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Tempest
嵐の後の空というのはなぜこんなにも澄んだ色をしているのだろうかと、半ば忌々しく思いながらアーロンは足を止めた。
ちょうど建物に邪魔されていた視界が急に開けて海が一望できるようになった場所だ。
昨夜の嵐が過ぎ去るまではくすんだ色に彩られていた海も空も、今は降り注ぐ日の光を浴びてこれが同じものなのかと驚くほどに様相を変えている。
毎日見ているものでありながら一晩荒れ狂った嵐を体験したあとではやはり飛び込んできた光景を受け止める気分も違う。さすがの彼ですら外に出ることもできず家にこもってやり過ごした嵐がもたらしたのは、奇妙な開放感とその開放感には似つかわしくないような重苦しい気分だった。
周囲のざわめきもまた普段とは違う。いや、今の心境のためなのだろうよけいに違いが際立っているような気がする。
とはいえ記録的な強さだと伝えられた、嵐によって街中は普段のきらびやかさとは一転し、どこか落ちつきを失っていた。
嵐が来襲するまでの浮き足だったような雰囲気とは異なり、疲れすらにじませた周囲の状況に、アーロンは一瞥を投げかけ、止めていた足を再び動かした。
街中よりもさらに打撃を受けただろう海の上に住む、養い児の様子を見に行くためだった。
ティーダはすでに16才となりブリッツのプロとして、本人曰く『活躍している』らしい。
確かに名前をよく聞くようになったし、それは間違いではないようだった。とは言え、この世界に辿り着いてからかなりの時間が過ぎ、託された子供と積み上げた時間が増えて、アーロンにとってはやはりティーダは託されたときのままの子供という印象が拭えなかった。
プロになると宣言した時点で、ともに過ごした海上の家を出て街中に居を構えたアーロンが、まめにティーダの様子を見に行くのもそのためだ。
ほかに理由はないのだと言えば嘘になるのはわかってはいる。事実アーロンとティーダの間にはおよそ後見人と被後見人との間にはあり得ないような恋愛感情があった。独占欲や肉欲の存在を認めてなお、幼子に向けるような温かい愛情もまた存在していたのだ。少なくとも、アーロンはティーダに明かさずともそれを認めていた。
今もまたその姿を見つけ、近づけば、かつてとまったく変わらないような表情でティーダは「アーロン!」と彼を呼んだ。
荒れ果てたハーバーで強風や高波によって壊されたり、波に打ち上げられたさまざまながらくたを避けながら駆け寄ってくる姿に複雑な愛情がわき上がる。
「無事だったか?」
すでにティーダからの一報は入っていたのだが、顔を見て安堵しながらそれでもそう聞いた。
まだしも安全だろうというアーロンの部屋へ来ることを拒んで、ティーダはこの湾で一夜を過ごしたのだ。
「もうぴんぴん。なんかすっごくスリリングだったぜ」
「船の中にいたのか?」
ティーダの自宅はジェクトが唯一子供に残した、船を改装した家だった。エンジンや動力部分を完全に抜き取り中は思った以上に広々としている。
とは言え普段ならば構わないもののあの嵐の中で船の中にいるのは危険きわまりない。
彼にしては珍しく、そのことを強調しティーダを手元に来させようとした。普段のアーロンならば自室に招き入れることすら一度は躊躇するというのに、あの時はそうしたほうがいいと予感めいたものがあったのだ。
だが、ティーダはただ「大丈夫だよ」と笑ってそのアーロンの申し出を一蹴した。家のこともあるしさ、と言われてしまえば強引に呼び寄せることもできなかった。いやどこかでアーロンはティーダを案じながらも、その時間をともにしたくはなかったのかもしれない。現に、荒れ狂う夜にアーロンはティーダを一人にした。
結果はティーダが無事とはいえ、彼の家はひどい状態だった。固定している鎖やアンカーが壊れ、いつ船が岸にぶつかり粉々になってもおかしくはない状態だったからだ。なによりも昨日の嵐はほかのものが思っているようなものでないことを、アーロンのみが知っていた。それから考えれば沈んでいなかっただけましだったのだろう。
