえ」

7
 翌日、Y君は晴れ晴れとした気分で帰路についた。新幹線の列車の車窓から見る景色も新鮮である。

 新幹線の駅まで、K子さんが出迎えに来てくれていた。
「良かったわね。おめでとう!」
「大変だったけど、僕、なんだかとても儲けたような気がする」
「あら、どうして?」
「分かってるくせに」

 大学に戻ると、早速、N教授の所へ挨拶に行った。元気そうなY君の姿を見て、N教授の顔には安堵の表情が表れた。
「よぉ、元気そうだな!」
「先生、いろいろありがとうございました。お陰で無事に帰って来れました」
「良かった、良かった!ところで君すまんが、ちょっとズボンの裾を上げてみてくれないか?」
N教授は神妙な顔をしていった。
「こうですか、先生?」
「きたない足だが、ちゃんとついとるか?幽霊じゃないらしい」
「いやだなぁ、先生、からかったりして」
「ところで、君、今、学内ではこういううわさがあるんだが、知っとるかね?いや、本人に言うのは止めにしておくか」
「勿体つけないで教えてください。何ですか?」
「要するにだ、あの野良犬のことなんだが、犬が君を噛んだんではなくて、君が犬を噛み殺したって言うんだがね」
「はぁ、先生も信じてるんですか?」
「君ならやりかねんとは思うよ。君らは家内の料理で鍛えられとるからなぁ!ハハハ」

8
 それから数十年、ここに一枚の写真がある。今は初老のY君の傍らでにっこり微笑んで、Y君を見守っているのは、あのK子さんである。作者が納得できないのは、あの哀れな野良犬のことである。Y君の現在の幸せも、言うならばあの非業の死を遂げた一匹の野良犬のお陰である。一個の不幸が一個の幸せに転ずる。幸せなものはますます幸せになり、不幸なものはますます不幸になる。現実世界はときに過酷であるが、作者にできるのは、現実世界の出来事をありのままに見ることだけである。時に無力感に襲われるが、止むを得ないことである。

終わり


ホ-ムペ-ジに戻る。