特殊学級担任の拠って立つところ


■ぼくが今仕事をしている特殊学級の担任とは一体何なのだろう、その拠って立つところの足元を考えることが最近増えてきた。

■今,手元に1999年度「障害児教育運動全国学習交流集会報告集」なるものがある。その中からいくつか印象に残ったものを抜粋してみる。

 1,埼玉の報告である。「特殊学級は担任の力量で教育が大きく違う。親の特殊学級選びがある。学区を緩和する動きの中で,この問題をどう考えて,どんな取り組みをしていけばいいのか。特殊学級全体の教育力を高める課題は大きい。」

 2,東京では,通級の情緒障害特殊学級が増えているとのこと。その背景には,普通学級に在籍する障害を持つ子への対応として,籍を移さないで一定のケアができる特徴を生かしながら,その経過の中で親と一緒に子どもの教育を考えて行こうというシステムが大きくなっていることを意味する。

 3,大阪の話「養護学校が非常に少ないという事情もあるが,ほぼ,すべての小中学校に特殊学級がある。府立の養護学校と市立の養護学校,特殊学級の担任の3者が共同して,さまざまな取り組みを行っている。特殊学級では,子どもの数が増えているのに教員の数が減らされている。リストラだ。先日,障害児を持つ親を対象に「何でもしゃべろう会」を開いた。親   と手を組んでいこうと声をかけたら多くの人が集まってくれた。親と共同の取り組みなしには,こうした問題は解決しない。

■若干の感想を述べてみる。

 1について。これは何も埼玉だけの話ではない。親の特殊学級選びは本県だってある。ぼくは,親から今まで何度もそういう話を聞かされたことがあるし,事実も知っている。親はそれくらい自分の子どもの担任が誰になるか切実なのだ。担任の当たり外れの大きさは普通学級の比ではない,こういうふうに言う人さえある。

 2について。ぼく自身が今現在情緒障害特殊学級を担任しているからわかることなのだけど,情緒障害特殊学級はいずれ通級が主流になっていくだろうと思う。ことばの問題ではない,知的な問題だけでもくくれない,そんな子をケアするニーズは増えている。今のぼくにはそこまで十分手が回っていかないというのが率直なところだ。この傾向は今後とも,どんどん高まっているし,ますます,増えるだろうと思う。

 3について。養護学校には養護学校にしかない存在価値があるし,そちらの教育のシステムの方がよりいいと思われる子どもがいる。ただ,そこを親が納得するまでの過程をいっしょになって考え支えていくのは,担当者にそれ相応の力量を必要とする。いわゆる就学指導という問題だが、そこの部分が現在十分に行われているかというとはなはだ心もとない気がするのはぼくだけであろうか。
 親との共同の取り組みに関して言えば,実態は親の方が担任よりはるか先に意識がすすんでいることも少なくない。むしろ,教師の方が後追いしているケースだ。例えば,ぼくが通級で担当している子の親には,自閉症の学習会があると聞けば,わざわざ,その時の講演テープを持ってきてくださる方がいる。その方は自閉症の学習会だったら,時間とお金さえあれば,日本全国どこにでも行きたいというような方である。そういう親と付き合いながら思うことは,親との共同というのはただ単に仲良しになることではないし,一緒に考えていくというような甘い感じでもない,ベースとしては,親にこちらがどれだけ質の高いサービスを提供できるか,そのために,自分がどれだけのことをしているかが問われる,そんな気がする。

■ぼくの知っている特殊教育を担当している方でこういう人がいる。
 ある親が「あばれるので,自分の子どもを床屋に連れていけない。」と訴えたという。その人はどうしたか。その子の特徴を伝え,切ってくれる床屋を捜しだし,予約するところまでして,親に連絡したという。
 そこまでするのは必要かどうかは別として,その人はこう言い切る。
 「特殊教育というのはサービス業なのよ。わたしたちがどれだけのサービスを与えられるかが大切なのよ。」
 その言い切り方は別にこんなものよ,とわりきっている感じでも,そうすべきだという堅い感じで言ったものでもない。長年特殊教育をやってきて今落ち着いた思いを自然に吐露するという感じで話したのだ。

■ぼくはその言葉に深く感銘する。そして、これは蛇足だけれど,それに付け加えて思うことは,もし,仮に自分ができないサービスだったら,どこにいったらそのサービスを受けられるかの情報,ネットワーク(もはや,それは教育の分野だけを意味しない,福祉,医療の分野との連携も視野に入れる必要がある)だと思う。時代はすでにそういう時代に入っているのだろうと思う。