The Dog and I  〜犬様と私




「そいつ」は、ある日突然やって来た――


『クリスティーヌ』などというご大層な名前のその犬は、一人優雅な午後のひと時を過ごしていた彼の元に、何の前触れもなくやってきた。
「留守の間この子を頼みます。申し訳ないのですが。ええ、ティーダ君と約束してしまったんですよ。10日ほどのことなんですが、どうしてもご迷惑ならペットホテルに預けられるからそうおっしゃっていただければ」
延々と続いたペット自慢をはしょって要約するとそういうことである。どうやら飼い犬を預かってほしいということらしい。しかもティーダの方から頼み込んで飼い主とそのような約束を交わしていたらしい。家を空けるときには是非その犬を預からせてほしい、と。
ちなみにその飼い主は隣人であり、アーロン自身も世話になっている相手である。しかも約束をしていたという。これではむげに断ることもできず、しぶしぶながらもその小さな愛玩犬を受け取ったのだ。
それがつい先ほどの話である。
今そいつはいかにも物珍しそうに家の中を歩き回っている。あちこちの匂いを嗅いでは首をかしげ、床を引っかいては鼻を鳴らす。
好奇心に満ちた仕草は子犬以外の何物でもなく、何故だか幼い頃のティーダの姿とダブって見える。ちょっと微笑ましい気がした。
そう思って見てみれば『クリスティーヌ』という名でも何とか許容できそうだ。たとえ相手が犬であったとしても。いや、犬だからこそ。
淡い茶色のふわふわとした毛並みはまるでぬいぐるみのようで、その愛くるしさは飼い主自らが絶賛するのも無理ないとも思う。少々お高くとまっているような気がしないではないが、ちょっと潤んだ瞳に見つめられれば思わず抱きしめたくなるほどで。
しかしアーロンはそれを素直に行動に移せるほど可愛げのある性格はしておらず、ただ少し離れた場所からそいつをじっと睨みつけるばかりだった。


そうしているうちにも陽は暮れて。
「たっだいま、アーロン!」
いつも以上に元気よく、ティーダが帰宅した。
おそらくその犬がやってくることは既に知っていたのだろう。驚いた顔もせず、満面の笑みを浮かべて子犬を抱き上げる。
「しばらくの間だけどよろしくな。クリスティーヌ」
クリスティーヌはほお擦りされたお返しとばかりにティーダの鼻先をぺろりと舐めた。
床に下ろされるとごろんと寝転がって、腹を見せて甘えてみせる。全身で嬉しさを表現できるのは愛玩犬の得意技なのか。
ちょっと気位が高いかと思えた最初の印象など嘘のような、ただひたすら可愛らしい子犬の姿である。何だか態度が違うような気がするのは単なる錯覚だろうか?
「ガキが一人増えたようなものだ」
溜息まじりの呟きを、ティーダは耳ざとく聞きつけて顔を上げた。
「何だよ。ガキってオレのこと? それともクリスティーヌのこと?」
そう食ってかかるところがガキそのものではないか、と口には出さず、彼はただふっと笑ってみせた。
「鼻で笑っただろ」
「別に」
そいつはまだ仰向けに寝転んで、あまつさえ短い後ろ足をあられもなく開いたままパタパタと尻尾を振り続けている。
「それよりもティーダ、いつまでも犬をいじり回してないで手を洗って……」
何気なく見下ろしながら言いかけた彼の言葉がふと途切れた。
「アーロン?」
彼の視線は犬の下半身のとある部分に釘付けになっている。
「どこ見てんだよ、やらしーな」
ティーダは犬の腹部から手を離して立ち上がった。
「そいつは……オスか?」
「そうだよ、気がつかなかった? おまけに言えばこいつは今年四歳になるんだって。もう立派な大人だよ」
そう言いおいてティーダは手を洗いに行ってしまい、残されたアーロンは半ば呆然と床に転がる犬を見下ろしていた。
それではそのクリスティーヌとかいうちゃらちゃらした名前は何なのだ?
オス犬なら「タロー」で充分ではないか。
そんな彼の少々偏った思いのこもった視線を受け、クリスティーヌはのっそりと身を起こして彼の方を振り返った。
少し潤んだ丸い瞳が、にやりと笑ったような気がした。
何だか、嫌な予感がした。


