2000.02.21 ソウルにて
一色 浩
愛  憎

 日本帝国主義による36年にわたる朝鮮の植民地支配は、両国にとって喉に刺さった魚の小骨のようなところがある。この小文は、日本の人ばかりでなくて韓国の人の目にも触れることがあろう。このような表現が果たして韓国の人々に許していただけるかどうか、誤解を招かないかどうか、筆者の悩むところである。日本が第二次大戦に敗れて、朝鮮が独立して以来、既に55年になる。55年の歳月の中で、その思い出は随分と薄められたと思うが、依然としてデリケ−トな問題であることには変わりない。もはやこのことが、両国の関係を大きく損なうことはあるまい。しかし、決して完全に解決された問題ではない。魚の骨が喉に刺さっても命に別状はないが、骨が刺さっている限り、すっきりしない落ち着かない気持ちを起こさせるのである。
 筆者は幸いにして多くのかけがえのない韓国の友人に恵まれてきたが、この問題に踏み込まないように、常に注意深く避けて来た。朝鮮の人々が、この問題に対して、本当はどんな気持ちを抱いているのか、よく分からないので、恐くて踏み込めないのである。喉に刺さった小骨は、時間が経てば、いつの間にやら消えてしまう。それでよいのかも知れない。
 今回は、ソウル大学名誉教授の黄宗屹先生のお見舞ということで、李起杓君と相談して、黄先生に予めお知らせすることなく、お訪ねすることにした。surprise visitとすることにより、少しでも皆様をdisturbしないで訪問できると思ったのだが、結果的には、大変な負担を強いてしまったようであり、誠に心苦しいものがある。しかし、筆者にとって、黄先生を始め旧い友人に会えることには、格別の喜びがある。皆様のご好意をありがたくお受けする以外に途がない。
 途中一度訪問しているが、28年振りにゆっくり訪ねてみると、この国の発展には、目を見張るものがある。正しく、浦島太郎である。このことは後でもう少し詳しく触れたい。
 小生は、日本人の中では、韓国の人と深く交わってきた方だと自負しているが、それでも、日本の植民地支配について、深く話し合ったことは、一度もない。恐らく、韓国の人もそのことを意識して避けてきたのではないか。何故、日本人がこの問題を避けようとするのか、その深部にあるものは単純ではない。大変おこがましいことであるが、日本人は朝鮮半島の人々に対する差別の心を、まだ捨てきっていないのではないか。何故だろうか。
 このことに対する答えを、筆者は両国間の情報の流れに求めたい。歴史的には、日本は朝鮮半島から流れてくる貴重な情報の恩恵を受けて、政治、経済、文物の発展を図ってきたが、明治維新以来、この関係は途絶えてしまい、情報が一方的に日本から流れるようになってしまった。第二次大戦が終り朝鮮が独立しても、この流れは変わらずに続き、朝鮮の文化、芸術は日本に全くといってよいほど影響を及ぼしていない。反面、驚くほど大量の情報が、日本から韓国に流れ、実に大きな影響を与えてきた。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ等のあらゆるメディアを通して、日本のことが最大限に伝えられ、彼の地の人々は、切ないほどの真剣な気持ちで受け入れてきた。それに対して、我々日本人は、全くの無関心であったといってよい面がある。さだめし、口惜しく切ないものがあったのではないか。筆者はこのことを思うと、思わず涙を禁じ得ない。
 数年前までは、正しくこのような状態であったが、最近大きな変化が起こりつつある。韓国から日本に向けて、確実に情報が流れ始めたのである。日本のテレビで韓国特集が組まれることが多くなったし、キムチやチゲが日本人の食卓に欠かせないものとなった。また、在日朝鮮人に対する差別も確実に無くなりつつあるのではないか。しかし、まだまだ不十分である。朝鮮の文化、芸術に関していかほどの理解があるだろうか。ソウルの書店に行くと、山岡壮八の大長編「徳川家康」の韓国語訳がずらりと並んでいる。これに類することは、日本ではまったくない。我々日本人は、李氏朝鮮という言葉は知っているが、李氏朝鮮がどのような時代であったのか、まったく知らない。
 要するに、現在の日本人は、朝鮮の文物に対して完全に無知である。この状態が改善されない限り、我々の臆病な心は変わらない。朝鮮半島の人々の喜びや哀しみを深く知ったとき、我々は勇気を持って、両国間のデリケ−トな問題に触れることができよう。
