Pierogi
アーロンが料理をする姿を見るのがティーダは好きだ。
子供のころからそれは見慣れた光景で、この家にとっては当然のことだといえた。ティーダがプロの選手になるのと前後してアーロンは家を出てしまったものの、すでにできてしまった役割分担のおかげか、時折アーロンが顔を出せばやはり料理を作るのはティーダの後見人のほうだった。当然、機会があればティーダはその姿を眺める。
そもそもの最初から、ティーダがアーロンをじっくりと観察したのもやはりアーロンキッチンで料理を作っているときだ。
母が死んで葬儀が終わった日の晩だったように思う。
すでにそれ以前からティーダの面倒を見ることなどできなくなっていた母親がキッチンに立ってティーダに食事を作ってくれることなどずいぶんなかった。だから余計に、印象に残っているのだろう。
どこか無愛想な、たまにふらりと来てはティーダたちの様子を見て行くだけの男が本当に父親の友人であるのか、それとも父親が行方不明になってから雲霞のように沸いてきた遠縁の一種なのかまでは判断がつかなかった。だが、ことジェクト名前がつく知り合いに関してはティーダは心を許す気にはなれなかった。それは自分の父親をティーダがおそらく一番嫌っていたからなのだろうが、そのころの彼の周囲には、そんな人物がわんさかと薄笑いをしながらひしめいていたからだ。
今思えばその半分はジェクトが行方不明になったことで、ティーダと母の身を心から案じていたものもいたに違いないがティーダにはそれを見分けるすべがなかった。だからこそ、誰にも借りを作らないようにしていた。そうあの日までは。
すべてが終わってどこか放心していたとしても、やはり時間は過ぎてゆく。
夕刻となり一人二人とティーダの周りにいた人間は帰って行きリビングで話し合う数人の大人以外は、誰もいなくなった。きっと金の話だろうとわかっていたから、ティーダはキッチンのカウンターの裏に逃げ込んでいた。そこにアーロンがやってきたのだ。
「食事は取ったのか?」
とまず最初に聞かれた。
なぜその場所にティーダがいるのを知っているのかはわからなかったが、そう聞かれれば首を横に振るしかなかった。誰もティーダの夕食のことを心配してはくれなかったし、そうでなくともほとんど数日の間ティーダは食事らしい食事をとっておらずそのときもやはり食欲などなかったからだ。
アーロンはティーダの様子に舌打ちをした。
怒られるのだろうと、反射的に身をすくませたものの、アーロンは身を翻してキッチンを出て行った。リビングでなにやら言い合いをしている声が聞こえたあと、再び静かになったものの、ティーダはそこを動く気にはならなかった。何よりもその場所には母との思い出が、それも楽しい思い出ばかりが残っていたからだ。
かなりの時間そこにうずくまっていて、半ば眠っていたのだろう次に気がついたときには、ティーダの脇にアーロンの足があった。言い方はおかしいだろうが最初そう思ったのだ。
「なにをしてるの?」
とでもきいたのだろう。自分がアーロンに何を問いかけたのかをティーダはもう覚えてはいない。そのときのアーロンの返答も記憶にはなかった。それでも、座り込んでカウンターに向かって作業をするアーロンをじっと見ていたような気がする。
なにをしているのだろうとぼんやりと思った記憶はある。アーロンはティーダに愛想笑いを向けるでもなく、黙々と忙しそうに立ち働いていた。いつの間にかひんやりとしたキッチンには暖かい空気がこもり、ティーダはその中で自分に関心を向けない相手を眺めていた。
やがてティーダに背を向けて鍋に向かったアーロンが湯気のたつ皿とフォークをもって目の前に膝をついた。それを手に渡されて食べるように言われ、口に運んだ。
もとより食欲があったわけではない。そのころにはティーダの胃は食事を受け付けられなくなっていて、ほとんど水分くらいしか取れなくなっていた。固形物を食べれば吐く。そのくらい長い時間誰もティーダの食事に気を配るものがいなかった。