想像以上に上機嫌のティーダの背後に、遠目からでティーダの自宅が傾いでいることに気づいてしまえば、後悔にも似たものが沸きあがる。自分の感情にかまけ、言いなりになったものの、やはり呼び寄せたほうがよかったのではないかと、思わなくはない。それほどの惨状だ。
普段ならば天に向かってまっすぐ伸びるマストの支柱が折れたのか、くの字というよりはへの字になっていて、どうにも痛々しく思えてならなかった。
アーロンの視線に気づいたのか、ティーダは背後を振り返り、笑った。
「ああ、大丈夫だよ。波の力で固定していたパイプが何本か折れたみたいだ。俺は陸に上がってたしさ。さすがにやばいかと思って、港湾事務所のほうに移ってたんだ。いくら俺でもそこまで命知らずじゃないよ」
顔の前でひらひらと手を振るその姿は確かにあの船の中にいたのならばありえないだろう。
とはいえ、一晩中起きていたらしく、瞬きの回数が多かった。しかも起きていたのも、嵐に恐怖してのためではなさそうだった。この子供は雷や嵐などが大好きなのだ。
まさか、街を破壊してしまうような桁の違う嵐ですら同じような扱いになるとは思っていなかっただけに、アーロンは苦笑するしかなかった。
先ほどまでの陰鬱な気分がおかげでわずかばかり軽くなったのはティーダの中にある幼さのおかげであるに違いない。
「波がすごかったよ。事務所のあたりにまで水が来てたし。もっと街のほうに移動したほうがいいんじゃないかってみんな話してた」
港湾事務所というよりはこの周囲の警備事務所のようになっている建物は、ここから道を隔ててひとつ奥にはいっただけの場所にあった。
ブリッツの選手がよく海で練習をするためなのか、この街は海岸一体が高級住宅地になっている。スフィアプールもまた海に面しているためなのだろう、たいがいのブリッツ選手は海の近くに住居を求め、そして一般の人間は奥へ奥へと追いやられてしまうのだ。そのため港湾事務所であったはずのものが、ブリッツ選手やほかのハイソサエティのための治安施設に近い意味合いまで持つようになった。
とはいえ、生まれたときからここで暮らすティーダにとってはこの一帯はただの近所であるし、港湾事務所もまたいつも仲良くしてくれるおじさんたちがいる場所としての認識しかない。
おそらくは誰かが心配してティーダを事務所に引き取ってくれたのだろう。その心遣いに感謝しながらも、時折こんな風に言うことを聞かなくなるティーダを軽く戒めることだけは忘れなかった。
「それはさぞかし濡れただろう。雨もすごかったからな」
「そうなんだよ、合羽なんか役に立たないんだよ、パンツまでぐっしょり…あっ…」
言ったあとでしまったと思ったのだろう。ティーダは口元に手を当てている。
「やはりな」
危険なまねはしない。それこそ外にはでないと受話器の向こうで約束するからと言ったのはティーダ自身だった。それがこれである。好奇心で危険なまねをするのは猫以下だと一言い、そのまま足を進めれば慌てたようにティーダがまとわり付いてきた。
怒っていると思っているのだろう。呆れはしていたが怒るほどではなかった。
何よりも、ティーダの姿を見ただけで先ほどまでの重い気分がわずかに晴れていた。喉元を締め付けるようなそれに辟易していただけに、救われるような気分になる。
足元は恐ろしく荒れていた。
住んでいる者達に合わせたかのように普段は塵ひとつない地面に、今は木屑から始まりさまざまなものが転がっている。かなり離れた場所で、車が横倒しになっているのは、おそらく押し寄せた波のせいだろう。
周辺の住人がこぞって片付けに精を出していた。ティーダもまた先ほどまでそれに加わっていたのだが、今はただアーロンの名を呼びながら、後を付いてくるばかりだ。
「アーロン、ねえアーロンってば!」
背後のティーダには知られてはいないだろうが、どうしても口元が緩む。
忙しそうに立ち働く顔見知りに会釈を返しながら、アーロンはだが振り向こうとする誘惑に負けることなく足を進めた。
かつてアーロンもその住処としていた船のそばまでたどり着き、足を止める。一度重心が動いたためにか、今現在もひどく危うい均衡で存在しながら沈むのを免れているように見えた。
