数日前の日記で書いた祝儀麻雀に対する考え方のように、昔と今で考え方とか捉え方が変わってきた物がもう一つある。
それは、フリー雀荘では必ずと言っていいほど遭遇してしまう、いわゆる「マナ悪の打ち手」に対する考え方とか心の持ち方だ。

昔は自分は、対局中の発声や仕草なども含めたマナーには…人一倍、うるさい方だった。
それ故に少しでも不快な、人を小馬鹿にしたような申告をされただけですぐにカチンと来ていたし、点棒を投げるなんてもってのほか、
4cmの手牌を片手倒牌で和了されただけでも「…片手で倒牌するのは止めてもらえます?」といちいち自分から注意していたほどだった。

これはもちろん、当時はノーレートのフリーで麻雀を打っていたから(他人のマナーに特に気を咎めていた)という要素も大きかった。
金を賭けない麻雀に求めるモノを考えた時、行き着く先はどうしても「楽しく」とか「マナーよく」という方向になる。

でもそういう場で他人に対して威圧的な態度を取ったりとか、嘲笑するような態度を取る(人間がいる)事自体がもう、
自分にはどうにも理解の出来ない部分だったし、「あんたは一体ここに何をしに来てるんだ?」みたいな気分にさせられてしまっていた。
そんなに威張りたいなら他所に行けよ、などと思う時点で自分がイラつかされている訳だし、結局はそういう出来事を繰り返すうちに…
いつの間にか人一倍、対局中のマナーの類には敏感になってしまったような気もする。

それにわざわざ金払って不愉快な思いはしたくない、っていう単純な思いもあった。
ノーレートでマナ悪と当たると本当に、あ〜俺はここで一体何をしてるんだろう、とか往々にして時間の無駄さを痛感してしまうし。

でも最近は、この思考も少し変わってきた。
そもそもまず他人の言動にむかつかされている時点で自分にはデメリットしかなく、そういう感情を働かすだけ無駄に思えてきた、
ってのが一つ。そういうマナ悪に対して報われない労力を裂くのが無駄に思えてきた(気付いてきたと言った方がいいのかも知れんが)
だからもう放っとこう、と割り切れるようになってきたのがある。これは経験から来る物なのか、単なる心変わりか自分でもよく分からん。

そしてもう一つ…これが一番大きい部分だと思うんだけど、自分自身の麻雀にある程度の自信が付いてきたから、ってのがある。

マナーの悪い奴に対してこちらが行う最も有効な行動は、その行為を諭す事でもなく、ましてや対抗してこちらもマナ悪に振舞う、
なんて事ではない。そんな事よりも遥かに有効な手段…それはただ黙って勝つ事だと、それが最も有効な手段であると気付いたからだ。
結果は他のどんな雄弁な言葉よりも、どんなチッポケな不愉快の積み重ねよりも圧倒的に力強いし、フリーではある意味それが全てだから。

それでも確かに短期勝負では偶然性に大きく左右されるのが麻雀だし、時によっちゃド下手のマナ悪にボコられる事もあるだろう。
でもそういう要素も有り得るという事も認識出来た上で、どんな奴に対しても大らかに振舞えるのって何かカッコイイじゃないですか。

偶然性の魔力に負けてボコられようが、そこでマナ悪にやりたい放題やられようが、それでも自分は「でも最後に笑うのは俺だから」。
その心構えこそがマナ悪に対しての最大の防御手段にもなるし、そこで相手の言動ごときで動じない強さも出来るんじゃないかって気がする。
(自分自身の実力を正確に認識出来ていればこその話ではあるけれど…w)

フリーでマナーの悪い奴にヒットした時の最大の対処法は、何も慌ててラス半コールするような事じゃない。
ただその不愉快な言動に何ら左右される事無く、自分の麻雀を打って普通に勝てばいいだけだ。
(…多少、風呂敷広げすぎ発言かも。笑)


などと言ってはみたけど、一応やってる方も人間だし、それ故にどうしても腹の立つ事や我慢の出来ない事もあるだろうし…
今回の考えは多少「理想論」に近い部分があるかも、って認識は一応持っています。
でもまぁ結局は対処しようのないモノだし、単純に少しでも自分の負荷は下げた方がいいかなとは思う。


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