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『8分後の太陽』
「アーロン、雨だ」
その声にふと雑誌から目をあげると、ぱらぱらという音は、改めて耳をすませたときには、ばらばらと聞こえ始めていた。
二人同時に外へ飛び出す。
「雨は夜からだったはずだろ!?」
手早く洗濯物をまとめるティーダの隣で、同じく手早く家の中へ放り込みながら、
「気象庁が天を支配しているわけでもあるまい」
と応える。全てを手中におさめている造物主は、この雨の降り加減まで掌握しているのだろうか。
そんな埒もないことを考えながら、アーロンは生乾きの服を乾燥機に放り込む。
リビングに戻ると、ティーダが新しいコーヒーを入れてくれていた。
アーロンはそのカップを片手に再びテーブルから雑誌を拾い、ティーダは彼の足下に仰向けに寝転んで、読みかけの薄い本を開いた。
どこかで見覚えがある表紙だ。
「――見るということは昔を見るということだ」
そう思ったとき、不意にティーダが歌うように言った。
「何だって?」
その青い表紙に気をとられていて、はじめが聞き取れなかった。
彼はちらと目をこちらに向けて起き上がると、
「ほら、書いてある」
今見ていたところを開いて、その箇所を指し示した。
アーロンは雑誌を傍らにおいて、それを受け取る。
『一光年とは、光が一年かかって進む距離だ。
すると、一光年はなれたところにあるものをいま見たとしても、その光は一年前に出発して、いまこちらにとどいたばかりということになる。』
「つまり、遠くを見るということは、昔を見るということ、なんだって」
ソファの上にあがって、隣から覗き込みながら、彼は言った。
「部屋掃除してたら出てきたんだ。懐かしいから読んでた」
内容を聞いて思い出した。
「確かお前が本屋で、珍しく欲しがったんで、買ったものだったな」
「ああ、…うん。何か、綺麗だったから」
ティーダは少し照れくさそうに微笑んだ。
それは、天文学の本だった。
瑠璃色の空に白い星々が点々と散った、美しい表紙にひかれたらしい。
スピラにも似たような学問はあったが、仮にも子供向けであるこれよりも、遥かに原始的で呪術的であったような気がする。
かつてのザナルカンドは、星まで届く目を持っていたようだ。
皮肉にも自らが発する光で、肝心の星影はかすみがちだが。
「ここ読んでたらね、あんたがそうだなって思って」
「どういうことだ?」
聞き返すと、彼はくすっと笑った。
「ときどきぼけーっと遠く見てんじゃん」
ぼけ、は余計だとは思ったが、とりあえず合点がいった。
「…昔を見ている、と?」
ティーダはうなずいた。
「そうだな…」
曖昧に答えて、水滴の伝う窓の外に目をやる。
ここに暮らしてからの年月はもう二桁に手が届こうとしていた。
にもかかわらず、自分はどこにも属していないものだという感覚は薄れることはなかった。
故郷に帰りたいというわけではないが、ここを第二の根を下ろす場所とも定められない。
真実を知りながら、なお虚構に甘えつづけることに、時折息苦しさを感じてしまう。
うつむいているとその圧迫感はいっそうつのるような気がする。雨に降り込められるかのように。
だからそういうとき、視線は自然と窓の向こうへ遠く放られた。降りしきる雨のヴェールの下でも輝きを忘れぬ街並みへと。
ティーダの言うこともあながち間違いではない。しかし、過去を思い起こすことと、見えているとはまた意味合いが違うだろう。
もし、彼の言うとおり、このザナルカンドを突き抜けて過去そのものを見ることが出来るとしたら、自分は何を望むだろう…?