「マストを切っておいたほうがいいのではないか?下手をしたらこのまま沈むぞ」
折れたマストと半ば横転していることを除けば、嵐の直前に訪れたのと、さほど外観は変わらないようだった。窓のひとつも割れていないことが奇跡としか言いようがない。
どこにも大きな破損がないことになぜか安堵している自分がいた。それはかなり複雑なものではあったのだが。
「うん、もうちょっと落ちついたらだなあ。これじゃあ、機械も入れらんないっしょ」
何事もないかのようにティーダが横に並んだ。声が弾んでいるように聞こえたのは、騒ぎすぎたためなのか、それとも喜色が声に出たのかまではわからない。
「確かに大掛かりにはなりそうだな」
見上げてくる、視線を感じながらも視線は船に定めたままだった。
「中にはまだ入っていないのか?」
「さすがにねえ…そこまで無茶じゃないよ。家具はみんな据え付けだけど、小物はけっこうイっちゃってるかも」
溜息をつきながらティーダはふらりと前へと出た。
わずかばかり沈んだ声色になったティーダの気持ちもわからないではない。未だに大事に家族の写真を飾りいまも母親の使っていた食器を彼は使っている。口ではなんと言いながらも、それがティーダの本心なのだろう。
おそらくはガラスや陶器類は諦めたほうがいいだろう、そう口に出そうかと思ったものの、さすがにそれをティーダに言うことはできなかった。
ゆっくりと船へと近き、ぐるりとティーダは、傾いだ船を観察するように回り込みながら歩いた。
その様子をアーロンはその場を動かずに見守る。
しげしげと観察する姿や始めてそばに寄ったらしい様子にどうやら、今までずっと気にはしていてもこの船には近づかなかったことにアーロンは気づいた。
自分を待っていたのだろうかと思い、ティーダなぜそうしたのかを思うと複雑な気分になる。果たして声をかけるべきかと思ったものの、結局はそれもできずにアーロンはティーダと波に揺れる船を眺め続けた。
凪いだとはいえ波は常にあった。ゆらゆらと揺れる船はアーロンの目にはひどく不安定に見え、ティーダの姿とあいまって再び気分がふさぐ。
自然と、視線が逸れた。とはいえ、どこを向いても昨夜の嵐の爪あとが残っていてやり切れない気分になる。
不安定な形のままに存在し続ける船と、荒れ果てた港。まるでこの世界のようだと、アーロンは思う。
自分の思考に沈んでいた彼の耳が背筋の寒くなるような音を拾ったのは、ティーダがそばを離れてからどれくらいの時間が経っていただろうか。
反射的に顔を上げれば、今まさにマストの折れた部分が重さに耐えかねたように、へし折れようとしていた。
「ティーダ!」
声を上げるのと足を踏み出したのは同時だった。
なぜかしゃがみ込み、海面を覗き込んでいたらしいティーダはアーロンの声に反射的に振り向いた。
自分の様子に笑いかけようとしていた顔が凍りつくのがはっきりと見え、その顔は自分が抱きこむようにしてティーダを押し倒すことで、見えなくなった。
凄まじい音と振動、ついで激しい水音が起こったのは一呼吸おいてから。さらに耳元で虫が飛ぶ羽音が聞こえた。いやそんな生易しいものではなかった。壊れたスピーカーががなりたてているようにその音は奇妙にぶれ、次の瞬間に背中に焼き鏝を押し当てられたような熱を感た。
それを痛みと知覚する前にアーロンの視界は黒く変化してゆく。
薄れ行く意識の中で、さまざまな音が鼓膜をたたいたことを認識していたものの、アーロンはそのどれにも対処することができなかった。
「……アーロン、アーロン。気が付いた?」
何度も名前を呼ばれたことはわかっていたものの、うるさいと文句を言おうとしてうまく言葉がつづれないことに焦れて目を開けば、ティーダの顔のアップが視界に飛び込んできた。
「…う…っつ」
なにがだと問おうとして、やはりうまく声がでない。どこかぼやける視界に目を擦ろうと腕を上げようとしたものの、全身を貫くような痛みに、呻き声を上げるのが精一杯だった。
「…よかった、このまま死んじゃったらどうしようかと…」
験の悪いことを言ってティーダは、みるみる目に涙をためていった。
「なにを…」
