2000.06.04
一色 浩

存 在 の 実 感

 N先生有難うございます。吉田秀和氏が朝日新聞(2000年5月26日)に書かれた「不条理と秩序」を、先生から頂いたコピ−で読みました。
 小生は哲学を本格的に学んだことがありませんので、よく分かりませんが、冒頭にあるサルトルの言葉「人間は不条理の世界に投げ込まれた存在である」とありますが、このなかで小生が絶対と思うのは、「存在」ということだけです。宇宙本来の中には、不条理も何もないと思います。不条理は真理でも何でもありません。単なる人間の解釈だと思います。

 路傍に転がった石があるとします。人間という存在にとって唯一絶対なのは
「そこに石がある」ということだと思います。石が美しいとか醜いというのは、人間の価値観に基づく解釈に過ぎず、人間という存在が生み出すものだと思います。人間の存在も同じようなもので、「人間存在」そのものを「普遍的事実」とすることは可能でしょうが、「人間存在」に意味があるかというと、小生はないと思います。正しく存在あるのみです。ただし、人間はその存在に目的をもたせることは出来ます。人生に目的はあるか?否と思います。しかし、人生に目的を持たせることは出来ます。

 それでは、何故人間は目的を作るのでしょうか?それは個および種の保存のためという生物としての本能だと思います。現存する生物は個および種の保存を本能として持つよう様に作られています。これは事実として認めてよいでしょう。もちろん保存本能を持たないものは、どこかで滅んで現存しているはずがないからです。人間は自殺もするし、戦争もします。保存本能ばかりでなく破壊本能もまた持たされている厄介な存在です。

 バスジャックで人が死ぬ。殺された人およびご家族は大変な不条理とおもわれるでしょう。しかし、不条理以外の何があるでしょうか?我々に許されるのは、大変辛いことですが、事実として受け入れることだけです。神の試練という意味付けをすることも可能でしょう。

 おそらくほとんどの人が経験することでしょうが、若い時は、人間の存在や生きる目的ということに過大な意味付けを求めます。しかし、年をとると違ってきます。結局のところ人間とは、宇宙における存在の一形態に過ぎないような気がします。所詮は空です。普遍的真理としての存在意義はあり得ません。ただし、自分が納得できる存在の実感はあります。集団が共有できるものもあります。
吉田秀和氏はバッハの音楽の中にそれを見つけられたようですが、小生は母からもらった愛や、子供に与える愛の中にそれがあります。母の愛を思うと、思わず涙が出ます。自分の母が本当に良い母であったかどうかは疑問があります。理想的な母親像からはほど遠かったような気がします。しかし、母の子に対する愛は間違いなく本物でした。
子供の不幸は、身を切るように辛いものがあります。大事に育ててきた我が子を失った親を見るとき、その不幸を直視できません。要するに,他者との交わりの中に生まれる愛の中に、自己の存在の実感を感じます。愛、それは学問に対するものでも良いと思います。弟子に対するものでも良いでしょう。人間の存在を豊かにするのは愛が全て、という考えの中に幸福を発見しています。目下のところは、人に対する愛よりも、学問に対する愛の方が勝っているような気がします。

 愛も突き詰めると自己保存のエゴかも知れません。自己本位の愛は破綻します。美しく昇華されたものになるよう努力するしかありません。
終り


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