教え子からの手紙
-書くことの意味-
■教師をして、15年たった。その間に多くの文章を書いてきた。子どもたちにも書かせてきた。その背景には、多くの「書く」ことを大事にする仲間の教師の存在があったからだと思う。それらの尊敬する教師たちにぼくは教師として生き方を学んできた。そして、励まされてきた。
■ぼくが、子どもたちに文章を書かせる時、言ってきたことは、こんなことだ。
「書くのはしんどいことかもしれない。私もそう思うことが多い。でもね、書くってことはねえ、とても大事なことなんだ。書くことで自分の考えが深まるからだ。自分の弱さや良さが自分に見えてくるんだ。生活していくと、いろいろ悩んだり、悲しんだり、うれしかったりすることがあるでしょう。そんな時、ふっと時間の流れをとめて、自分と向き合ってみる。向き合うには書いてみることが一番いい。書くことで、自分が整理されていく。自分が確かになっていく。」
子どもたちの作文を読む。ぼくがいいと思う作品は、「ああ、この子はこの作文を書くことで何かが自分の中で変わったのではないか」と感じられる作品だ。誰のためではない、自分と向き合いながら書く。その営みを通して、書く前の自分とは違った思いに立っている自分に気がつく。そこに何よりも書くことのすばらしさがあるのだと思う。
■数年前、教え子がたずねてきた。その子はいろんなことがあって、学校を休みがちになっていた。
「学校に行かない時、家でどんなことをしているの?」
と聞いた時、彼はおもむろにカバンの中から何枚もの原稿用紙を出してきた。そこには多くの詩が書かれてあった。いろんな悩みがある。その中で彼は書くことで、(読んでもらうことで)自分を保っているのだと思った。
こんな詩がある。
自分をよく見ろ
私の詩は自分を見ることだ
自分を見るとたまに
スッと頭の中にアイデアが
浮かぶことがある
つまり
自分をよく見て
心の中を探ることで
だいたいの詩はできるのだ
自分に嘘をつかずに
心の中を探ることだ
結構難しいのではないか
自分の本当の姿を知るのはこわい
私から見た自分の姿は
勇気はあるが寂しがりやってなぐあいだ
自分に嘘をつかず
自分の心を見つめる
そうすれば
詩は書けるんじゃないだろうか
また、こういう詩もある。思春期に入り、観念的ではあるにせよ、最後の四行はわれわれに対する痛切な批判である。
善
善って何?
悪人をたたいて改心させること?
でももし
悪人と呼ばれる人が
人をたたいて
悪人と呼ばれているなら
改心させようとして
たたいたとしても
その人も
悪人と呼ぶべきではないか?
これは
私の考えなのだが
改心させるのなら
ただひたすらに
情を分けあたえるしか
ないのだと
思うのである
■教え子が帰った後、ぼくは、こう思わざるをえなかった。
「彼にいろいろなことを教えていた2年間、ぼくは彼にもっとできることがあったのではないか(その思いは今も胸のどこかにつきささっている)。」そして、
「この教え子のために、今のぼくにできることは何だろう。」と考えた。残っていることは手紙を書くぐらいのことだった(手紙を書くぐらいのことしかできない自分がもどかしかった)。
何を書いたかは定かではないが、おかれている条件も厳しいこともわかっていたので、どうのこうの要求することは書かなかった。ただ、最後に、
「いろんなことがあると思います。
でも、書くことで、
どうか今の自分を乗り越えてほしい。」
といった内容の文を書いたことを記憶している。
今後も、尊敬する多くの「書く」ことを大事にする仲間たちに支えられながら、ぼくは「書く」ことの意味を問い続ける教師でありたい、そう思っている。