与える食事には問題はなかった。飼い主から日数分のドッグフードを預かっている。それを決められた時間に決められた分量を皿に移してやればいいだけだ。
問題は夜だった。
おそらくいつも飼い主の寝床で共に眠っていたのだろう。ティーダについてとことこと寝室に入っていこうとしたクリスティーヌを、アーロンはひょいとつまみ上げた。
「寝床に動物など連れ込むな。そいつの寝場所は作ってやっただろう」
「ねえアーロン、こいつはオレが一緒に寝るよ。アーロンのところへは行かせないって」
「そういう問題じゃない。もしもベッドの中で小便などされてみろ。そのシーツは一体誰が洗濯すると思っている?」
「オレがするってば」
まるでぬいぐるみをぶら下げるかのように無造作につままれたそいつを、ティーダは素早く奪い返した。
「だからこいつがいる間、アーロンとは一緒に寝られないから!」
そう言うとそいつを床に下ろし、半ば呆然と見送る彼を尻目にさっさと自分の寝室に入っていってしまう。
部屋の扉が閉まる一瞬、『クリスティーヌ』が振り返って彼を見た。
少し潤んだ丸い瞳が、確かににやりと笑った……ように見えた。
かなりはっきりと、嫌な予感がした。


最初に感じた予感は当たっていたのだろうか。数日が過ぎる間に、次第にこの犬の性格がわかってきた。
ティーダがいる間は、傍目にも本当に可愛らしい子犬といった風である。呼ばれればいそいそと駆け寄り、じゃれ付いたり甘えたりとせわしなく動く。
しかしティーダが学校に出かけそして帰ってくるまでの間は、まさに豹変という言葉がぴったりの変貌ぶりに思えた。
犬の四歳というのは人間で言えばいい大人だということだが、はっきり言ってオッサンが地を丸出しにしているようにしか見えなかった。
散歩をせがむときにものそのそと歩いてきて鼻面で彼の脛を小突く。
(散歩に連れてけや)
そんな台詞が聞こえてきそうである。
食事の時間になっても同じようなもので、
(メシ食わせろや)
台詞の内容が違うだけである。
残りの時間は、いつも彼が座っているソファの真ん中に陣取って昼寝をしているだけ。もしかしたらテレビも見ているのかもしれない。時折足先で器用に首の後ろを掻く仕草も、妙に人間臭くて。
何か、腹が立つ。
しかし腹が立つのはそれだけの理由からではなかった。
何せやってきて以来、ティーダのベッドにはいつもこいつが一緒に寝ているのだ。ティーダが彼の寝室にやってくることもなければ、当然その反対も許されない。はっきり言ってこいつのおかげで『できない』のである。
つい先頃になってようやく思いを遂げられた恋人相手にこのお預けは少々キツイ。
もう30代、いやまだ30代。枯れるにはまだまだ遠い年頃の彼である。
彼はソファの上から犬を追い払い、そこにどっかと腰を下ろした。
空調の風も直には当たらずテレビも一番いい角度で見える。特等席である。
「ふん」
横目で恨めしげに犬を睨む。
(何が『クリスティーヌ』だ。ふざけた名前を)
犬が彼を見上げる。潤んだ瞳はどうにも不敵に笑っているようにしか見えない。
いや、今確かに鼻を鳴らした。
「おい、クリスティーヌ」
試しに名を呼んでみた。
ティーダに呼ばれたときならぴくんと全身で反応し、嬉しそうにとことこと走ってくるのだ。
ところが今は。
どっこいしょ、そういう台詞がぴったりな仕草で面倒くさそうに振り返り、ひとしきり彼を見つめた後、首の後ろをぼり、と掻いた。
(こいつ……食ってやろうか)
半ば本気でそう思った。


そしてその日もまだ彼と犬との生活は続いていた。
しかしそれまでと違うことがひとつ。
「オレ今日から野外実習だから。前から言ってたやつ。明日には帰るからクリスティーヌの世話、よろしく頼むよ。あ、いじめんなよ」
ということである。
「何が世話を頼む、だ。散歩も食事も世話らしい世話などしとらんくせに」
元気に出かけていくティーダを見送りながら、彼は一人ごちた。
クリスティーヌは彼の足元でいつものように伸びをひとつして、のそのそと部屋の中に戻っていく。
彼は大きく溜息をついた。