言っているんだと問いかけようとして、ふと自分が見知らぬ部屋にいることに気づき、アーロンの関心は一時そちらに移った。どこだとまずは考え、ぐるぐると思考ばかりが走る。
しゃくりあげるティーダの様子にその詮索を中断しアーロンは、身を起こそうとしてさらに苦痛にうめくことになった。
「だめだよ、まだ起きちゃ」
「病院か?ここは」
鼻の頭を真っ赤にしたティーダが、起き上がろうとするアーロンを押しとどめようとしたものの、アーロンは結局強引に身を起こした。元来丈夫な彼はこのような状態は慣れていなかったため、痛みよりも、居心地の悪さの方が先に立ったからだ。
流石に座っているのもきついと思い始める前にベッドの背が起こされた。家庭のベットではあり得ないその機能に、やはりここは病院なのだと思い知らされ,アーロンは溜息を吐き出す。
「無理しちゃだめだよ。検査で異常はなかったみたいだけど」
ティーダが気を回し、アーロンに水を渡す。
飲み干した水はまるで甘露のようだった。人心地つくとはこういうことなのだろうかと思いつつも、コップを持つ手に力が入らないことに辟易する。
痛みのために顔から血の気が引いているのが自分でもわかっていた。独特の匂いを自覚してどうやら全身湿布だらけらしいと暗鬱な気分になる。
唯一の救いはティーダには怪我ひとつさせなかったことだろう。少なくとも、今度もまた約束を守れた。その安堵にそっと息を吐き出す。すでに交わした相手にとっては約束は意味のないものになっていたのかもしれないが、少なくともアーロンの中では約束も愛情も同じだけの重さで存在している。
「なにがどうしたんだ…一体」
「俺庇ってさ、折れた支柱のワイヤーが勢いで跳ねたのにもろに打たれたらしい―――」
ティーダの話によると支柱自体は離れたところに落ちたらしい。だが重心を失った船が勢いで反対側に振り子のように揺れて、支柱から引き千切れたワイヤーがその勢いで踊ったようだ。実際に海上を走る船と同じものをつかっているのだ。そのワイヤーもまた鉄製の丈夫なものだった。それに鞭打たれたようなものだったらこの状況もさもありなんと納得するしかない。それこそ、身体がまっぷたつになってもおかしくはなかったはずだ。
ティーダ自身もアーロンに庇われてその様を目撃していなかったらしいのは、今この状況では助かったと思うしかない。でなければまずはアーロンはこの子供の受けたショックを和らげてやることからはじめなくてはならなかったからだ。
なにも考えず反射的にとった行動だったが、目を泣きはらしていること以外では普段とかわりなさそうなティーダの様子に無事でよかったと、己を納得させることにした。
これでティーダまでもが怪我をし、亡くなっていたならば目も当てられないどころか、アーロンは存在意義すらも失ってしまう。
「ごめんね…」
「謝ることはない」
心底打ちひしがれたようなティーダの様子に、そう言うしかなかった。
「だって、俺の所為でアーロン…」
再び涙ぐみはじめたティーダに、苦笑するしかない。
「お前の所為と言うよりはあの嵐の所為だろう。確かに危険だとは思ったが、お前が船に近づくのを止めなかった俺も過失がある」
「過失だなんて…」
俯いていた顔を跳ね上げるようにティーダがそう言ったのに、苦労して笑いかけてやった。
「そう言うんだったら、お前も自分を責めるな。タイミングが悪いときは、誰にでもある」
そう思うしかなかった。半ば自分に言い聞かせた言葉だ。
「でも…ありがとう。こんなこと言うの変だけど、庇ってくれて嬉しかった」
ティーダが立ち上がり、顔が近付いてくる。
軽く唇が触れ合った。恐らくアーロンの身体を気遣ってだろう、ただ唇を触れ合わせるだけのキス。自分のそしてティーダの唇の乾いた感触に、ざわりと心が騒いだ。
すぐに離れていった顔からは、照れと自分を気遣う色が見て取れた。胸に迫ってくるものに突き動かされた。合わせた視線を外すことなく、腕を持ち上げ、痛みに顔が歪んだことに気付いたティーダが身を引こうとしたのに構わず、肩に手を置くことで押しとどめ、更にその肩を引いた。
「アーロン…」
戸惑った表情。
「もっとだ…ティーダ」
ティーダの目元が染まったのは、羞恥のためだったのだろうか。おずおずと寄せてくる唇の感触を楽しむ。