そう言ってもよかったのだろうが、言葉を口に出すことすら面倒くさかった。だからしぶしぶ皿の上のものを口に運んだ。
舌をやけどするほどにそれは熱かった。舌がひりひりして痛くて悲しくて、ティーダはようやくそこで泣き出すきっかけがつかめたのだ。
結局裏でどのような経緯があったのかをティーダは知らない。ただ、そのあともアーロンはティーダの食事を作り続けてくれた。今もまたなだれ込むようにリビングでSEXをしたあとに空腹を訴えたティーダのために、アーロンはキッチンに向かっている。
久しぶりのぽっかりあいた休日をある意味有効にそして怠惰に利用するのは当然として、やはり生理的欲求には勝てなかった。しかも長年の習性なのか、アーロンはどうもティーダの空腹の訴えが無視できないらしい。どんなに激しい口論をした後でも、不承不承とはいえティーダのこの願いをアーロンが無視したことはほとんどなかった。
今もまたキッチンから、物音がするのを、リビングのソファーの背に顎を乗せて聞きながらティーダは見ることはできない相手の姿を思い浮かべる。ふと思い出した過去の情景に、自然と身体が動き床に散らばっていた服を拾い上げ身につけながら、キッチンへと向かった。
ぺたぺたと裸足の足が立てる音を耳にしながら、アーロンは振り向かない。ほとんどティーダと変わりないような格好をしたアーロンの背後から抱きつくようにしてもやはり存在を無視したように、アーロンはシンクで鍋に水を注いでいた。
「なあ」
「先にシャワーを浴びて来い、もう少しかかるぞ」
ティーダが催促に来たと思っているのだろうぞんざいにそう言われて少々頬を膨らませる。とはいえ鍋へと視線を注ぐアーロンにティーダの様子が見えるわけがなかった。
「そうじゃなくってさ…」
べったりと背中に張り付いたままいい続ければ、邪魔そうに一度肩が揺すられた。それを無視してもういちど「なあ」と呼びかける。
まずは盛大なため息をついてからアーロンは水道の蛇口を止めた。何事も関心を向けるのは一点。それは昔も今も変わらない。
「お前が腹がすいたというから、俺はこんなことをしてるんだぞ」
どうやら、多少気分を害しているらしい。振り向いてもくれないところにそれが現れている。
「そうじゃなくって…ねえ」
少しだけ爪先立ちになり、背後から首筋になだめるようにキスをする。こんなことで誤魔化されないだろうが、それでも今は甘えたい気分で、ティーダがしたかっただけなのだからどう取られてもかまわない。
「あれ食べたいなって思ったんだ…ほら、アーロンが始めて俺に作ってくれたやつあるじゃん」
そのままティーダをあしらおうと思っていたらしいアーロンが、その言葉にようやく振り向いた。察して一歩を下がったティーダは、不思議そうに見るアーロンの顔に出くわすことになる。
「初めて?どれのことだ?」
どれと言われてしまうと、ティーダも悩む。何しろあの食べ物の名をティーダは知らなかった。
「えと、母さんが死んですぐのときに作ってくれたじゃん。なんかみんなが相談してるときにアーロンだけ来てくれたんだよ、俺のところに」
アーロンはしばらく考え込むような顔をした。眉間に皺がよっているが、これは怒っているからではない。
「ピエロギか?」
なんだか聞いたこともない名前だったので、ティーダは首をかしげる。よくよく考えればあれ以来食卓にあの料理が出ることはなかった。母が作ったのを食べた記憶もなかっただけに、本当の名前を知らないのは当然ともいえたが。
「うーんと名前知らないよ、こんな形した白いやつ」
親指と人差し指で三角形を作って見せればアーロンは頷いた。どうやら同じものを言っていたようだ。
「お前あれ食べて吐いただろう。身体に合わないのかと思っていたんだが、大丈夫か?」