陽が高く上り、そして傾いて沈んでいく。
しかし陽が暮れても、夜が更けても、当然ながらティーダは帰ってこない。
「おい、いつまでそうしているつもりだ?」
アーロンがそう声をかけるまで、クリスティーヌは玄関に座ったまま動こうとはしなかった。
「いつまで待ってもティーダは帰って来んぞ」
言葉の意味がわかっているのか、クリスティーヌはくぅーんと切なげに鼻を鳴らした。
さすがにいつもよりは優しく小さな犬をつまみ上げてリビングに戻る。
いつもであれば賑やかこの上ないはずのティーダがいないと、家中がひっそりと静まり返っている。まるで灯が消えたようだ。
所在なげにうろつきまわる犬を視界の端に留めながら本など読んでいたが、何とも落ち着かない気分である。
「寝るか」
呟くと早々に寝室に引き上げるべく腰を上げた。
今日くらいは作ってやった寝床で寝るかと思っていた犬は、彼についてとことこと歩いてくる。そしてティーダの寝室のドアの前にちょこんと座り込んだ。
「お前な……ティーダはいないと言ったろう。ほら」
苦笑しながらそれを抱き上げて、閉ざされたドアを開いてやる。いつもティーダと眠っているその部屋に、誰もいないということをわからせるために。
しかしクリスティーヌは彼の腕をすり抜けて床に降り、驚くほどの素早さでティーダのベッドに飛び上がった。
「おい……」
そしてきょろきょろと周囲を見回し、くぅんと一声悲しげに鳴いた。
彼は静かに歩み寄り、ベッドの上に腰掛けてその犬を見下ろす。
まっすぐに見上げてくる潤んだ瞳が語りかけてくる言葉が聞こえたような気がした。
「淋しいのか」
手を伸ばし、小さな頭をくしゃりと撫でてやる。
尋ねるように呟いた言葉がそのまま自分に向かってくるようで、彼は自嘲気味に笑った。
わずか一日顔を見ないだけで何だか取り残されたような思いにとらわれているのは、この犬ばかりではない。
見上げてくるクリスティーヌの淋しそうな瞳が彼自身の心情ををそのままに映し出しているようだ。
そのときアーロンはようやく悟った。
この数日ずっとこの犬と自分とは、同じ人間に思いを寄せてきたのだと。
多分相手を邪魔に感じていたのはお互い様だったのだろう。そう考えると何だかこの犬が、共に同じフィールドに立つ同志のように思えてくる。
潤んだ瞳、頼りなげなすがるようなまなざしで見上げられ、彼は伸ばした指先でその頭にそっと触れた。
「ティーダが好きか?」
クリスティーヌは肯定するかのように喉を鳴らす。
アーロンはじっとそれを見つめ、やがて誰にも見せた事がないほどの柔らかな笑みを浮かべ、低く言った。
「そうか……俺もだ」
のそ、と膝の上によじ登り、そこで身体を丸めて目を閉じた小さな犬を包み込むように抱いてやる。
置いていかれた者同士、連帯感のようなものが芽生えていたのかもしれない――


あくる日、いつもの時間にティーダは帰宅した。
「たっだいま! アーロ……わ!!」
出迎えに立ったアーロンの横を駆け抜け、クリスティーヌがティーダに飛びついた。
「おいったら……こら」
抱き上げたティーダの腕の中でじたばたと暴れながら、顎と言わず頬と言わずなめ回す。
おかえり、の言葉をかけるきっかけを失くしたアーロンはただその光景を見守っていた。
2日前までの彼であれば、もしかしたらその場で流星でもお見舞いしていたかもしれない。しかし昨夜共に過ごした一夜を経て奇妙な仲間意識が出来上がっていたのか、一歩下がって見守るだけの余裕が生まれている。
恋敵とはいえ犬畜生だ。あんなに慕っているのを邪魔するのもかわいそうではないか。どのみちティーダが本当に必要としているのは自分なのだから。
彼は夕食の支度をするためにダイニングに戻った。
やがてティーダも犬を無理矢理床に下ろし、彼の後を追ってきた。
「アーロン! 腹減ったっす!!」
何やら物悲しい気がしないでもないが、他ならぬティーダの求めには応じなければならぬ。
いつもよりも少しだけ手間をかけた夕食を済ませ、指定席のソファに腰を下ろすとやっと日常が戻ってきたという気がする。
「でさ、アーロン。そこで……、こら、クリスティーヌ。待てってば。……だからアーロンさあ……クリスティーヌ! やめろって!」
何を言おうとしているのかまるでわかりはしない。
それでもよかった。あるべき光が家の中に満ちている。やかましいほどの騒ぎであってもそれはそれでご愛嬌だ。
しかしティーダの方は、せっかく帰ってきてアーロンに話したいことがいっぱいあったというのに、これでは話もまともにできない。
「なあ、アーロン」
ティーダはこのときばかりはじゃれつく犬を無視することに決めたらしい。腰を上げ、アーロンの前に立った。
「だからね、それからアイツが……」
足元にまとわりつくクリスティーヌを好きにさせておいて、改めてしゃべり始めたティーダ。アーロンは膝の上で開いていた本を閉じて見上げた。
ティーダはようやくアーロンとまともに視線を合わせられ、嬉しそうに笑った。
その足元に必死にしがみついているお邪魔虫がいたとしても、彼は充分幸せだった。
その時までは。
「だからオレ、昨夜は全然寝られなかったんすよ」
「それは災難だったな」
笑って相槌を打った彼の視界の隅で、異変は起こっていた。
だろー、と口を尖らせるティーダのふくらはぎにしがみついたクリスティーヌが怪しげに体を動かし始めたのだ。正確に言えば下半身を。
ひこひこひこひこ……
「まだ眠くないけどさー」
甘えるような目で見つめられれば、普段の彼なら一発KOされるところだ。ところがアーロンの眼はティーダの足元で固まってしまっていた。
異変はさらに続いている。
しこしこしこしこ……
「だから、あ……?」
ようやくティーダもそれに気づいたようだ。
「…………」
「…………」
二人が言葉もなく見つめる前で、クリスティーヌはティーダの脚に抱きついたまませっせと腰を動かし続けている。
やがて、ひこ、とクリスティーヌの動きが止まった。
「ア、アーロン……」
ティーダは恐る恐る足元を見、それから泣き出しそうに顔をゆがめた。
ズボンの裾には濡れたような染みが。
クリスティーヌはゆっくりとティーダの脚から身を離し、彼を見上げてにやりと笑った。

