「いらっしゃいませ。何かありましたら仰ってくださいね。」
章子は、満面の笑みを浮かべる。ただほとんどの客は無視して前を通りすぎて行くだけだった。
「お姉さん、ちょっとこれどうするの?」
時折話しかけて来るのは老人と相場が決まっていた。
「はい。ただいま参ります。」
章子は老人に近づいて行く。
”戻るボタン押したら戻るに決まってるのに!”
心の中でそう思いながらも、にこやかな笑顔でATMの操作を説明した。
「はあ...」
章子は、客が見えない場所でため息をつく。
銀行の受付を初めて2年が経とうとしていた。
”来年で25才になっちゃう...何やってんだろう..私..”
某一流大学の商学部を卒業して四菱銀行に就職した。
配属された支店はお金持ちが暮らす世田谷の目黒に近い支店だった。
章子の配属希望は、資金運用部だった。
その部は銀行の中枢機構だったが、成績だけを考えれば章子にも配属のチャンスはあった。
ただ、章子は頭脳としての才能だけでなく容姿も天から与えられてしまっていた。
銀行としては支店配属の方が元が取れると思ったらしい。
事実、章子目当てで来行する客が多かった。
しかもこの地区のお年寄りは桁違いの資金を持っており章子は抜群の成績を上げていた。
ただ、章子にしてみればまるで張り合いが無かった。
「章子ちゃんがいるからねえ。」
その一言で何億も定期を預ける客ばかりで投資説明など、どうでも良いかのように茶のみ相手を務めるのだった。
通常、総合職で入社した行員は1年で一旦本社に戻る場合が多かったが
章子はその客受けのよさから支店を動けなかった。
”やっとお昼休み..”
客廻りが無いときは受付をしている。
時間が経つのが遅かった。
この支店は、12,3人ほどの行員が働いていたが、行内にいる男性は、支店長含め3名だった。
ほとんどが女性だったが、総合職の女性は章子だけだった。
その所為なのか、章子が総合職というだけでなく人もうらやむ美貌を持っているからなのか、一部の一般事務の女性からは一線を引かれていた。
「幸恵。一緒にお昼どう?婚約したんでしょ?その話もあるし..」
章子が同い年の幸恵をお昼に誘う。
幸恵とは同い年ということもあり、行内でも仲が良い子だった。
「ごめん...」
幸恵は申し訳なさそうに断ると視線を右に移した。
そこには、30を少し過ぎた妙子がいた。
「あっ..気にしないで。」
章子が幸恵に返答する。
妙子も2人の様子を伺っていたようで幸恵が妙子の元に近づいてくると笑みを浮かべながら章子に一瞥の視線を送ってくる。
少し若いが、いわゆるお局様だった。
章子がこの支店に来るまでは、支店長のお気に入りの子で、そこそこの可愛らしさで人気もある子だった。
「章子さんの行くような高級なお店に事務員は一緒に行けませんわ。」
妙子が章子に嫌味を言う。
「そんな凄いお店に私行きません。お給料だって妙子さんと変わらないし...」
思わず、章子が反論してしまった。
「私は10年近く働いてるのよ。自分は、若いって言いたいの?」
妙子は気にしている歳の事を遠まわしに言われたと逆恨みする返答をする。
”もう..埒が明かない...”
章子は気にしないように妙子を受け流すと一人昼食に向かった。
”仕事..やめようかな...”
久しぶりに章子は弱気になる。
なんとなく銀行に戻るのが嫌だった。
”半休取っちゃおう...”
普段真面目な章子が支店長に連絡すれば、何の問題も無い事だった。
章子は携帯を取り出すと支店長に電話を掛けようとする。
”けど..何か負けたみたい...”
そう思うと章子は電話を掛けるのをやめる。
「午後もがんばっちゃお!!」
自分に言い聞かせる様に、章子は歩きながら両手を上げ背伸びをする。
その決断が章子の人生を狂わせることになるとは、この時まだ章子は知らなかった。
昼食を終え支店に戻る。
そしてまた章子は受付を始めた。
ほとんどがATMの利用方法の質問ばかりで時間が過ぎていく。
時間は、15:00を迎えようとしていた。
銀行業務は、15:00からと言っていいほど店頭業務が終わってから勘定が始まる。
勘定は事務の仕事だったが、章子は確認のため抜けることができなかった。
”勘定が合えば良いけど...”
1円でも足りないと厄介なことになるのだった。
そろそろ閉行の時間と思った時、一人の薄汚い男が入ってくる。
「いらっしゃいませ。」
章子はATMに案内をしようとする。
するとその男は章子に近づいて来る。
”外見で判断しちゃだめ..”
章子はそう思い直す。確かにこの地区の客は見てくれと資産のギャップが激しい。
大根を抜いて泥だらけおじいさんが、お土産と大根を章子に渡しながら、10億の定期を作った事もあった。
「どのようなご用件でしょうか?」
章子が笑みを浮かべようとした時、男の体臭が章子に向かう。
”臭い...”
饐えたような匂いだった。
「会社の運営資金を回してもらいたいんだが。」
「ご融資ですね。」
章子は丁寧に答えてよかったと思った。
”事業うまくいっていないのかしら...”