啄むように幾度もキスをくり返し、更にアーロンの怪我を気遣いながらも深く求めてきたティーダを貪った。
唾液は甘かった。
自分が渇ききっていることを知り、舌で口内を蹂躙する。
ティーダは甘く声を上げながらそれを受け入れた。濡れた音が部屋に響き、甘えたように鼻にかかった声を上げるティーダの唇を貪る。
ティーダの息が荒くなるのがわかる。肩から頬へとへを滑らせ、その滑らかな肌をくすぐれば、ティーダは甘い声を上げた。
「ティーダ…」
いつもと同じように名を呼んだ。普段ならば甘えるように身体を摺り寄せてくるはずだった。
だが、ティーダは慌てたように身を離す。
「だ…だめだよ…」
何をしたわけでもないのに、喉元を隠すその仕草が微笑ましかった。
「なんでだ…?」
あえて問いかければ耳までもが赤く染まる。
「したくなっちゃうじゃん…こんなところで…」
「お前が乗ってくれるのか?」
からかえば、怒ったように頬が膨れた。
「バカ…っ」
羞恥のためなのだろう、言いながらベッドの縁に額を押しつけてティーダは顔を隠す。
その頭に手を乗せる。柔らかい髪に指を差し入れ、撫でるように梳くだけで、なぜかなぜか心が安らいだ。
まだ失ってはいない―――。その認識は苦く甘い。胸にしまい続けるにはあまりにも苦く、でありながら手放せない甘さを噛み締めるように、アーロンは目を閉じた。
手の下で声が上がったのはしばらくの時間が経ってからだった。
「死んじゃったらどうしようかと思った…」
何か言ったらしいティーダの言葉がよく聞き取れず、問い返せばはっきりと告げられた言葉。ティーダは顔を上げないままだったが、アーロンの手の動きは止まった。
「アーロンがいなくなったら、また俺1人で…やだよそんな…」
答えるべき言葉に詰まり、黙っていればティーダは顔を上げてアーロンを真っ直ぐ見つめてくる。まるで心の底を見透かされそうだ。目を逸らしそうになるのを必死で抑える。普段は受け止めてやれるものも、今のアーロンにはその余裕がなかった。
「一人は…ヤダ…」
両親を失ったティーダの、それは癒えることのない傷だ。
アーロンに身を任せたのも、もしかしたならばその傷のためではないかと思うほどに、ティーダを穿つ暗い穴は深く大きかった。何者もそれを埋めることは恐らくできないだろう。今ここにジェクトやその妻がいてすら、もう癒えることはない。
わずかながらとはいえ、その傷を軽くするのに自分は役立っているのだろうかと思いながらも、結局はその問いを口にすることはできなかった。幾度となく口にしたくてもできなかった問いは今もまた同じように胸のうちにしまうしかない。
「俺は死なない…」
結局はそれだけしか言えないだろう。
嘘は言いたくはなかった。となれば結局は口をつむぐしかない。アーロンが以前はどんな暮らしを送っていたのか、何を思って今ここにいるのか、そして昨夜のあの嵐の原因。
ザナルカンドを襲った嵐はおそらくはシンがもたらしたもの。召喚士と戦ったのか、もしくは別の理由かまではアーロンにはわからない。ただ普段とまったく異なるこの暴力的な天災から想像できる可能性はわずかであった。そのどれかであるかなど、どうでもいいことだ。結局はシンはまだ存在している。ジェクトはとらわれ続けているのだ。
シンとザナルカンドは繋がっている。球体の中に閉じ込められた街に変化をもたらすものは外界との繋がりともいえるシンによってだ。そのことを知識としてではなく、アーロンは肌で知覚してた。いやこの世界に渡る際に刷り込まれたものであるのかもしれない。生まれたての赤ん坊が、世界を認識するのと同じように本能が、何かをアーロンに伝えている。
それを頭の隅で意識しながら普段のようにティーダに甘い言葉をかける気にはならなかった。でありながら慰めてやりたい。
ただ守るはずだった対象に、今ではこれほど心奪われてしまっている。
胸のうちで謝罪を幾度もした。ティーダへと、ジェクトへと、そしてすでにはるか故郷で骨となっているだろう、己の骸に。
結局ティーダへと向けたのはただの事実のみ。それしか言えない自分に歯噛みし、心の中でティーダに謝罪する。