逆に顔を覗き込むように訊ねられて、ティーダは苦笑する。それだけの理由でもしかしたらこの10年もの間、一回も作らなかったのかもしれない。
実際散々泣いて、落ち着いたところでティーダはアーロンの作った食事を口にした。半分、照れくさくてそれを隠したかったからだ。だが冷えて硬くなった食べ物を何とか咀嚼して飲み込んで、結局ティーダはそれをすべて吐き出した。胃が食べ物を受け付けることができず、そのまま大人達に連れられて病院にいき入院騒ぎまで起こした。
「あれそういうのじゃないよ、もしかして知らなかった?」
もしそうだとしたならば、悪いことをしたのではないかと思った。ずっと自分のせいだと思われるのはなんとなく、申し訳ない。
だがアーロンは、口元で薄く笑っただけだった。事情はおそらく知っているのだろうと、その表情から見当をつける。
アーロンは無口で無愛想だ。本人もそのポーズを崩さない。だというのにほんのわずかな表情の変化で、言わんとしていることを察することができるようになってしまった。
「だったらさ。なんとなく食べたくなったんだ。昔のこと思い出したら、俺どんな味なのかも知らないから」
自然に腕が伸びてきて、腰が抱かれる。
「本当に大丈夫か?」
まっすぐにティーダを見る瞳はその内面をすべて暴いてしまいそうだ。
確認するようにもう一度聞かれ、それでなぜアーロンが作ることができるというのに一度もあの料理を作らなかったのかをティーダは知った。同居を始めた当初には、本当に料理のレパートリーが少なくて、苦労をしていたのを知っていただけに半ば呆れながらも、心遣いがうれしかった。
ティーダがたくさんのトラウマを抱えていることを知っているのはアーロンだけだ。だからこそ甘えるように身を寄せる。やはり甘えたい気分は正解だと、ティーダは思う。
「なに言ってんだよ、もう。大丈夫だって」
言って笑えば、アーロンは身をかがめてティーダの首筋に唇を落とした。どうやら先ほどの仕返しのつもりらしい。
「だったら、やはりシャワーを浴びていろ。芋をゆでなけりゃならん。時間がかかるぞ、待てるか?」
最後の言葉は、腹が減ったと騒いだティーダへの揶揄だろう。
「ひでえ、そこまで食い意地はってないつもりだよ。アーロンもシャワー浴びなよ、時間がかかるんだったら手伝うよ。せっかくの休みだからいっしょに何かやるのも悪くないじゃん」
悪くないアイデアだと思った。そうすればアーロンが料理する姿をそばでじっくり見ることもできるだろう。さすがに子供のころのように足元に座り込んで観察とまでは行かないだろうが、隣でその姿を見るのはなかなかに素敵なことのようにティーダには思えた。
「これは…珍しいな」
今度ははっきりとそれとわかる表情で笑われる。小ばかにされているとわかっているからこそ、自然と頬が膨らんだ。素敵なアイデアだと思った自分を揶揄されているように思えたからだ。
「なんだよ、その言い方は」
「その通りだろうが、子供のころからそんな殊勝な言葉をそうは聞けなかったような気がするがだいたい昔から…」
文句を言えば頭を撫でられる。ついでに昔話までしだしそうな気配にそれを嫌って頭を振れば、今度は低く笑われた。
どうもよほど、SEXの直後に腹がすいたと耳元で騒いだのが面白くなかったらしい。大人気ないと心の中で吐き出せば、何か言ったかと問いかけられてティーダは苦笑するしかなかった。
「もういいから、早くシャワー浴びてきなよ」
自分よりも厚みのある背中を押し出そうとすれば『一緒に入るか?』と訊ねられる。
ティーダの要求に諾々と従いながら、こうやって絡んでくるのだから、いい加減にしてほしいと正直思う。しかも一瞬その誘いにぐらつく自分がいるのは困りものだ。なかなか時間が合わなくてこれほどべったりとそばにいられるのは本当に久しぶりだったから、余計にその言葉は魅力的に感じた。
そんな自分を振り切るように半ば強引にアーロンをキッチンから追い出し、ティーダはほうと吐息を吐き出した。