人間、追い込まれると風呂などに気を取られては居られない。
ただ、そんな会社においそれと銀行も金を貸す訳には行かなかった。
「どのくらいの融資額ですか?」
さらりと章子が確認する。
「..できれば1億ほど。」
ぼそりと男がつぶやく。
そのころになって廻りの客も、この男の体臭に気づいたようだった。
怪訝な視線を男に向ける。
「キーンコーンカーンコーン」
15:00終業のチャイムが鳴った。
そのチャイムが、男の違和感を緩和した。
客も怪訝感よりも、自分の預金の操作に集中する。
章子はその隙に男を奥の部屋に案内する。
この汚い男に部屋を汚されるのは嫌だったが、銀行の規定で1億以上の商談はこの部屋と決まっていたし、
決済は支店長がしなければならない。
なにより、他の客からこの男を隔離したかった。
奥の部屋に案内すると、男は応接ソファーに座る。
「支店長を呼びますのお待ちください。」
章子はそう言って部屋を後にする。
「支店長。」
章子は支店長の中田を呼び経緯を説明する。
中田は章子の話を聞き終わると、周りに指示した。
「融資の話をしてくるので、終業して勘定に入ってください。」
支店長の話で、行員は終業業務に取り掛かる。
「幸恵君。お茶持ってきて....紙コップで良いや。」
中田は、章子に男の風体を聞いてわざとらしく鼻を摘み幸恵に笑いかけた。
「はい。 支店長。」
幸恵の返事を聞くと、中田と章子は応接室に向かった。
「ご、ご融資のご依頼と?」
部屋に入ると中田が話を切り出した。
思わず噛んでしまったのは、その男が章子から聞いていたのよりはるかに汚く臭かったからだった。
「一億ほど借りたいんだ。」
男が一言つぶやく。
「会社の経営ですか?」
「まあな。」
その時、応接室のドアをノックし、幸恵がお茶を運んでくる。
幸恵が奥に廻り、予定通り使い捨ての紙コップを男の前に置いた。
その時だった。
事もあろうか、紙コップを置こうと伸ばした腕を男が掴み幸恵を羽交い絞めにする。
章子だけでなく、中田も固まる。
「騒ぐな。動いたり、声を挙げたりするな。」
一瞬の出来事だった。
男の手には短銃が握られていた。
「わ、解りました。馬鹿なことはしないで!」
章子が答える。
中田は、訓練の時とは正反対に、小刻みに頭を振るだけだった。
「よし。お前。」 男は幸恵を羽交い絞めにしたまま、中田に指示した。
「戻って、全員をそこの真ん中に集めろ。俺の指示だってばれないようにしろ。
もし気が付かれたら..バーン だ。」
そう言って、中田の頭を銃口で小突いた。
「ほ、本物...」
中田が恐怖のつぶやきを吐く。
「これか?」男はそう言いながら、銃を指差した。
「ルパン3世愛用のP-38軽くて良いよな。玉も軽いし。」
男は笑いながら、ポケットからジャラジャラと38口径の薬莢を取り出す。
”非常ボタン..”
章子は訓練で教わった、非常ボタンを確認する。
そのボタンは、この応接室には無かった。
ボタンが設置されているのは受付の机の下と、入り口のATMの脇だった。
「わ、私も支店長を手伝います。」
章子は、少しでも非常ボタンに近づこうとする。
「駄目だ。お前頭良さそうだからな。」
男は章子の要求を却下する。
そして中田を催促した。
「大切なお客様のお見送りとでも言っておけ。非常ボタンを押す仕草をできないように、両手をポケットに仕舞っておけ。」
男は銀行の仕組みを知っているかの様だった。
万が一の時の非常サインは、指で行うのだったが、ポケットに手を仕舞ってしまうとそれすらできなかった。
「行け。」
男は中田を戻らせた。
中田は平静を装いながら応接室を出る。
もう逆らう気も無かった。 恐怖を抑える事だけで一杯一杯だった。
「皆さん。 業務を止めてこちらに来てください。」
支店長の言葉に、全員が注目する。
「高額なご融資を賜りました。皆様でお見送り差し上げます。」
前例の無い事だったが、中田の表情は真剣そのものだった。
笑みすらない中田の態度に全ての行員が手を休め受付前のスペースに並んだ。
その様子を影で見ていた男は満足そうだった。
「お前ら2人も一緒に並べ。但し、手は頭の上に置きながら行け。」
章子と幸恵は、指示に従うしかなかった。
外では行員がひそひそ話をしていた。
「さっきの臭そうな薄汚い男でしょ?」
「大金持ち? 見た目じゃないわよね。」
「私、臭いの我慢しちゃう。」
ただ、そのひそひそ声が、一瞬で静寂になる。
応接室から出て来たのは、頭の上に両手を乗せた章子と幸恵だったからだ。
全員が何事かと固まった絶妙のタイミングで男が出てくる。
「出迎えご苦労。大きな声を出さないように。」
汗臭い匂いがまた行内を巡る。
そして、行員の集団の真ん中に銃口を向けた。
「きゃっ。」
小さな悲鳴が幾つか上がる。
「今、声を出した女。前に出ろ 殺すから。」
男の声が響いた。