ティーダの表情は泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「なんだよそれ…へんなの」
冗談として受け流そうとした気持ちがありがたかった。
「変なのか?」
聞けば、ティーダは今度こそ笑ったようだった。
「変なのは昔っからだけどさあ…」
言いながらティーダは今は力を失って、投げ出した指の先を遠慮がちに握る。おそらくは怪我を慮ってのことだろうが、それははじめて会ったころの幼い子供の所作を思い出させた。
「悪かったな…」
低く、自分もまた冗談に紛らわせながら謝罪の言葉を口にする。こうして誤魔化し続ける自分の醜さに嫌気を感じながらも、アーロンにはどうすることもできなかった。
「けっこう俺ってば、すごくねえ?」
医師が目を見張るほどの回復を示したのは当然のことと、引き止められるのを無視して病院から出たアーロンはそれから、ティーダへとどうしても連絡を入れることができなかった。
向こうからもなぜだか接触をとってこない。身勝手なことにそれで鬱憤をためているのだから、自分もいい加減若いと思わずにはいられななかった。
でありながら一月を過ぎたころに突然呼び出された。しかも、まだ朝もやが海上を漂うような時間だ。
このはた迷惑さは誰かを髣髴させると思いながらも、しぶしぶとアーロンは睡眠不足の身体を引きずりながら、いつもと同じ道をたどる。街はすでにあの日のことをなかったこととしてしまっている。夜の享楽的な雰囲気の名残漂う街中をぬけ、港へと向かったアーロンはそこで想像もしていなかった光景を目にする。
優美な魚の背びれを思い起こさせるような曲線を描いたマストは青く輝く。先日の悲惨な様子の記憶が生々しいだけにかつてと変わらぬその様子にアーロンは一瞬声を失った。
「契約金と給料全部つぎ込んじゃったけど、俺の金で全部やったんだ」
自慢げに腰に手を当ててティーダはアーロンを見上げる。
塗装も塗りなおしたのだろう。上り始めた朝日を受けて船の突端が輝くさまは感動的ですらある。
「一番にアーロンに見せたかったんだ」

そう言ったティーダの顔もまた日の光に照らされ、金の髪が輝いているようだった。
胸に迫るものがある。
なぜティーダから連絡が入らなかったのか、理由はその顔を見れば明白だった。アーロンが何も言わないためにか、不安そうに船へと視線を流したティーダを、衝動的に抱きしめたい気分になった。
身体がまずはそれに従った。耳元で上がった声を無視して、その肩に顔をうずめる。
潮の香りを胸に取り込む。今までと同じ空気を吸っているはずだというのに、まったく違うもののように思えるのだから不思議だった。
どこかすがすがしい気分になったのはなぜだろう。ここ一月ほどの重苦しい気分がうそのように収まっていた。
「アーロン…?」
腕の中から聞こえる声に、抱きしめる力を強める。
「正直…感動した」
シンという存在を久しぶりに意識したために、凍りついていた心が溶かされていくようだ。美しい船の向こうで彩を深めてゆく海の輝きになぜだか目頭が熱くなってゆく。
ジェクトが造った船を、今またティーダはさらに美しく復活させた。寸分たがわぬ形であることに、言葉ではできない思いがある。
その気になればデザインなどいくらでも変えられただろうにと、それを問いかけたかったものの結局は口にはしなかった。
ティーダはおそらく嫌がるだろう。わかっていて、言葉にするべきではない。
「な…ねえ…ちょっとぉ」
腕の中でもがくティーダの望むように腕の力を緩めれば、見上げてくる青い瞳とかち合った。
大丈夫だ―――。
胸の中にその言葉が落ちて来る。
どこかでティーダの成長を認めようとしない自分がいたのだろう。そのティーダはするりとアーロンの腕の中から逃れ、一人ですでに立っていたのだと教えられた。
守らなくてはとだけ思い定めていた子供は、朝日を受けてうつくしく腕の中にいる。
向けられた瞳に笑いかけた。
そしてアーロンはティーダの唇にキスを落としていた。
アーロンが養い子を連れ世界を渡ったのは、それから一年の後だった。
END
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