「あぶねー、危うく手に乗っちゃところだったよ」
そう一人ごちながらも、自分の顔がにやけているのは自覚している。たぶんアーロンにも見抜かれているだろう。きっとシャワーを浴びながら思い出し笑いをしているに違いない。
だが、それでもそれはそんなに悪い気分ではなかった。
「ほらこれをつぶせ」
渡されたボールの中には茹で上がり粉がふいたようになっているジャガイモがはいっている。今度は玉ねぎのみじん切りに取り掛かったアーロンはティーダに当然のように仕事を割り振るとそのまま包丁を動かしははじめた。
結局交互にシャワーを浴びて、そのまま二人でキッチンに立つ。すでに皮が剥かれて茹で上がったジャガイモからはよい香りがして、空腹のティーダの腹を盛大に鳴らせていた。
できる限り誘惑に負けないよう、視線を逸らせば、まな板に向かうアーロンの背中があった。ボールを抱えながら、片手で芋をつぶしつつアーロンの脇へと移動して、その手さばきを見る。半分はつまみ食いの誘惑を断ち切るためで半分は好奇心だ。
子供のころはまめに手伝わされていたとは思うのだが、ブリッツ漬けの毎日を送るようになってからは、料理はできていて当然の状態だった。ティーダの帰りは大概遅かったためで、休日もチームの練習に出かけては夕方遅くまで戻らないような生活を送っていたのだからそれも当然とは言えただろう。
「なんかさ、すんごく包丁さばきうまくなってない?」
ついついそう聞けば呆れたようなため息が隣から上がる。
「何年お前の面倒を見てると思ってるんだ。おい、あんまりそばに寄るな。切りにくい」
邪険に扱われながらも、おとなしく一歩下がる。言われたとおりジャガイモをつぶしながらも、だがやはりアーロンの手元をティーダは眺めたままだった。
半分に切った玉ねぎを更にみじん切りにしてゆくアーロンの手の動きはスムーズで、上がる音もリズミカルだ。なんだか魔法を見るような気分だった。
まったく料理ができないわけではなかったものの、例に漏れずティーダもやはり玉ねぎを切るのは苦手だ。だから余計にそう思うのかもしれない。
半ば期待をして身を乗り出してアーロンの顔を覗き込んだ。泣いていたら、面白いと思ったからだ。
「なんだ?」
当然のごとく気付かれる。顔を上げてティーダの見るアーロンはさほど普段と変わらないようだった。
「あ、なんでもない」
慌てて首を振ったところで不機嫌そうな顔が向けられるだけだ。おそらくティーダの考えていることなど見抜かれているようだった。
誤魔化そうと口元に笑いを浮かべてその場をやり過ごそうとすれば。嫌味ったらしく深々とアーロンは溜息をついて見せるのだから、何か一言言い返してやりたい。だが、結局いい言葉も見つからないままティーダはただ手を動かしながら、アーロンの動きを眺めることしかできない。
ま、いいか。
かつかつと、ポテトマッシャーがボールに当たる度に上がる音と、軽快に包丁がまな板を叩く音だけがしばらくキッチンにひびいた。
銀色の包丁の歯が上下するたびに細かいみじん切りの量が増えてゆく。いつでもこんな顔をして切っているのだろうかと思うと、おかしくなった。だってすごく真剣な表情を浮かべている。
確かに手を切るおそれがあるのだろうが、きまじめな恋人のこの表情は見慣れたものであるにせよ、明るいキッチンの雰囲気にひどくそぐわないものであるような気がした。
決闘でもするような感じだよ―――とは、アーロンの手の動きとその表情を見ての感想だ。どうにも真剣そのもので、邪魔をするのが悪いような気がする。いつもこんな表情をして料理を作っているのだろうかとそんなことを思いながら、ティーダの手はのろのろとボールの中を上下していた。
とうとうぼんやりとアーロンを眺めているうちに玉ねぎをあらかた切り終わり、今度はフライパンがでてきた。さすがに火を使うとなると、邪魔もしないほうがいいだろうとの分別はつく。一歩下がっていれば、振り向いたアーロンは呆れたような表情を浮かべた。