 今回の訪問で驚いたことは、地下鉄、道路、住宅、電話、上下水道に象徴される物質的、経済的発展にとどまらない。身近なことでは、以下のようなことがある。
(1) どこに行っても、ごみが落ちていない。
(2) 公衆トイレが整備されていて、しかも衛生的に保たれている。
(3) 観光客に対する案内がきめ細かく行き届いている。
(4) 乗り物の中では、若い人がためらわずに席を譲ってくれる。
(5) 店先に並んでいる商品は、ほとんどが国産品である。
(6) 外国人をほとんど意識しない。
ソウルの町には、若い日本の女性観光客であふれていることにも驚くが、個人的には"まったく外国にいるという感じがしない"ことに驚いてしまう。地下鉄の車内で乗客を眺めていたり、いたるところにいる携帯電話で話している老若男女を見ると、一瞬、日本にいるのではないかと錯覚してしまう。
 筆者がこの国を始めて訪れたのは、1972年のことである。ソウル大学校工科大学造船工学科の黄宗屹先生の招きに応じて、研究と教育に従事するためである。まだ両国の往き来の少ない時代であり、関釜フェリ−と特急列車を乗り継いでソウルに出たが、釜山に上陸した途端に、日本とのあまりにも大きな差異に驚いてしまった。ソウルに着いた日の翌日に「十月維新」が宣言されて、戒厳令が布告された。テレビは特別番組になって、戒厳司令官から次々に命令が出される。街角には戦車が出動し、夜間外出禁止令が布かれた。
正に、韓国の夜明け直前であった。人々の生活も大変貧しかった。食べるのが精一杯で、贅沢は庶民に無縁であった。しかし、そんな貧しさから懸命に脱出しようとする人々のエネルギは凄まじかった。貧しいながら、社会全体が一つの方向に向かって、火の玉のようになっていた。
ある時、たまたま映画館に入ったことがある。言葉が分からないので、行き当たりばったりに入ったのであるが、そのとき上映されていたのは、日本で言うところの母もの映画であった。日本でもひところ盛んに作られた種類のものであるが、10年程前に姿を消していた。母もの映画といっても、若い人には理解できないと思うが、貧しい生活の中で子供を抱えた若くて美しい母が、夫の暴力や姑のいじめに懸命に耐える姿を描いたものである。映画のヒロインのように美しくはないが、大なり小なり同じような境遇にあった女性たちは、自らと美人のヒロインを二重写しにして大いに涙を流すことになる。不思議なことに、没我の世界で大いに涙を流すと、日頃のつらさを忘れて、また新しい生の意欲が湧いてくるのである。その頃、韓国では母もの映画の全盛期で、これでもかこれでもかと女性の涙を絞り出させていたのであろう。日本の映画の看板には、"三倍泣けます"というのがあったが、多分韓国でも同じような看板で、客を呼んでいたのではないだろうか。
また、当時の韓国の人々の複雑な対日感情の一端に触れるようなこともあった。ある時、ソウル大学の某先生と飲んでいたときであるが、話がたまたま天皇陛下のことに及んだ。非常に無神経だったと思うが、「天皇陛下という存在は、戦後の日本の政治的安定には非常に役立ってきたと思う」という趣旨の発言をしたところ、その先生の顔色が一変した。「私の娘は、日本の植民地支配のことを聞くと、怒りで血があわ立つと言いますよ!」と言われた。当時の反日教育という背景もあるが、朝鮮半島の人々の心に潜む激しい怒りを垣間見た思いがした。
 筆者は、1973年の8月に役目を終えて帰国したが、帰国した途端に起きたのが、金大中拉致事件である。あろうことか、高名な政治家であった金大中氏が、何者かによって、東京のホテルから拉致されたのである。その金大中氏こそ、現在の韓国大統領である。
30年前には、人々の表情には強い緊張があった。話し方にも激しさがあった。リングに上がったボクサ−の示す、激しい闘争心にも似たものがあった。その上に、筆者が苦手としたのは、韓国の人々の極めて事大主義的な発想であった。
今では、皆、やさしく穏やかな表情で静かに話している。日本語と感じが似ている朝鮮語の発音を聞いていると、一瞬、日本にいるような気分になってしまう。いろんな意味で、日本と朝鮮はつくづく近い国だと思う。
終わり


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