ちらりと浮き上がってきたその考えが、具体的に姿をとる前に、抑えつける。
―― …何を馬鹿なことを。
星の光ではない、過去も、現在も、未来も、全て我が元にあるではないか。
第一、見えたところで、友二人の死をどうにかできるというわけでもなかろうに。
「ほら、また」
非難の色を帯びた声が突然アーロンの意識に割って入った。
「何?」
「今は俺と話してるんだろ」
唇を尖らせて、ティーダは軽くにらんでくる。
独りにされること、無視されること。幼いころのティーダはそれらを病的なまでに嫌った。
意識がこちらを向いているかいないか、どういう方法でか鋭敏にかぎわけた。
成長するとそれは、誰にでも明るく人懐っこく接し、目立ちたがる性質と形を変えた。
それでもアーロンに対しては、昔と同じように、独りにされたことを直に不満としてぶつけてくる。
こういう遠慮のない関係になってからは特にそうだ。
「そうだな、すまなかった」
お前は俺の頭の中までどうこうしないと気がすまないのか、と若干の呆れと微笑ましさを感じながら。
「うん」
それで一応気が済んだらしい、ティーダは、いそいそとアーロンの肩口に頭をあずける。
「読んで欲しいのか?」
「んー、そゆわけじゃないけどさ」
くすくすという笑いが、肩に響く。
あのころは、彼を膝に抱え込んで本を読んでやったのだった。
お気に入りのものは飽きるまで繰り返し読まされたものだが、この天文学の本はそれらとは少し意を異としていたようだった。
どちらかと言えば、苦手なようだった。
あれは、この本を買って、その日の夜だったか、それとも数日たってからのことだったか。
(こわいから、いっしょによんで)
小さな両脇にそれぞれしっかりと本と枕とを抱え、少年が思いつめたような、怯えたような眼差しでそう訴えかけてきたのだ。
天文学イコール怖い、という結びつきはとっさに思い浮かばずに、かなり面食らった。
どこが怖いのか、と聞いて応えたのが、あるページの記述だったのである。
そのページを読み上げるとき、ティーダは彼の服をぎゅっとつかみ、その先のページに移ると小さなため息をついた。
何度読んでやっても、判で押したかのように同じ反応をした。
そんなに怖いのならやめようか、と提案もしてみたが、首をふって頑なに拒否したのだ。
そこにはどんなことが書いてあったのだったか…。
何気なく隣のページをめくり、そこに目が吸いつけられた。
『太陽の光は8分あまりかかって地上にとどく。だからきみの見ている太陽は8分あまりまえの太陽なのだ。
ひょっとしたら、きみが太陽を見ているいま、太陽はなくなってしまっているかもしれないんだ。
でも、それがわかるのは8分たってからなんだ。』
………これだ。
ティーダもアーロンの手と視線の動きが止まったのに気が付いたらしい。
「これね、初めて見たとき、すごくショックでさ」
彼を見ると、そのページを見つめたまま、微かに苦笑いを浮かべている。
「だってさ、今ちゃんとこの目に見えてるものがだよ?それが実はもうそこに存在しないものでした、だなんて」
そっとアーロンの肩口に頭をもたせかけ直す。
「しかもそれが、後からわかっちゃうんだよ?」
彼の声が骨に優しく伝わってくる。そのままアーロンを見上げる。
さきほどの微笑を浮かべたままだったが、その青い瞳は笑っていなかった。
「もう、怖くて、切なくて、たまんなくなって」
”実はもう、そこに存在しなかった”。
苦々しく反芻しながら、アーロンは曖昧にうなずく。
その言葉こそ、自分と、彼、そしてザナルカンドという世界そのものではないか。
自分は死んだにもかかわらず、当たり前のような顔をして、ティーダの隣にいる。
ティーダは作られたものにもかかわらず、無防備なまま、アーロンに温みを与えている。
そしてザナルカンドはとうに滅びたにもかかわらず、空疎な自分たちを抱え込み、機能し続けている。
「だから、あんたがちゃんとここにいるのか、確認しに行ったんだよ、俺」
不安や恐怖は、胸の中で勝手に増殖し、ブラックホールとなってまともな心の動きを吸い込んでゆく。
幼いティーダはそれを内に独り抱え込まず、アーロンに救いを求めた。
一つの本を二人で読み、お互いの確かな息づかいとあたたかさで、真空のように冷たい恐怖を外へ切り離そうとした。
そうしてくれた彼に感謝したい、と思う。
俺もお前もここにいるのだ、と本当にそう告げたかったのは自分自身だったから。
その金色の前髪越しに口付ける。
「いつも、いただろう?」
頬に、唇に、軽く優しいそれを落とす。ティーダは嬉しそうに目を閉じて、それを受けた。
「うん、いつもいてくれたね」
瞳が開く。そこにある、空の青、海の青。そして大気を透かして見る、宇宙の青。
8分前に発せられたという、こんなにも確かな美しい光。
「だからもう、平気だよ」
この本を読んでも。
静かにはっきりと、彼はそう続けた。
少年が克服したと宣言するその悪夢こそ、残酷な真実に他ならない。
そしていつか、自分がそれを告げる日が来る。
あの時安心させてくれたのは、嘘だったのかとわめかれるかもしれないし、恨まれるかもしれない。
だがたとえそうであっても、その傍にいつづけよう。
もう平気だ、と再び笑ってくれるまで、見守り続けよう。
彼に安堵を与えられるのは、自分しかいないのだから。
この腕で抱きしめる、8分後の太陽。
その最後の輝きに焼き尽くされる、最初の星となろう。
―了―
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