「芋をつぶすのに、そんなに時間をかけてどうする。まったくぼけっとしおって」
「終わってるよ、でもほかにすることないじゃん」
口を尖らせれば、テーブルにボールを置くように言われそれに従えば、その横に新たなボールが目の前に出てくる。一緒に小麦粉や卵もだ。さらには水を入れたらしいカップまでが並んでティーダはアーロンの動きをただ眺める。
「だったら皮を作っておけ。卵と水で粉を練るんだ」
「げ…」
いかにも適当といった感じでボールの中に粉とわずかな塩が入れられて、手には卵を持たせられる。
「食いたいと言ったのはお前だからな」
否定のしようもない言葉にティーダは反論の気勢をそがれた。確かにそうだ。リクエストしたのはティーダだし手伝うと言ったのもティーダだ。だがまともに食べたこともないものを作れといわれるのは少々困る。
だが、アーロンはそんなティーダの心境を無視してフライパンを火にかけた。
「できないよ、やったことないもん」
「適当でいい。ラビオリの皮と同じくらいの硬さにしておいてくれ。ああ、水は少しずつ足すんだぞ」
上げた抗議の声には無常な言葉が返ってきただけだった。
しかもティーダに背中を見せアーロンは玉ねぎを炒めだした。こうなるとなにを言っても無駄だと言うことはわかりきっている。ティーダがどんなに文句を言ったところでアーロンに聞き入れる気はないのだ。このまま逃げ出してしまってもよかったのだろうか、そうすれば食事にありつけないことになる。
玉ねぎとバターの香りがキッチンに充満し始めていてさすがにその場をあとにするのは意地汚いといわれようが後ろ髪を引かれる思いだ。
せめてもの抵抗に盛大にため息をついて見せたものの、アーロンの背中は微動だにしない。結局ティーダは肩をひとつすくめて、粉の入ったボールに向き合った。
慎重に卵を割り入れ水を足して粉を練る。視界にアーロンがうまく入らないのが気に入らなくて、椅子の位置を変え、先ほどのようにボールを抱えてそのまま粉を混ぜまとめる。白い粉に卵の黄身の色がわずかに移り、水を足すたびに混ぜる手にかかる抵抗が減っていった。
ぼんやりとその作業を行いながらも視線はアーロンを盗み見る。
向けられたままの背中が振り返ることはなかった。
それをさびしいとは思わない。どちらかと言えば心が浮き立つ。
自分のためにアーロンが働いているのが嬉しい。同居していたときよりもどうしても距離ができてしまったように感じるからこそ、このひと時がとても大切なもののように感じる。
住む場所を分けたからと言ってアーロンがティーダをないがしろにすることは今でもない。会いたいとねだればできる限り時間を作ってくれようとしているし、こうしてティーダの休みに自分の休みもあわせてくれる。
そうやって自分に関心を向けてくれているのだということが嬉しかった。だから、今こうしてティーダの望みをかなえるべくアーロンがキッチンに立つのは、その現れのようでもある。
子供のころから同じような光景を、何度も見てきた。室内に漂うかぐわしい香りとともに、その姿は次第にティーダの中にさまざまなものを積み上げてゆき、いまもまたティーダの中に新たな感情を生み出していた。
どれもそれは暖かく、気恥ずかしくて、はっきりとアーロンに告げたことはない。だがティーダにとってそれはとても大切なものだ。アーロンが料理をつくる様子を眺めるたびに感じる幸福感を、今もまた噛み締めながら、ティーダは吐息をそっと吐き出した。
普通に生活していたならば、それは確かに存在しながらさまざまな日々の出来事の中で小さくなってしまっているというのに、こんな情景の中ではまるで空気の抜けた風船が再び空気を吹き込まれたかのように膨らんでくる。膨らみすぎて破裂してしまいそうだ。
吐息に織り交ぜて吐き出したものの、やはりそれはしぼむことはない。この時間が続けばいいと、だからティーダはひそかに願った。
