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村で出会った人びと  その10






和田文彦さん

そば打ち名人

 裏磐梯の誰もが認める蕎麦打ち名人、和田文彦(69歳)さん。生まれは福島県高郷の大きな農家の次男坊。蕎麦打ちは高校生の時に父親から手ほどきを受けて以来というから、もう50年のキャリアだ。「昔から蕎麦は食べるのも打つのも、とにかく好きだった」そうで、今でも1日3食蕎麦でもよしとするほどだ。そんな和田さんに蕎麦打ちが本職と思う人も少なくない。「蕎麦打ちは仕事にはしたくない、蕎麦打ちは趣味」と和田さんは言う。
 中学生の時、会津の写生大会で特選に選ばれたことが大きなきっかけとなり、将来漫画家をめざす希望を抱くようになった。家が農家だったこともあり農業高校へ進学したが、卒業と同時に漫画家を志し一人上京する。こね鉢などの蕎麦打ち道具も一揃い携えて家を飛び出す。上京後は出版社に「4コマ漫画を描いて日参するが”基本を学べ”とつき返される」苦汁の日々が続いたとのこと。
 そこでアルバイトをしながら画家への登竜門といわれた川端学校やデザイン研究所で腕を磨く。その当時のアルバイト先には手塚治虫などの有名漫画家もいた。しかしいろいろ挑戦するがなかなか芽を出せず、カット漫画やアニメーションイラストレーターとしての道へ転進する。そこで多くの出版関係の仕事をこなしながら昭和35年に独立。以後、仕事にも恵まれ徹夜に追われる日が続くこともしばしばで、「若かったから出来た」と当時を振り返る。仕事は雑誌関係からアニメの原画描きや映画のタイトルバックや特撮など、東宝、大映などの映画関係へと移っていった。そんな頃の29歳の時に奥様の静さんと結婚する。
 「映画界では”キングコング対ゴジラ”の円谷英二などと一緒に仕事をする機会にも恵まれ学ぶところが多かった」。しかしきつい仕事に無理を重ね過労で1ケ月近く入院したことも。映画界全盛期の当時、東宝・日活・大映などの仕事で実写とアニメの合成(特撮)等に携わりイラストやデザインの力を遺憾なく発揮する。また大阪万博や筑波博、沖縄海洋博などの大きなイベントでも腕を振るい、当時の文化の最前線で仕事を続けていた。
 そんな中でもそば粉を故郷の高郷から取り寄せて、身近な人たちにそばをご馳走していたそうだ。多い時は60人分も打ったというから驚きだ。その後、静さんが体調

高校生の時に父親に手ほどきを受け、以来趣味で蕎麦を打ち続けて50年


  軽快なリズが響く包丁さばき


使い込まれた愛用の麺切り包丁


ソバ名人の本職はイラストレーター


自作のイラスト入りポスター


をくずし森林浴の環境が良いとすすめられ、裏磐梯に新天地を求めた。アニメの仕事もコンピュータ化により様変わりするにつれ仕事が急速になくなっていった。これを機に、平成5年に家を建て静さんが一足先に引っ越していたが、平成9年に文彦さんも裏磐梯に移り住む。
 当時地元の人達は蕎麦はまずいものと思っていたらしいが和田さんが打った蕎麦の旨さにビックリ。蕎麦が和田さんの手で別物の蕎麦になっていた。それから噂はあっという間に広がり蕎麦打ち名人としての名を確かなものにした。自分で育てた薫り高い裏磐梯の蕎麦粉を使い、ホテルの中で「会津」の暖簾で打ち立ての美味しい蕎麦を振舞っている。和田さんの打つ蕎麦は日本の食文化を支える格別の味だ。

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