新記録の達成を
父は現在,67歳です。ずいぶん,年をとりました。父が言うには,40歳か
ら飲み始めたいうことですから,今から27年前になります。
その頃の私は中学生でした。思えば,その頃から私の悲しい思い出が始まった
と言えます。当時,中学生,小学生,保育園児の娘を抱えて,まだ三十代の母は
色々な意味で大変だった思います。というのは,早くに夫を無くし,3人の子供
を女手一つで育てた気丈な姑がいたからです。姑はきつい性格でしたし,また,
父はあまり働くタイプではなかったのですから。
父と母がケンカをしている時は,姉妹3人で部屋の片隅で,泣いていたことを
覚えています。私には親子五人で仲良くしている写真がありません。いつもケン
カが絶えなかったのです。
高校に進んだ時は,父が事業をしていて,他の友達よりもお小遣いが多いとき
もありました。私は父の仕事にあまり関心がなく,母は常に忙しく,私たちに愚
痴をこぼすタイプではなかったので,家がどうなっていたのかを全然知りません
でした。
しかし,そんな私でも高校2年生の時の進路を決めるときは迷いました。とて
も,経済的に家が困っていたからです。私は就職希望と担任に提出しました。ど
こで,それを知ったのでしょう。父は担任に会い,進路を大学進学に変えていま
した。「これからの世の中は女でも学問が必要だ。」という理由から。今,私は
小学校の教員をしていますが,現在,この仕事につけたのは,その時の父の言葉
もあったからだと思います。
私は進学にあたって,もちろん,親からお金は一銭ももらわずに学生生活を送
りましたが,家にお金を入れることまではできず,経済的に苦しい事には変わり
はありませんでした。3歳年下の妹の進学も迫り,妹はお金のかからぬ横浜の高
等看護学校を選択しました。高校卒業時に,既に準看護婦の免許を持っていた妹
は,学生ながら週末の夜勤のアルバイトで貯めたお金を家に仕送りをしてくれま
した。
そんな中でも父はお酒を止めず夜中にタクシーで帰ってくるのです。私が22
歳の時に,母は病院の付添婦をするために,出稼ぎに行くことになりました。家
に残っていた中学生の妹の面倒をみることが,大学を卒業していた私の仕事の中
に加わりました。妹の高校への進路相談の三者面談にも行きました。その頃,母
がいないことで妹は心に深い悩みを抱えていたのを私は知りませんでした。今,
思うと妹の心に寄り添えなくて,申し訳ない事をしたと思っています。
大学を卒業しましたが,すぐに正式な教員になれなかった私は老人ホームの事
務を1年勤めました。その頃でも,父は家電などの新製品は発売されると,すぐ
に購入していました。物を買うとさっぱりするのでしょう。支払いまできれいに
忘れてくれます。電話や請求書が来る度,支払うのが私の仕事でした。本当に色
々な所に頭を下げて歩きました。まだ,その頃の私は20代前半でしたので,自
分ばかりが不幸だと思っていました。周りの友達が何の苦労もしていないように
見えて,ずいぶん卑屈な態度をとっていたと今は思います。銀行の通帳を何冊も
かき集めて,払い戻しをして千円札1,2枚にして嬉しかったのが,この頃のこ
とですから,そうなったのも仕方ありませんでした。
正式に採用されるまでに3年かかり,教員には25歳で採用されましたが,父
は私の職については何も言いませんでした。普通は「教員をあきらめて,スーパ
ーでも勤めろ。」というところなのでしょうが,黙って私の気の済むようにさせ
てくれたのです。その点は進学を勧めた点と似ています。女にも一生続ける職が
必要だということを分かっていたのだと思います。
教員になり,安定した給料をもらえるようになっても,家が苦しいことには変
わりはありませんでした。母から送られてくる沢山のお金を仕分け,迷惑をかけ
ているところに送金します。でも,知人に知られると恥ずかしいので,学校のあ
る町内からは送らず,隣の市まで出かけ送金していました。また,公務員ですか
らボーナスをもらいます。でも,自分の自由にはならず,職員室で,
「何に使うの。」
と聞かれても,冗談に