さきほど抱き合ってキスを交わしSEXをしていたときよりも今の方が、アーロンに対する思いは大きくなるような気がするから不思議だ。こんな生活の些細なことから好きだという感情を見つけだしてしまうとなぜだか照れくさく、だがその一方でひどくそれは甘いもののように感じる。
「なにをしているんだ、お前は」
気が付けばアーロンは火を消しフライパンを濡れ布巾の上へと移動させて、ティーダの様子を呆れたように眺めている。
「え、あ…」
さすがに、これは照れくさい。正直にあんたを見て、幸せに浸っていたなどと言えるわけもなくティーダは慌てたようにボールの中身をかき混ぜはじめた。
「まったく、貸せ」
手が伸びてきて抱えたボールが奪われる。
抱えるものがなくなって手持ち無沙汰となった手が意識しないままにふらふらと動く。それでもティーダは未だ椅子に座ったままで、どうしてもアーロンから目を離すことができずに新たに粉を篩い入れボールの中身をこね始めるその動きを眺めた。
白いボールの中味はアーロンの手の動きに従って、丸くまとまりはじめる。
ティーダがほとんど関心を払わなかったためにボールの壁に張り付いたままのべたべたとした物体が、艶を持ち始めふっくらとまとまるのを見てるとなんだか、気まずさがわき起こった。
シャワーを浴びた後、シャツをラフに身につけただけのアーロンは袖をまくり手首までを白くして、ただ粉を練る。
咎められなかったおかげでそのままアーロンの様子を眺めながら、シャツの下の筋肉の動きを想像している自分がいることをティーダは知っている。スポーツをしているティーダよりも更にみっしりと筋肉をつけた身体はほんのわずかな動きすら美しく見せるすべを知っていると思う。
普段それほど鍛えているふうはないのに、その身体は強靱だ。でありながら、今その筋肉はティーダのためだけに今、力強く働き続けている。
出来上がった種をそのままのし板に移しアーロンは今度はめん棒で皮を薄く伸ばしはじめた。
先ほど玉ねぎを切ったときと同じようにその顔は真剣そのもので、ティーダの視線は吸い寄せられるようにアーロンに向けられたままだった。
「どこか調子でも悪いのか?」
滑らかで力強い動きに視線を向けたままのティーダにとうとうアーロンは問い掛けてきた。更には手の甲で額に触れようとしているのだろう手が伸びてきた。
「そんなことないってば。ごめんぼんやりしてた」
苦笑しながら粉だらけの手を避けて、立ち上がって横に並ぶ。
こうやって立ってしまうと本当に大きいと思っていた男の背に、自分がかなり近付いていることに今更ながらにティーダは気付いた。当然だ、足元に座り込んでいたような子どもではもうない。だと言うのに、なぜだかその事実をティーダはひどく新鮮に受け止めた。
「なんかさ、いいなあこういうのって思ってた」
言いながら先ほどと同じように背中に張り付く。抱き合うには照れくさかったから、この位置の方がティーダには都合が良い。目には見えない筋肉の動きを感じることもできるだろう。それは抱き合うよりももっとティーダの心を揺さぶった。
「おい」
白く手を汚したままのアーロンは、身体を揺することでティーダのこの動きに抗議したものの、ティーダはそれを無視した。
「いいじゃん、甘えたい気分だからさ、サービスしてよ」
そう言えば、アーロンは低く笑う。肌を伝ってその振動がティーダにもまた伝わった。
「すでに料理を作ってやっているというのに、これ以上サービスせねばならんのか?」
確かにそう言われればそうなのだろうが、離れる気にもならなかった。
「うん、でもいいじゃん。だめ?」
そう訊けばアーロンがティーダの願いを無視しないことはわかっている。他の人間に求めないスキンシップをアーロンにだけティーダは求める。おそらくはアーロンもそれに気付いているからこそ、なんだかんだ言いながらもティーダの甘えを受け入れてくれるのだと思う。