――ぷちん。

彼の中で、何かが音を立てて切れた。

アーロンはすっくと立ち上がると、クリスティーヌをつまみ上げてぽいと放り投げ。
そしてティーダの首根っこを掴むとそのままバスルームに引きずり込んで消えた。
……この日一番災難だったのはティーダに違いない。


その夜、クリスティーヌは主のいないティーダのベッドで丸くなっていた。
隣の部屋からはひっきりなしに呻きとも悲鳴ともつかない声が漏れてきている。
しかし彼は満ち足りていた。
何故ならあの男の先を越したから。
おそらくは彼よりもずっとモヤモヤしたものを溜め込んでいたはずのあの男の。
彼はけっと喉を鳴らすと、ティーダの匂いの濃く残ったシーツの上で眠りについた。



数日後、クリスティーヌは迎えに来た飼い主に連れられて帰っていった。
ちぎれんばかりに尻尾を振って飼い主に飛びついていくクリスティーヌを見て、心底ほっとしたのはアーロンだけではなかったろう。
「またいつでも遊んでやってくださいね」
飼い主は見送る二人ににっこり頭を下げ、二人は曖昧な笑みを返す。
去ってゆくつかの間のペットの姿が見えなくなってから、ティーダはぼそっと呟いた。
「犬を飼うって大変だね……」
「今頃わかったか」
アーロンは小さく笑い、ティーダの頭をぽんと叩いた。

それ以来ティーダがペットを飼いたいと言い出す事は二度となかったという。





fin.


「PUMPKIN HEAD」の緒方優有様から頂いたキリ番小説です。
取ったキリ番というのが、555番と1001番というモノ。はっきり言ってこじつけと言うか、お強請りに近いモノでした。
特に1000番を後一つと言うところで取り逃がしたので、余りの悔しさをつい掲示板にて言ってしまったところ、緒方様から「リクエストいいですよ」との暖かいお言葉を貰ったのでした。

慎み深いお人ならここで遠慮するのでしょうけど、私は自分の煩悩に忠実に従ってしまいました。
「では預かったペットに振り回されるお話をお願いいたします!」と。…だって〜緒方さんのアロティが大好きなんだも〜ん。
それに今ここでお願いしなきゃ、次なんて望めないかも知れないと思ったので、厚かましくもお願いしてしまいました。
…そして出来上がったのがこの小説。

ア、アーロン最高に素敵。
ワンコ相手にティーダを張り合う様なんか、いい!
緒方さんの書かれるアーロンってば、もろ好みなんですの。渋くて、男臭くって、なにげに天然が入っているところすらも大好き。
そして、この小説の影の主役は誰あろうクリスティーヌちゃんではなかろうかと思ってしまいます。
激しく裏表のある性格が味わい深くて、いいキャラだな〜と。
ワンコなのに、ティーダに思いを遂げられて「やるじゃん」とか思っちゃった。

ホントに、ホントにこんな素敵な小説を有り難う御座いました。