「普段,買えない洋梨の缶詰を買うわ。」
と笑って答えていましたが,それは冗談ではなく,本当の事でした。
父が新たな借金をしなくなったこともあって,余裕が少しずつ出て来ました。
私も自分の将来のことを考えていました。3人姉妹の長女ということで小さい頃
から,家を継ぐのは私だと言われ続けていました。既に30を2つ越えていまし
た。その頃,知人の紹介で夫と出会い,彼は将来,親と同居してもいいと言って
くれたのです。もちろん,いろいろな障害はありましたが,披露宴に至ることが
できました。
2年後に男児が生まれ,4年後に女児が生まれました。その頃には母は14年
続けた出稼ぎを止めておりましたので,子供をみてもらうためにも同居をするこ
とになりました。しかし,また父の酒害に寄る苦労が始まりました。
飲めば人が変わってしまう父が家で,私の帰宅時には既に飲んでいるだろうと
思うと,家に帰るのがおっくうでした。慣れてる私でもそうでしたから,夫はも
っとつらかったと思います。夫は夫婦仲がよい家庭に育っているので,うちの父
や母のやりとりが耐えられなかったと思います。でも,私はなにもできませんで
した。
そんな中でも夫は「父をアルコール依存症から引き離す」ことのために,活動
を始めました。パソコンから資料を取り出したり,関連の本を買ったり,図書館
から借りてきては,私に読むようにアドバイスをしました。父や母にカウンセリ
ングを受けさせたりとできる限りのことを行い,考えられることに手をつけてい
きました。と同時に彼は,父が酔って帰って彼に暴言をはいても,動ぜず,父を
カウンセラーのように諭し,寝処へ連れて行くのでした。
でも,彼も何日も続くと,疲れてていくのが分かりました。そんな2月の初旬
(2000年),父が○○病院に行くことに同意してくれました。一歩前進
です。
その日の朝は不安でした。気がすぐ変わるで,行かないと言うのではないか。
温泉に行くといって逃げられるのではないか。しかし,その日は夫が休みをとっ
てくれて,父は抗酒剤をいただいて来るところまでつながりました。またまた,
少し,前進です。
その日から,既に3カ月がたとうとしています。この記録をずっとずっと死ぬ
まで延ばしてほしいものです。
うちの5歳の息子が
「おじいちゃん,今日低い声で話していたよ。」
と教えてくれたりします。その意味はつまり,かん高い声を出さなかったという
事です。精神的に安定して過ごせたとのでしょう。(父の神経に障ることを母が
言わなかったということにもなります。)父と母のケンカを見ていると,本当に
素直で優しい息子がとても悲しい言葉をいったりします。5歳なりに父の言動を
心を痛めているのです。私たちが幼い頃に感じたように。
父は孫をよくかわいがっています。私や母の目を盗んでは甘いおやつを子供達
に与え「いい人」になろうとしています。特に3歳の娘には甘く,娘が言う一言
一言に目を細めています。私はそんな父を見ていると,とても幸わせな気分にな
ります。色々あった今までが嘘のような感じさえしてきます。
私が夜1階の居間に顔を出すと,父と母が一緒にソファーに座りテレビを見て
いました。他の人には,何のこともないような事ですが,私にしてみれば驚きで
す。そんな穏やかな2人の姿を目にしたことはないのです。テレビ番組の興味も
違う2人がチャンネルの事で言い争いをせずに,静かにテレビを見ている。そん
な光景が私にはとても嬉しかったのです。いつまでも2人が穏やかにこのように
暮らしてくれたら,妹たちも安心するでしょう。また,父と母の一生を面倒を見
ることも苦ではありません。(今までのことを考えたら。)
また,断酒会に参加するようになってからは,家族の立場だけでなく,酒害に
苦しんだ父の立場からものを考えることができるようになりました。会員の皆様
の体験を聞くと「なるほど,そうだったのか。」と思うことがあるからです。と
ても勉強になっています。これからも断酒会の皆様のお力をお借りして,父の断
酒の記録を日一日,一日と延ばしていけるように努力したいと思います。
今日はどうもありがとうございました。