「せめて手だけでも洗わせろ」
不機嫌そうに聞こえる声にそれでも張り付く。
いい加減アーロンが焦れて怒り出す直前までにやめないと、それこそ雷が落ちるのがわかっていながらそれでもやはり離れがたかったからだ。
「おい、いい加減に…」
カウントダウンが始まったことを察してようやくティーダはアーロンの背中から離れた。なぜかひどく物悲しいような気分に陥ったのは、ぬくもりが消えたせいだ。おそらくはもっとも思い出したくもない悲しい記憶に繋がる思い出に触れているためなのだろうか、いつも以上にぬくもりがほしかった。
それでもアーロンがシンクに向かうに十分な空間をあければぺたりと濡れた感触が頬に当たる。
反射的に身を引こうとしたもののもう片方の頬にも濡れた手が触れた。反応する間もなく、唇が奪われそのまま腰にくるようなキスをされる。
戯れるように唇が触れたかと思うとそのまま息もつげないほどに深く口付けられる。舌を絡めついばむように唇で愛撫され、暖かいキッチンで行うには濃厚すぎるキスが繰り返された。
アーロンの手は頬にかかったままだった。普段ならば深い抱擁とともに与えられるはずのものが粉にまみれた手のおかげなのかそれ以上にはティーダに触れてこようとしない。それがひどくもどかしくて、腕を伸ばし首を抱きこむようにしてアーロンにすがりつく。
ああ、飢えていたんだと、そのときになってようやくティーダは気付いた。抱き合った後ですらまだアーロンが足りない。だからこそ自分のために料理を作ってくれとねだり、そのさなかに邪魔をするようなことをしている。
気付いてしまえば身体が止まらなくなった。ねだるように舌を伸ばし、アーロンの唇を舐めれば、再び深く口付けされた。
さらにはアーロンの唇があらぬほうへとさまよいだし、ティーダはうっとりと目をつぶる。
「お前が煽るのが悪いのだからな」
耳元で囁かれて背筋をぞくりと何かが走った。
べつにSEXを望んでいたわけではなかったのだが、その先をつい想像してしまうのはもうしかたのないことであったのかもしれない。アーロンの作った食事を食べるのと同様抱き合うこともまたティーダにとっては自分を満たす行為だった。おそらくはまたしばらくの間は会えなくなるかもしれない。ふとその考えがよぎればティーダは更に腕の力を強くした。
おそらくは抱き合いSEXをしたからといって、今の気分が完全に癒されることはないような気がする。それでもこの飢えを満たさねば、いつまでも餓えたままだ。
もっとと欲しがってしまえば際限がないことはわかっている。もっと自分を見てほしい、もっと触れてほしい。アーロンの作ったものを食べて、その思いを自分の中に取り込む。SEXをしてその感触をいない間は思い出しては自分を慰める。
まるで燃料のようだ。
実際、それがティーダの生きる糧であるのだろう。あれだけ幸せだと思っていてなお、ティーダはアーロンを求め続けてしまう。
「アーロン、ねえ…」
弾んだままの息で、名を呼ぶ。
だが、そこまでだった。ティーダ自身の身体がティーダの期待を裏切ってしまう。
アーロンにすら聞こえるほど盛大に腹がなった。一瞬絶句したあとに、噴き出した相手にどうしてやろうかと思ったものの、原因は自分である。しかも最低といっていいタイミングで鳴るのだからいたたまれない気分になるのも仕方がない。
「…お前らしいと言えばお前らしすぎるな」
「―――ひでえ」
力の抜けた腕の間からアーロンが離れてゆき、ティーダの手は後を追ったが空を切った。
「な、ちょっと」
さすがにこのままでは辛い。いや空腹もかなり辛いのだが、その気になってしまった自分はどうすればいいのだろうか。
「なら、食事はもっとあとになるぞ」
「う…」
自分自身でもそこで絶句してしまうのだから、更に情けない。
「でも、だってこれどうするんだよ」
半ば、諦めながらも先ほどのキスだけで息づき始めた自分自身の股間を指す。正直どちらの欲望も満たしてしまいたいと言うのが、ティーダの本音だ。
「水でも浴びて来い。ついでに顔も洗え。粉がついて真っ白だぞ」
「…っ、誰のせいだと」
たぶん自分のせいではあるのだろうが、それでもそう言うしかない。
「自業自得だと思うぞ。食い終わったらかわいがってやるから、さっさと手伝え」
先ほどまでティーダの興奮を煽っていた雰囲気はすでにアーロンの周囲から掻き消えていた。これ以上なにを言い募ったところで続きは今すぐには望めそうにない。ならば諦めて、空腹を満たすことをまずは積極的に考えるべきなのだろう。
泣きたいような気分でティーダは洗面所へと向かった。無論粉だらけになっているだろう自分の顔を洗って、ついでに興奮を冷ますためだった。
「あ、結構うまいかも」
「なんだその結構と言うのは」
ティーダの発した第一声に返ってきた言葉にティーダは慌てて、取り繕うように口を開く。
「えーっと、ゆでたのにバターかけるだけでなんかずいぶん違うなって。思ったよりジャガイモとチーズも合うし、今度からもっと作ってよ」
ティーダのつぶしたジャガイモの中に炒めた玉ねぎとちぎったチーズが入っているだけにしては、茹で上げた後熱く熱したバターをかけただけで素朴な味というのが一番かもしれない。だがそれななぜだかアーロンにひどく似つかわしいような気もする。
無理を言ってよかったと、ティーダは思った。
このままこの味を知らないだけならば、この食べ物は悲しい思い出にしか繋がらない。でも、こうしてアーロンに作ってもらってそれを食べて幸せな気分に繋げることができた。
「自分で作れ。俺がやっていたのをずっと見ていただろうが」
注視し続けたことを揶揄され、ティーダはうっと口をつぐんだ。
さすがに料理を作る手順などほとんど頭にはいってないとは言えない。それを自らばらすのは少々気恥ずかしい。
「え、だって、これはアーロンが作ってくんなきゃ」
半ば慌てて口にはしたが、なんだか理由にもなっていない言い訳だった。でも深くは考えていなかっただけに、それも理由のひとつのような気がしてくるから不思議だ。
「何だそれは…」
呆れたように問い返されて、ティーダは笑った。
暖かい陽の射すダイニングにふさわしい気分に、自然とうちから湧き上がってきたものだった。
「だってこれだけはアーロンが作ってくれなくちゃだめだよ。そして俺だけがこれを食べていいんだ」
初めて差し出された皿の上に乗っていたものと、おそらく変わりのない料理にフォークに突き刺し口に運ぶ。あの時ほかのどれでもなくこの料理が出てきたということは、おそらくアーロンもまた子供のころから慣れ親しんできた料理だからに違いない。
それを自分だけにと望むのは、とても当然のことのように思えた。
ティーダの言葉に、呆れたような表情を浮かべていたアーロンはだが、そうだなと同意してくれた。その言葉がうれしくて、ティーダは腰を浮かせて身を乗り出し、叱られるのもかまわずにアーロンの頬に唇を押し当てていた。
END
「GO FIRE」の山崎様の5万HIT記念のフリー小説です。
ティーダかっわいいんだ。アーロンには拗ねてみせたり、我が儘言ったりするさまが「ああ、二人とも本当に
お互いの事を思い合っているんだな」と感じられて読んでいて思わず顔がにやけてしまいそうです。
やっぱ山崎さんの書かれるティーダって、好っきだぁ!
もうどこがどう好きなんて説明出来ないくらい、全部好み。
アーロンもさ、ティーダには冷静な態度をとっているようにはちょっとみ見えるけど、でも我が儘を聞いて
お料理しているんだもんなぁ。
うん、二人共って熱々じゃん。
美味しい。美味しすぎます。お二人さん。
そしてこんな素敵なお二人のお話をフリーで下さる山崎さんってば、太っ腹!
ありがたーく、頂戴いたしました。うう、感涙。
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